S

抜殻

S

「最近、佐渡の様子がおかしいんだ」

 と、瀬川さんが言った。鈴木は、はぁと気のない返事をする。

「いつもコピー紙みたいに無表情な奴なんだけどよ、最近は妙にニヤついてたり、上の空でぼうっとしてたり、普通じゃねぇんだよ。なにより、変な匂いがするんだ」

「変な匂い?」

「なんていうか、トイレの中で嗅ぐような、色々とない交ぜになったような匂いだよ」

「趣味の悪い香水でも、付け始めたのかもしれませんね」

 そうだ、香水だと、瀬川さんが英単語を思い出した学生みたいに言う。

「お前は、香水ってどんな時に付ける」

「そりゃあ、オシャレしたい時とかじゃないですかね」

 鈴木は香水を付けたことなどないから、どんな気分なら付けようと思うのか、など知るわけがない。ありきたりで大雑把な回答しかできなかった。

「恐らくだが、これは女だ」

 瀬川さんは、正解を発表するような口ぶりだった。

「佐渡が、実は女だったってことですか?」

「違ぇよ、女ができたって意味だよ」

 再び、はぁとため息のような返事をする。

「女なんて、俺にだっていますよ。それのなにが問題なんです」

 あのなぁ、と瀬川さんが呆れたような声を出した。そんなことも分からないのか、と昔教師に馬鹿にされた時のことを思い出す。

「佐渡の仕事は知ってるだろ。あいつは、俺の仕事について色々と知りすぎてる。もし、佐渡にできた女が、誰かに雇われたハニートラップの類だったらどうする。佐渡に女ができるのは、安全保障上の問題なんだ」

 瀬川さんはよく、大げさな言葉を使う。きっと、職業病なのだろう。人を騙して金を取る、いわゆる詐欺師と呼ばれる仕事をしている瀬川さんは、些細な表現を誇大に言い換えるプロだ。小難しい単語を並べたり、聞きなれない横文字を駆使して、相手を不安にさせるのだ。今の言葉は、どういう意味だろうと考える間も与えず矢継ぎ早に喋り、重要なことをうやむやにしてしまうのだ。

「佐渡にできた女が、ナチュラルな、相思相愛の関係でも問題だ。佐渡が、なにかの拍子にうっかり口を滑らせるかもしれない」

 そんなに心配なら、一人で仕事をすればいいのに、と鈴木は思うが口には出さない。詐欺師に正論は通用しないのだと、かつての上司が言っていた。

「それで、俺はなんで呼ばれたんですか」

 瀬川さんは、自分でも鈴木を呼んだ目的を忘れていたような顔をしてから、咳ばらいをした。

「佐渡の奴を尾けろ。で、女と接触しているような消せ」


 佐渡は、業界ではサド侯爵を呼ばれている拷問屋だ。長身で、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしている。浮世離れした気品漂う物腰と、仕事振りからそう呼ばれている。

 人間を雑巾に変えてしまう、というのが佐渡の仕事ぶりを表す噂だ。それだけ聞くと、まるで魔法でも使って姿を変えてしまったように聞こえるが、現実には口では表せないほどの凄惨な拷問をするらしい。表情一つ変えずに、料理でもするかのように人間を解体していくそうだ。

 職種の違う鈴木は、佐渡と会ったことはない。パイロットと船長が、仕事で顔を合わせないのと同じだ。


 インターホンを鳴らすと、ドアの向こうで音がした。しばらく経ってから、鍵が開く。篠田が、ドアチェーンが掛かったままの隙間から顔を出した。

 鈴木の顔を見ると、一度ドアを閉める。カチャリとチェーンの落ちる音が聞こえたと思ったら、ドアが大きく開かれ、鈴木は強引に引っ張られて部屋に入れられた。

「なんだよいきなり。痛ぇなあ」

 篠田の腕を振り払って、掴まれたところを摩る。

「あ、ごめん。あんまり、扉を開けていたくなくて」

 篠田が、鍵を閉めながら振り返る。

「それで、なんだよ。ストーカーって」

「そのさ、西側の窓から、外を見てくれる?そっとだよ、そっと」

 鈴木は言われた通りに、西側の小窓に近づいた。体を出し過ぎないよう、窓際の壁に張り付きながら、そっとカーテンを持ち上げる。

 窓の外には、夜の闇が広がっている。窓の外に灯りはほとんどなく、鈴木はガラスに反射する自分の顔の向こう側に意識を集中させた。篠田の部屋からは、アパートのひび割れた塀が見下ろせる。塀の向こうには狭い道路があり、芯のように電柱が生えている。

「電柱の陰に、誰かいるでしょ」

 鈴木は、じっと目を凝らしてみた。だが、電柱の陰には誰もいないように見える。

「え、そんな。嘘でしょ」

 と言って、篠田が鈴木の隣に来て、窓の外を見下ろした。

「あれ、ほんとにいなくなってるわね。たしかに、あそこに誰かいたんだけど」

「気のせいだったんじゃねぇか」

「いや、絶対私の部屋を見てたのよ。ここ角部屋だから、あの電柱の陰に立って見えるのは私の部屋だけよ」

「不本意だが、俺を彼氏かなんかだと勘違いして、諦めて帰ったんじゃねぇか」

 鈴木は、篠田の話の真偽を確かめる気もなく、いないのなら帰ってしまおうと窓を離れる。ドアに足を向けたところで、篠田に肩を掴まれた。

「ストーカーってそんな簡単に諦めるものかしらね」

「知らねぇよ、俺はストーカーじゃねぇから」

 ストーカーまがいの仕事はしているが。

「俺は明日も早くから仕事なんだよ。追い返すだけならまだしも、一晩中見張ってるなんて嫌だぜ」

「仕事と私、どっちが大事なのよ」

「仕事に決まってんだろ、気色悪い。だいたい、なんで俺なんだよ。人が寝てるところに電話なんか掛けてきやがって」

「鈴木君って、昔から物騒なことには慣れてるじゃない。だから、ガツンと一言言ってきてもらおうと思って」

「そんなもん俺に頼むなよ。警察呼べよ、警察」

「こんな夜中にサイレン鳴らしたパトカーが走ってきたら、近所迷惑でしょ」

「俺には迷惑かけていいのかよ」


 欠伸を噛み殺しながら待っていると、佐渡がマンションから現れた。瀬川さんから聞いた話だと、佐渡は最近引っ越しをしたらしく、そのことも怪しがっていた。どうせ、女と同棲できる場所に引っ越したんだろ、というのが瀬川さんの推理だった。待っている間に、佐渡の物件について検索してみたが、たしかに一人で住むには大きな部屋だ。防音や防犯にも気を配っているらしい。

 飲んでいた缶コーヒーを置いて、跡を尾け始める。佐渡は今日は休日なのだと、瀬川さんから聞いている。というよりも、休みに合わせて尾行をするよう頼まれたのだが。ようは、デートの瞬間を抑えろ、ということだ。鈴木は、昔バイトをしていた探偵事務所では、人を尾け回した記憶はなかったな、と思い出す。

 マンションから出てきた佐渡は、くたくたのワイシャツの上に、くたびれた襟付きの黒いコートを羽織っていた。髪は長くてボサボサで、とてもオシャレに目覚めたようには見えない。だが、写真では分からなかった妙な魅力のようなものが、実物を見ることで感じられた。

 どうしたって女に会いに行く格好ではなかったが、佐渡自身の魅力なのかみすぼらしさは感じられない。じっと見ていると、なんだか流行の最先端を行くモデルのような雰囲気まで漂い始め、あのずぼらな格好も一種のオシャレなのではないかと思えてきた。もし鈴木が同じ格好をしていたら、ホームレスと間違えられてしまいそうな、紙一重のオシャレだ。すれ違う人々も、佐渡の魅力に当てられてか、時折振り返って二度見をする者もいた。当の佐渡は、他人の目など気にならないのか、堂々と道を歩いている。

 昨日の夜、ほぼ今日だったが、篠田にストーカーの相談をされた鈴木が、今はこうして佐渡の尾行をしていると思うと、なんだか馬鹿らしい気分になってくる。しかも佐渡が、女と密会する現場を確かめようというのだから。

 バイト時代、不倫調査をしたことはなかった。鈴木の雇い主は、探偵が務まるのかと不思議に思うほど気弱な男だった。鈴木は初め、事務所の電話番として雇われていたが、探偵の仕事というものに興味があった鈴木は助手の仕事を申し出た。ホームズで例えるなら、ワトソンの役だ。男は一回りも年下の鈴木に押し切られ、鈴木をワトソンにした。

 が、結局探偵業というは退屈な仕事なのだと分かって、鈴木は一年経たずにワトソンではなくなった。男の元に来るのは、迷子の犬猫を探してくれ、という依頼ばかりだったからだ。

 その後鈴木は、学生時代の先輩のツテで危ないバイトをしているうちに、気づけば物騒な世界から抜け出せなくなっていた。スリルはあるが、リスクに似合うほど稼いでいるかと言えば、まったくそんなことはなかった。映画の中の殺し屋たちのように、高級車に乗って最高峰の支援を得られる、というのは業界で上澄み、佐渡の様子がおかしいんだ」

 と、瀬川さんが言った。鈴木は、はぁと気のない返事をする。

「いつもコピー紙みたいに無表情な奴なんだけどよ、最近は妙にニヤついてたり、上の空でぼうっとしてたり、普通じゃねぇんだよ。なにより、変な匂いがするんだ」

「変な匂い?」

「なんていうか、トイレの中で嗅ぐような、色々とない交ぜになったような匂いだよ」

「趣味の悪い香水でも、付け始めたのかもしれませんね」

 そうだ、香水だと、瀬川さんが英単語を思い出した学生みたいに言う。

「お前は、香水ってどんな時に付ける」

「そりゃあ、オシャレしたい時とかじゃないですかね」

 鈴木は香水を付けたことなどないから、どんな気分なら付けようと思うのか、など知るわけがない。ありきたりで大雑把な回答しかできなかった。

「恐らくだが、これは女だ」

 瀬川さんは、正解を発表するような口ぶりだった。

「佐渡が、実は女だったってことですか?」

「違ぇよ、女ができたって意味だよ」

 再び、はぁとため息のような返事をする。

「女なんて、俺にだっていますよ。それのなにが問題なんです」

 あのなぁ、と瀬川さんが呆れたような声を出した。そんなことも分からないのか、と昔教師に馬鹿にされた時のことを思い出す。

「佐渡の仕事は知ってるだろ。あいつは、俺の仕事について色々と知りすぎてる。もし、佐渡にできた女が、誰かに雇われたハニートラップの類だったらどうする。佐渡に女ができるのは、安全保障上の問題なんだ」

 瀬川さんはよく、大げさな言葉を使う。きっと、職業病なのだろう。人を騙して金を取る、いわゆる詐欺師と呼ばれる仕事をしている瀬川さんは、些細な表現を誇大に言い換えるプロだ。小難しい単語を並べたり、聞きなれない横文字を駆使して、相手を不安にさせるのだ。今の言葉は、どういう意味だろうと考える間も与えず矢継ぎ早に喋り、重要なことをうやむやにしてしまうのだ。

「佐渡にできた女が、ナチュラルな、相思相愛の関係でも問題だ。佐渡が、なにかの拍子にうっかり口を滑らせるかもしれない」

 そんなに心配なら、一人で仕事をすればいいのに、と鈴木は思うが口には出さない。詐欺師に正論は通用しないのだと、かつての上司が言っていた。

「それで、俺はなんで呼ばれたんですか」

 瀬川さんは、自分でも鈴木を呼んだ目的を忘れていたような顔をしてから、咳ばらいをした。

「佐渡の奴を尾けろ。で、女と接触しているような消せ」


 佐渡は、業界ではサド侯爵を呼ばれている拷問屋だ。長身で、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしている。浮世離れした気品漂う物腰と、仕事振りからそう呼ばれている。

 人間を雑巾に変えてしまう、というのが佐渡の仕事ぶりを表す噂だ。それだけ聞くと、まるで魔法でも使って姿を変えてしまったように聞こえるが、現実には口では表せないほどの凄惨な拷問をするらしい。表情一つ変えずに、料理でもするかのように人間を解体していくそうだ。

 職種の違う鈴木は、佐渡と会ったことはない。パイロットと船長が、仕事で顔を合わせないのと同じだ。


 インターホンを鳴らすと、ドアの向こうで音がした。しばらく経ってから、鍵が開く。篠田が、ドアチェーンが掛かったままの隙間から顔を出した。

 鈴木の顔を見ると、一度ドアを閉める。カチャリとチェーンの落ちる音が聞こえたと思ったら、ドアが大きく開かれ、鈴木は強引に引っ張られて部屋に入れられた。

「なんだよいきなり。痛ぇなあ」

 篠田の腕を振り払って、掴まれたところを摩る。

「あ、ごめん。あんまり、扉を開けていたくなくて」

 篠田が、鍵を閉めながら振り返る。

「それで、なんだよ。ストーカーって」

「そのさ、西側の窓から、外を見てくれる?そっとだよ、そっと」

 鈴木は言われた通りに、西側の小窓に近づいた。体を出し過ぎないよう、窓際の壁に張り付きながら、そっとカーテンを持ち上げる。

 窓の外には、夜の闇が広がっている。窓の外に灯りはほとんどなく、鈴木はガラスに反射する自分の顔の向こう側に意識を集中させた。篠田の部屋からは、アパートのひび割れた塀が見下ろせる。塀の向こうには狭い道路があり、芯のように電柱が生えている。

「電柱の陰に、誰かいるでしょ」

 鈴木は、じっと目を凝らしてみた。だが、電柱の陰には誰もいないように見える。

「え、そんな。嘘でしょ」

 と言って、篠田が鈴木の隣に来て、窓の外を見下ろした。

「あれ、ほんとにいなくなってるわね。たしかに、あそこに誰かいたんだけど」

「気のせいだったんじゃねぇか」

「いや、絶対私の部屋を見てたのよ。ここ角部屋だから、あの電柱の陰に立って見えるのは私の部屋だけよ」

「不本意だが、俺を彼氏かなんかだと勘違いして、諦めて帰ったんじゃねぇか」

 鈴木は、篠田の話の真偽を確かめる気もなく、いないのなら帰ってしまおうと窓を離れる。ドアに足を向けたところで、篠田に肩を掴まれた。

「ストーカーってそんな簡単に諦めるものかしらね」

「知らねぇよ、俺はストーカーじゃねぇから」

 ストーカーまがいの仕事はしているが。

「俺は明日も早くから仕事なんだよ。追い返すだけならまだしも、一晩中見張ってるなんて嫌だぜ」

「仕事と私、どっちが大事なのよ」

「仕事に決まってんだろ、気色悪い。だいたい、なんで俺なんだよ。人が寝てるところに電話なんか掛けてきやがって」

「鈴木君って、昔から物騒なことには慣れてるじゃない。だから、ガツンと一言言ってきてもらおうと思って」

「そんなもん俺に頼むなよ。警察呼べよ、警察」

「こんな夜中にサイレン鳴らしたパトカーが走ってきたら、近所迷惑でしょ」

「俺には迷惑かけていいのかよ」


 欠伸を噛み殺しながら待っていると、佐渡がマンションから現れた。瀬川さんから聞いた話だと、佐渡は最近引っ越しをしたらしく、そのことも怪しがっていた。どうせ、女と同棲できる場所に引っ越したんだろ、というのが瀬川さんの推理だった。待っている間に、佐渡の物件について検索してみたが、たしかに一人で住むには大きな部屋だ。防音や防犯にも気を配っているらしい。

 飲んでいた缶コーヒーを置いて、跡を尾け始める。佐渡は今日は休日なのだと、瀬川さんから聞いている。というよりも、休みに合わせて尾行をするよう頼まれたのだが。ようは、デートの瞬間を抑えろ、ということだ。鈴木は、昔バイトをしていた探偵事務所では、人を尾け回した記憶はなかったな、と思い出す。

 マンションから出てきた佐渡は、くたくたのワイシャツの上に、くたびれた襟付きの黒いコートを羽織っていた。髪は長くてボサボサで、とてもオシャレに目覚めたようには見えない。だが、写真では分からなかった妙な魅力のようなものが、実物を見ることで感じられた。

 どうしたって女に会いに行く格好ではなかったが、佐渡自身の魅力なのかみすぼらしさは感じられない。じっと見ていると、なんだか流行の最先端を行くモデルのような雰囲気まで漂い始め、あのずぼらな格好も一種のオシャレなのではないかと思えてきた。もし鈴木が同じ格好をしていたら、ホームレスと間違えられてしまいそうな、紙一重のオシャレだ。すれ違う人々も、佐渡の魅力に当てられてか、時折振り返って二度見をする者もいた。当の佐渡は、他人の目など気にならないのか、堂々と道を歩いている。

 昨日の夜、ほぼ今日だったが、篠田にストーカーの相談をされた鈴木が、今はこうして佐渡の尾行をしていると思うと、なんだか馬鹿らしい気分になってくる。しかも佐渡が、女と密会する現場を確かめようというのだから。

 バイト時代、不倫調査をしたことはなかった。鈴木の雇い主は、探偵が務まるのかと不思議に思うほど気弱な男だった。鈴木は初め、事務所の電話番として雇われていたが、探偵の仕事というものに興味があった鈴木は助手の仕事を申し出た。ホームズで例えるなら、ワトソンの役だ。男は一回りも年下の鈴木に押し切られ、鈴木をワトソンにした。

 が、結局探偵業というは退屈な仕事なのだと分かって、鈴木は一年経たずにワトソンではなくなった。男の元に来るのは、迷子の犬猫を探してくれ、という依頼ばかりだったからだ。

 その後鈴木は、学生時代の先輩のツテで危ないバイトをしているうちに、気づけば物騒な世界から抜け出せなくなっていた。スリルはあるが、リスクに似合うほど稼いでいるかと言えば、まったくそんなことはなかった。

 ワトソンだった頃の経験は、今の仕事にはまったく生かされていない。鈴木は独学で、佐渡に気づかれないように尾行を続ける。


 店員に声を掛けなくてもいいように、水を運んできたタイミングでコーヒーを注文した。尾行中は、あまり目立つことはしない。本当なら、目標と同じ店に入ることも望ましくはないのだが、佐渡が女と店で待ち合わせることも考え、鈴木は佐渡が見える席に座った。

 佐渡は、コートから取り出した文庫本を、熱心に読んでいる。ブックカバーが掛かっているから、何の本を読んでいるかまでは分からない。佐渡は注文したコーヒーやサンドイッチにも手を付けずに、文庫本に熱中していた。

 鈴木の注文したコーヒーが運ばれてくる。その黒い液体を見て、佐渡が現れるのを待っている時にも缶コーヒーを飲んでいたことを思い出し、別のものにすればよかったと後悔した。コーヒーばかり飲んでいたら、腹を壊してしまうかもしれない。

 尾行の最大の天敵は、トイレだ。トイレに籠っている間に、標的を見失ってしまうことが最も多い。尾行をする時には、アスリートのような食事管理を徹底しなければならないのだが、それを忘れていた。きっと寝不足のせいだと、鈴木は篠田を恨む。

 とはいえ、今から別のものに変えてくれと、店員を呼ぶことはしたくない。鈴木の顔を佐渡は知らないが、なにかの拍子に顔を覚えられては困る。これから証拠を掴むまで、どれくらい尾行が続くのか分からない以上、顔を覚えられることはしたくない。鈴木は、せめてものと砂糖とミルクを多めに入れた。

 コーヒーを、ちびちびと啜りながら佐渡を観察していると、懐の携帯が鳴る。マナーモードにするのを忘れていたことを思い出して、内心で舌打ちをする。そして、表示されている名前を見て、今度は本当に舌打ちをしてしまった。

「なんだよ、今仕事中なんだけど」

 幸い、佐渡が気にしている様子はなかった。鈴木の方を窺うこともなく、相変わらず手元に視線を落としている。

「まだいるのよ」

 篠田の、昨晩のような戸惑った声が聞こえた。

「なにが」

「だから、ストーカーよ」

 なんだよ、そんなことで、と口を滑らせると、篠田が電話の向こうでわあわあと騒ぎ出した。

「だから、今仕事中なんだっての。流石に行けねぇよ」

「そんなこと言わないで。仕事と私、どっちが大事なの」

「そんなに鬱陶しいならよ、お前がガツンと言ってやりゃあいいじゃねぇか。お前迫力あるからよ、意外と引き下がるかもしれねぇぜ」

「嫌よ、いきなり刺されたりしたら怖いじゃない。そうなったらあなた責任取ってくれるの」

「なら警察を呼べよ。今は昼間だぜ、サイレン鳴らしても迷惑じゃねぇだろうが」

「あんまり、大事にはしたくないじゃない。それに警察が出てきたら、ストーカーも焦ってなにをしだすか分からないでしょ。まずは、警察以外の人が対話するべきだわ」

 それがなんで俺なのだと、面倒臭さに電話を切ってやろうかと思ったところで、ふと気づくことがあった。佐渡は、店に入ってから一度も、文庫本のページをめくっていないのではないか。

 まさか、と鈴木は背筋が凍った。尾行がバレていたのだろうか。店に入ったのも、鈴木を誘い出すためかもしれない。本を読んでいるふりをして、実際には周囲を探っていたのではないか。佐渡は、この業界を長いと聞く。危険を予知する嗅覚が、他人より発達しているかもしれない。

 だが、鈴木は慌てない。正確には慌てない努力をした。腰を浮かせてトイレに立ったり、佐渡から視線を逸らそうとしたい気持ちをぐっと抑えた。尾行がバレる瞬間とは、バレたかもという焦りが不自然な動きを生んだ時だ。佐渡は、そういった敏感な変化を誘っているのだ。

 鈴木は平常心を装い、ゆっくりとカップを取り、コーヒーを飲んだ。コーヒーと一緒に、出掛かった動揺を流し込むように。口の中に、苦みと熱が残る。

「ちょっと、聞いてるの」

 鈴木は、自分が電話をしていたことを思い出した。佐渡を意識しすぎないように、電話にも意識を分配する。

「ああ、悪い悪い。ちょっとコーヒーを飲んでた」

「仕事してるんじゃないの」


 佐渡は、文庫本を眺めながら一時間ほど喫茶店で時間を潰し、出る直前になって思い出したようにサンドイッチを食べた。気品の欠片もない、口を大きく開けた飲むような食べ方だった。喫茶店で、佐渡に接触してくる者はなかった。

 店を出た佐渡を追うために、鈴木は素早く勘定を済ませた。代金ちょうどの金を押し付けるように渡して、店を出た。尾行のために、財布にはたくさんの千円札と硬貨が入っている。そのせいで、鈴木の財布は分厚い。

 喫茶店を出てしばらく進むと、佐渡は横道に入っていった。その後を、慎重に追っていくと、だんだんと人通りの少ない道になっていく。鈴木は、内心で焦り始めた。人通りの少ない道は、必然的に尾行がバレやすくなる。佐渡は、鈴木の視線に気づいているのだろうか。

 佐渡は振り返るような真似はせず、迷いなく歩き続けている。鈴木は、自分の姿がカーブミラーやガラスに映らないように気をつけながら、佐渡の後を追う。人通りは、どんどん少なくなっていた。

 鈴木が、尾行を中断するべきかと悩み始めたところで、佐渡が足を止めた。たまらず、鈴木は息を飲む。心臓が止まるかと思った。だが、懐の銃に手を伸ばすのは堪えた。

 佐渡が、曲がり角にあった店を一瞥すると、戸を開けて入っていった。そこは、ペットショップだった。店の正面は外からでも商品が見えるように、全面がガラス張りになっている。外から見えるということは、中からも外が見える。佐渡は、鈴木の姿を確認するためにこの店に入ったのではないかと、鈴木は身構えた。

 仕方なく、鈴木は通行人を装って店の前を通り過ぎることにした。顔を晒すことにはなるが、立ち止まっているよりは自然だ。だが、今後の尾行はより慎重に姿を見られないようにする必要があるだろう。

 鈴木は、店の前を通り過ぎる時、あたかも動物に興味がある風に、店の中を見た。佐渡が、カウンターにいた女店員に話しかけている。そこには、感情を手に入れたロボットのような、表情を崩して朗らかに接している佐渡の姿があった。女の方も、頬を染めながら佐渡と談笑しており、二人はずいぶんと仲が良さそうに見えた。

 鈴木は、安堵のため息をついた。どうやらこれで、尾行を終えることができそうだ。佐渡は店の外に気を配る様子もなく、店の前を通り過ぎていく鈴木の方をチラリともしない。

 地味な女だな、と鈴木は思った。髪は短くまとめられていて、黒縁のメガネをかけている。あのサド侯爵がお熱になる相手にしては、あまりにも分不相応な、村娘と例えるのが相応しいような女だった。まぁ、好きになる相手の趣味など、人それぞれだ。

 店を通り過ぎた後で、電話を取り出す。瀬川さんは、ずっと待っていたかのように、すぐに電話に出た。

「どうだ、なにか分かったか」

 瀬川さんが、食いつくように聞いてくる。

「やっぱり、女がいるみたいです。村娘みたいな地味な女で、ハニートラップには見えなかったですけど」

「村娘?なんでもいい、女と接触しているなら消せ。不審物は、早急に処理しなくては。佐渡に女など必要ない」

 サディストに、女など必要ない。たしかに、サディストの恋はあまり健全でないように思えた。


 鈴木は店から出てきた佐渡に声を掛けた。たしかに、甘ったるいような変な匂いがしたが、鈴木はそれがペット用の消臭剤だと気づいた。探偵事務所で働いていた時、依頼主の中に同じような匂いの人がいたからだ。

 振り向いた佐渡は、自身に向いている銃口に気づいたようだったが、あまり驚かなかった。つまらない物を見るかのように、穴の開いた筒を見ていた。

「誰が、なんで雇ったか、聞いてもいいか」

 澄んだ声だった。佐渡が命じれば花でも従ってしまいそうな、惚れ惚れとする美声だった。

「流石に、それは言えねぇけどよ。察しはついてんだろ」

「誰か、はな。でも、理由がさっぱり思いつかない」

「それがな、あるんだよ。安全保障上の問題が」

「安全保障上の問題」

 佐渡が、やはりというような声を出す。

「女だよ」

「女?」

 佐渡が、まったくピンと来ていない声を出した。

「さっき、店の中で話してただろ。あれ、お前のこれだろ」

 鈴木が、小指を立てる。

「いや、あの子とはそういう関係ではない」

「しらばっくれんなよ。ずいぶん仲が良さそうだったじゃねぇか」

「確かに、懐かれてはいる」

「お前、あの女に仕事のこととか喋ってないだろうな」

「なんで、そんなことを話す必要がある。あの子に言っても分からないだろう」

「もしかしたらで確認しただけだよ。ああでも、あの人心配性だから、ついでに始末しろなんて言い出すかもな」

 佐渡が、ものすごい形相で睨んでくる。

「冗談だっての。まぁ、あの人に冗談として通じるかは知らないが」

「人が死ぬなんてどうでもいいけどな。犬が死ぬのは世界の損失だぞ」


「どうだ、始末できたか」

 電話の向こうで、瀬川さんが尋ねてくる。その声は、始末していてくれと懇願しているようでもある。

「いえ、その、佐渡はたぶん、大丈夫だと思います」

 鈴木は、なんと言ったものかと思いながら返事をする。

「なにが大丈夫なんだ。口封じをしたって意味か」

「そうじゃなくて、その……佐渡にできたのは、女じゃなくて犬みたいです」

「犬ぅ?」

 瀬川さんが、初めて犬という単語を聞いた、というような間の抜けた声を上げた。

 どうやら、佐渡が入れ込んでいたのは、ただの犬だったらしい。佐渡が仕事終わりに、一匹の野良犬を拾ったことが発端らしい。佐渡はその小さな命に心を奪われ、癒されたそうだ。

 犬を飼えるマンションに引っ越し、犬の飼い方を聞くためにペットショップを訪れた。あの店員と仲が良かったのは、佐渡がドッグフードやらケージやらをあの店で揃えていて、足繁く通っていたからだった。恋人同士のように見えたのは、店員が佐渡に気があるからなのだろう。

「じゃあ、あの喫茶店で熱心に読んでいたのはなんだったんだ」

「あの本自体は、犬の飼い方の本なんだが、見ていたのは挟んであった犬の写真だ。今、あの子は検査に出しているから、昨日から会えていないんだ」

 一連の経緯を説明すると、電話の向こうからは信じられないという沈黙だけが聞こえてきた。

「まさか……人を雑巾みたいにしちまう男が、犬を可愛がっているだけだったとは。そうか、犬か」

 今にして思えば、人をいたぶる仕事をしている男が、人を愛することができるのだろうか。佐渡は仕事を楽しんでいる風ではなかった。佐渡は、サディストですらなかったわけだ。サディストだって、人を愛しているからこそ痛めつけることに喜べるのだから。

「じゃあ、佐渡は生きているわけだな」

「ええ、まぁ、犬と親しくするのがダメじゃなければ」

「いや、ならいい。あいつは優秀だからな。ところで、俺の名前を出したりしてないだろうな」

 と、瀬川さんはいつもの口調に戻った。疑問が解消されたと思ったら、新しい疑問に悩まされるのだから、難儀な性格だ。

「言うわけないですよ」

 鈴木は、俺は言ってないと思った。佐渡が、勝手に察しただけだ。

「じゃあ、なんて言って接触したんだ。もし俺の差し金だって知れたら……」

 鈴木は面倒に思いつつも、なにか言い訳を考え、とっさに思いついた単語を口にした。

「その、ストーカーだろって言ったんです」

「ストーカー?」

「ええ、その、ペットショップの店員のストーカーだろって。俺は彼女の知り合いで、ストーカーがいるって相談を受けたんだって言って佐渡と会いました。そこから、佐渡が誤解を解くために犬の話をしたんです」

 まるっきりのでたらめだった。

「その女は、佐渡に惚れてるんじゃなかったのか」

「それは彼女の演技だって言いました」

 鈴木は、だんだんと嘘をついたことを後悔してきた。あまりにも綻びだからだったからだ。だが、意外にも瀬川さんはそれで納得したようだった。本当に納得したのかは知らないが、瀬川さんは三日後に雑巾のような死体になって見つかった。

 鈴木は電話を切ると、はぁと大きなため息をついた。なんとか誤魔化せて良かったと思い、それから篠田のストーカー問題を思い出した。

「しゃあねぇ、行ってやるか」

 なんとなく、徒労感を拭いたかったのかもしれない。あわよくば、ストーカーに一発お見舞いしてすっきりしようとしていたのかもしれない。鈴木自身にも理由は判然としなかったが、とにかく鈴木は、篠田のアパートへ向かった。


 昨日、篠田が言っていた電柱の陰に、それらしい男が立っていた。背後から声を掛けると、跳ねるように驚いてこちらを見た。

「あ、あの……」

 振り返った男を見て、鈴木は驚いた。まだ子どもだったからだ。高校生くらいだろうか、女受けしそうなかわいらしさを含んだ顔をしていた。肌が白く、体は細かった。どちらかと言うと、ストーカーをされる側に見えた。

「お前か、篠田のストーカーってのは」

 篠田の名前を出すと、青年は敵愾心を剥き出しにして睨んできた。だが、その迫力の無さに鈴木は小型犬を彷彿とさせ、笑いそうになるのを堪えた。そんな鈴木の態度を見て、青年はさらに不機嫌になった。

「あなた、篠田さんのなんなんですか。昨日も、遅くに部屋に来てましたよね。もしかして、篠田さんの恋人ですか」

 鈴木は、笑うのをやめて青年を引っ叩きたくなった。

「ふざけんなよ。俺にそういう趣味はねぇよ。そうじゃなくて、相談を受けたんだよ。ストーカーがいて怖い、安全保障上の問題を排除してくれってな」

 気づけば、瀬川さんの口調を真似してしまっていた。意外にも効果があったのか、青年は凄むことをやめて肩を落とした。

「ストーカーって僕のことですよね。そっか、言われてみればたしかに、これはストーカーだ。家まで跡を尾けたり、名前を調べたり」

「なんだ、自分じゃ気づいてなかったのか」

 引きますよね、と青年は先ほどまでの勢いを失っていた。まるで、洗脳から醒めたかのように、自分の行いを振り返っては意気消沈している。

「ちなみに聞くけど、なんでこんなことしてるわけ」

「それはその、恥ずかしいんですけど……一目惚れしちゃったんです」

 ありきたりすぎる理由に、胸やけを起こしそうだった。ふーんと、適当に相槌を打つ。それから、ふと思いついたことを言ってみる。

「じゃあ、今から会いに行くか」

「え?」

「だから、篠田にだよ。俺が会わせてやるから。お前一人で部屋に行ったら、絶対開けてくれないけどよ。俺がいれば、面と向かって話せるだろ」

 青年は、ポカンと口を開けている。

「いつまでもウロウロされると、あいつから電話が掛かってきて鬱陶しんだ。仕事の邪魔なんだよ」

「でも、いきなり行ったら迷惑じゃ」

「今でも、思いっきり迷惑なんだよ。思い切って告白でもしたらどうだ。振られても俺は知らねぇけど、ストーカーはきっぱりやめてくれよ。頼むから」

「あの、それはできるか分かりませんけど」

 青年は、もじもじと下を向いていたが、顔をガバっと上げて決意を固めたようだ。

「んじゃ、行くか」

 青年がこくりと頷く。案内しようと思ったところで、鈴木は思い出すことがあった。篠田がしょっちゅう気にしていた、安全保障上の問題だ。

「ちなみに、ナイフとか持ってないよな」


「お前を付け回してたストーカー、連れてきた」

「はぁ?」

 篠田が、訳が分からないという風に声を響かせた。隣の住人が、何事かと顔を出すが、鈴木は手を振って追い払った。

「いや、ストーカーって追い返しても意味ねぇじゃん。だって、家知ってんだし。だったらいっそ、付き添いがいるうちに会わせてみた方が解決するかと思ってよ。お見合いみたいなもんだろ」

「お見合いに、刺されちゃうかもしれない吊り橋効果なんていらないわよ」

「大丈夫だって、武器は持ってねぇから。それに、なにかあったら止めるために俺がいるんだからよ」

「あの……心配をおかけしてごめんさない。自分がなにをしてるか、鈴木さんに言われるまで気づかなくて」

 鈴木の陰に隠れていた青年が、ひょこっと顔を出す。それを見下ろした篠田の顔つきが変わった。

「あら、近くで見ると意外とかわいい顔してるのね」

 さっきまで怖がっていた態度はどこへやら、今では品定めをするように青年を眺めている。

「その、僕、相馬って言います。篠田さんを街で見かけた時から……一目惚れしてしまって。篠田さんが、堂々としている姿が、格好良くて」

「やだ、そんなこと言われたら恥ずかしくなっちゃうじゃない」

 篠田が、頬に手を当ててニヤけた顔を隠そうとしている。その可愛らしくもない仕草に、鈴木はなんだか疲労を感じ始めた。

「それで、篠田さんのことをもっと知りたくなって。こうして迷惑をかけてしまいました」

 相馬は、悔恨と、恐怖と、羞恥がブレンドされた真っ赤な顔で、今にも泣きだしそうになっている。そんな相馬の頭を、篠田が撫でた。

「立ち話もなんだし、中に入りなさいな。鈴木君も、コーヒーくらい出すわよ」

 そう言って篠田は、入り口を覆っていた体を逸らし、鈴木と相馬を招いた。靴を脱いで部屋に上がった鈴木に、篠田が向き直って、言った。

「確かに、お見合いみたいね。こんなことになるなら、髭くらい剃っておくべきだったわ」




 

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S 抜殻 @mappyHM

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