鏡よ鏡、あの人に不幸を

@ITUKI_MADOKA

鏡よ鏡、あの人に不幸を (三題噺 壊れた鏡・夜の公園・誰かの囁き声)

「はぁ……はぁ……まだ来てる?」

私は今、ある人物から逃げている。

彼は以前、私と交際していた相手で喧嘩別れをしてしまったのだが、それに納得がいかないとかなんとか言って、興信所を利用して引越し先を特定してきたり、仕事先に私の顔をコラージュした下劣なチラシを貼り付けたりと、それはもうひどいものだった。

同僚も事情を汲んでくれたおかげで現在は在宅勤務をしていたが、今日はどうしても外出しなくてはならない用事があり、仕方なく一人で出掛けていた。

誰にもその情報を言ってないはずだが、どこで知ったのか帰り道に待ち伏せされていた。

今日で私を手篭めにしようと考えているのか、どこまでも追いかけてくる。このまま家に帰ってはせっかくの住所が知られてしまう。

友人や同僚に助けを求めたいが、みんなに迷惑をかけたくないという想いが強く、足を動かすことしかできない。

日も落ちてしまい辺りはもう暗くなっており、街灯がぽつりと頼りなく光っている。


「もうっ……なんでこういう時に限ってこんな服装なのよ……」


もう逃げるのも限界が来ている。今日訪れた場所は礼装が適切だったため、動きやすいとは思えないスーツ、スニーカーではなくヒールを履いている。そのおかげで、スーツは乱れ、かかとは靴擦れを起こしてジンジンとした痛みが前に進むことを阻害している。


私の影を踏むように後ろからは足音が響いてくる。周りは帰宅時間のためか車の交通量が多くなっており、道路にはトラックや軽自動車が鉄の龍のように連なっている。まわりはほぼ一本道になっており、隠れるような場所が見えてこない。端的に云うと絶体絶命である。


そんな絶望感に苛まれていた私の前に見えたのは、いくつかの明かりと遊具が申し訳程度にぽつりと置かれている公園があった。そこは私が小学生の頃にとある噂で有名だった公園だったことを突然思い出した。この辺は私の親戚が住んでいたこともあり、週末になると何度も訪れていた地域だ。当時は親にその公園に行くなと言われたのを覚えているが、なぜそう言われていたのかは黒いモヤのようなものがかかってしまい思い出すことはできない。


こんな状況だ、そんな制約もすでに時効となっているだろうと思い、神にも縋る思いでその公園にあるトイレに駆け込む。


その噂というのはこういうものだ。夜の公園、そのトイレの中にある壊れた鏡の前で嫌いな人の名前を言うとその言われた人には不幸が訪れる、というものだ。よくある都市伝説だ。こんなものに縋って何も意味があると考えるが、今はなりふり構っていられない。


公園の隅にある質素な四角い建物に入る。中はまだ管理されているせいか、甘ったるい芳香剤の香りと長年使われていて染み付いてしまって剥がれないアンモニア臭が混ざり合った匂いが充満しており、胃液が込み上げそうになる。そんな明かりも壊れて暗くなったトイレの中にある鏡を見つける。他の手洗い場は綺麗にされているが、そこだけは不潔だから何もされていないのか、誰も触れてはいけない聖域になっているのか、不自然にガムテープによって規制されているようだった。噂通りその鏡はバリバリに割れており、そこに何人も自分がこちらを見ている。その鏡の中にいる無数の自分の視線が暗がりなのもあって不気味に感じる。


噂通りの儀式を行うために思い出しながら、手を汲んで祈るように彼の名前を言う。


「工藤明、工藤明、工藤明……お願いしますお願いしますお願いします……助けて……!」


目を瞑りながら唱えて、再び鏡を見て一瞬、割れた鏡の中で、際立って大きな破片に映った恐怖に染まる私の顔が柔らかく笑ったような気がした。


「橙子ぉ……いるんだろぉ……?やり直そうぜぇ……」


トイレの外から彼の声が聞こえてくる。その声に自然とトイレの奥に後ずさってしまう。

あぁ、やっぱり無駄だったんだ。都市伝説に縋るなんて馬鹿なことを考えてしまったのだろう。


「もう逃げても無駄だよぉ……大丈夫、お前の気持ちの良いところは全部知ってるから、安心しろよ……まぁ、体がどうなるかはわかんねぇけどなぁ」


なんでここに逃げてしまったのだろう。

出入り口は一つしかなく、袋の鼠でしかない。

なんでこんな男と関わりを持ってしまったのだろう。

あの時にもう私の人生は決まっていたのかもしれない。

どこからか聞こえる車のクラックションが頭の中に響き渡る。これが走馬灯なのかはわからないが、誰にも聞いたことがないのだからそうかもしれない。


「さぁ……一つになろ、え───」


もうダメだと思ったその時、彼の間抜けな声が聞こえた後すぐに何か大きなものが壊れる音がした。

あまりの轟音に耳を塞いだ。

しばらくして、さっきまで聞こえていた彼の声が聞こえなくなった代わりに外からはアラームのようなものが響いてる。

恐る恐るトイレの外に出ると、そこには凄惨な光景が広がっていた。

大型のトラックが公園の遊具にぶつかり、どちらも大破していた。

その衝撃的な景色に目を奪われているとき、彼の存在を思い出し、周りの見る。

彼の姿はどこにもない。

まさかと思い、遠目にそのトラックが突っ込んだ先を見てみると、かろうじて人の部位のようなものが見える肉塊がトラックと遊具の間に挟まっていた。

落ちていた腕には見たことがある腕時計が巻かれていた。彼の時計だ。

その死体が彼だと認識すると、不思議とホッとした。

そう、安心したのだ。目の前で人が死んだのに。

それほどまでに私にとっての彼は命の脅威でしかなかったのだ。

そんな安心していたとき、ふと後ろから誰かの囁き声が聞こえてきた。


「もう安心して……あなたは幸せになってね」


その声はどこか懐かしい、優しい声をしていた。

そのおかげか電源が切れたように私は地面へへたり込んでしまった。

数分後には警察や救急隊員が来て、私は保護されたのだった。


それから、私は警察からの事情聴取や病院での検査を受け、自分が見たことについて話したりカウンセリングなどを受けた。

彼から迷惑行為を受けて困っていたことは言ったが、必要ないと思い壊れた鏡の噂については話さなかった。

話してしまったら彼からの行いに病んでしまい、精神病院に連れてかれるかもしれないからだ。


その後、職場にも事情を報告すると、これまでの彼の所業をしていたためか、同僚は暖かく接してくれた。

それから、上司からも数ヶ月の休暇を命じられた。

休暇と言っても、自分が仕事に戻りたい時には連絡して欲しいと言われたため、そこまで長く休むつもりはない。

今回の事件まで、精神的に追い込まれず、自らの命を投げ出そうとしなかったのは、彼らの存在があったからと言っても過言ではない。また彼らと共に働けるようゆっくり休むことにした。


数日は外に出るのも気が引けたが、近くのコンビニやスーパーなどに行くことで少しずつ外出できるようになってきた。

精神的にも安定してきて、外出も容易になってきたとき、ちょうどいいと思い近くの図書館へ赴いき、あの公園のトイレにあった壊れた鏡について調べることにした。

ネットにもその噂は書かれていて、そこからいつぐらいからその噂が出たのか、きっかけはなんなのかを知りたかったのだ。

実際に調べてみると様々な情報が出てきた。


あの噂が生まれたのは十五年前、私が十歳の頃に起こったとある凄惨な事件がきっかけだった。

それは、女子高生がいじめによって同じ学校の生徒に殺された事件だった。

あの公園のトイレでその女生徒は強姦を受け、その中の暴行で頭を鏡に叩きつけられ死亡したとのことだ。

彼女が受けた屈辱は読んでいるだけでも想像できてしまい、内臓が抉られるような感覚がした。

それから、その事件に関わった同学校の生徒が不審死で見つかったり、事故に遭い四肢や脳がまともに動かなくなったとの噂がなされていた。

そこから、あの公園で件の噂が立つようになったようだ。

夜の公園、トイレの中にある壊れた鏡の前で嫌いな人の名前を言うとその言われた人に不幸が訪れる、と。


この元となった事件が掲載された新聞を見ていると、あることに気づいた。

その被害女生徒の名前が私と同じ苗字であることに。

その名前を見た瞬間、今までなかった女性の柔らかな笑顔の記憶が脳内に大量の情報が津波のように流れ込んでくる。

彼女の名前は神崎凛子、私の従兄弟のお姉さんだ。

彼女と私は親戚で何度も遊んでもらっていた、あの街であの公園で。私は彼女にとても懐いていたのだろう。「凛子お姉ちゃん」「橙子ちゃん」とお互いに呼び合っていた。一人っ子である私にとって、本当の姉のようなかけがえのないそんざいだった彼女は、誰よりも大人に見えて、何よりも憧れだったのだ。


彼女とよく話していたことがある。幸せについて。今になって考えると、なんて抽象的で哲学的な話をしていたのだろうと苦笑いをしてしまう。

でも話していたことは他愛のないことばかりだった。ご飯が美味しかったとか最近買ったゲームが楽しいとかクラスの好きな男の子と話せて嬉しいとか、彼女が私に合わせてくれたのかもしれないが、記憶の中では彼女はずっと優しく笑いながら聞いてくれたし、彼女の柔らかな声で聞く彼女の幸せはどんな御伽話よりも好きだった。

なぜ忘れていたのか、なぜかはよくわからない。当時、その知らせを聞いたのがショックで自己防衛するために記憶から忘れたのかもしれない。

親がその公園に行かせなかったのもそれが理由だったのかもしれない。

あの時に聞こえた声、その声は紛れもなく深い記憶の奥底にあった従兄弟の声だったことを思い出し、そのことに気付いた私の目から流れる涙は止まることはなかった。


それからしばらくして、またあの公園を訪れた。週末だからか家族連れが多く、幼い子供たちの眩しい笑顔にあふれていた。あの時はそこまで綺麗な公園に思えなかったが、昼に見える景色はまるで違って見えた。それなりに置かれている遊具も以前は色褪せていた記憶があったが、明るい色に塗装され直されていることがわかる。そこで遊んでいる子供達の中に、二人の姉妹がいた。彼女たちの姿に私たちの影が重なっているように見えた。

子供達を見守りながら過去の記憶に浸るっていると、時間は気づくと陽が落ちかけていた。帰路に着く前に、トイレのそばに小さな花をひっそりと手向けた。

ピンクのガーベラを。

「ありがとう、凛子姉ちゃん」

帰ろうと公園の出口へ振り返ったその時、後ろから風がびゅうと吹く。

「幸せにね、橙子ちゃん」

そんな囁き声が聞こえた気がした。

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