第16話 帰宅
私は、声の続く限り歌った。やがて日は暮れて、部屋はだんだん暗くなってくる。
はっと我に返って窓の外を見ると、西日が地平線の向こうへ沈もうとしている。
「はやいな」
レングナーさまはひとりごちて、私に向かって手を伸ばす。
「そろそろ潮時かな。アンナ嬢」
私は後ろ髪を引かれる思いで、部屋を見渡した。彼らは、にこやかに応じてくれる。
「また来てね」
フーバーさまが手を振った。それに応じるように、いくつかの楽器の音が鳴る。
「次も、ここへ連れだすよ」
私はその言葉に、やっと彼の手を取った。レングナーさまはかすかに口の端を上げて、「いいね」と言った。
その言葉の意味が分からなくて、私は首を傾げる。
「何がですか?」
「きみ自身の、意志が見えてきた」
きょとんとレングナーさまを見上げると、彼は意味深に微笑むだけだった。それでも私は気になって、じっと彼を見つめる。
「ふふ」
レングナーさまはやはり笑みを浮かべて、私の身体を引き寄せた。その力強さに、どきりと胸が鳴る。
彼と出会ってからずっと、私の心臓は忙しい。
「僕は、きみの歌が好きだよ。……今は、それしか言えないけれど」
緑の瞳が、熱っぽく潤む。私はいけないものを見てしまった、と思った。それでも彼から、目を逸らせない。
こうして私たちは馬車へ乗り込み、レングナーさまは私を屋敷へ送り届けてくださった。
私がそわそわと指をもてあそぶ。私が出かけることは、誰にも言っていない。
マーヤが酷い目に遭っていたらどうしようと、今になってやっと思い至ったのだ。
なんてひどい、薄情者だろう。
「アンナ嬢、何か気がかりでも?」
問いかけに、私は顔を上げる。いえ、と口ごもっている間に、馬車は私の住むお屋敷へと着いた。
私が馬車から降りると、家の中からお父さまとお義母さまが飛び出してくる。
お父さまは開口一番に、私を怒鳴りつけた。
「勝手に外出するんじゃない。迷惑をかけるな!」
お義母さまも「そうですよ」と甲高い声で追従する。私はそれに怯みかけて、でも、うつむかなかった。真っすぐ身体を伸ばして立ち、二人を見つめる。
「申し訳ございません」
私のはっきりとした態度の謝罪に、お義母さまは怯んだようだ。お父さまはなおも肩を怒らせて、レングナーさまへ向き直る。そして低姿勢で、レングナーさまに謝罪する。
「ご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ございません。娘を保護してくださったこと、ありがとうございます」
「いえ。僕はその旨で使いを出していたと思うのですが、何か行き違いがあったようですね」
ちくりと刺すような口調で、レングナーさまが言った。お父さまは言葉に詰まり、「え、ええ」と愛想笑いを浮かべる。
「アンナ。行きますよ」
お義母さまが私の腕を掴み、強引に引っ張っていく。私は咄嗟に踏ん張った。それで逆に、お義母さまが足を滑らせて転ぶ。
カエルが潰れたような声を上げて、彼女は地面へ転がった。私は茫然と、彼女を見下ろした。
こんなに力が弱い人からの暴力に、私はずっと、怯えていたのか。
「ああ、夫人。大丈夫ですか?」
レングナーさまは紳士的な仕草で、お義母さまを助け起こす。お義母さまはレングナーさまに取りすがり、「御覧になったでしょう」ときんきんわめき始めた。
「あの子は酷いんです。こんな親不孝者で……私にも、こうして暴力を振るうんです」
「そうですか」
にこり、とその緑の瞳がたわんだ。
「どうやら非力な方が、アンナ嬢をいいようにするのは難しそうだ」
ひくり、とお義母さまの口の端が歪んだ。
レングナーさまは私の側によって、耳元で囁く。その艶めいた声に、首筋の産毛がぞわりと立った。
「このまま、きみをさらってもいい。どうする?」
私は顔を上げて、にっこり笑いかける。ためらわずに首を横に振ると、彼は「残念」と肩をすくめた。
「それでは、僕は帰ります」
その瞳が、私たちを見た。お父さまたちを睨むように冷たい視線が降り、最後に、私と目が合う。
「アンナ嬢、またお会いしましょう。僕は、あなたの歌を聴きたい」
ものすごく、熱烈な言葉だった。私が頬を赤らめている間に、彼は馬車へ乗り込んでいく。
そうして、レングナーさまは去った。残された私たちのうち、最初に動いたのはお義母さまだった。
逃げるように、屋敷へ戻る。お父さまは苦々しい顔で私を見つめたあと、鼻を鳴らして戻っていった。
私はひとり、夜空を見上げていた。あの夜会で見つめたのと、同じ空だ。
「負けない」
胸が熱い。私の芯に火が灯って、きっとそれは、一生消してはならない明かりだ。
スカートの裾を翻して、私もお屋敷の中へと戻った。ぽかぽかと火照る熱に浮かされるまま、自室へと戻る。
こんなところでへこたれているようでは、いけない。レングナーさまに見込んでもらったのだ。
境遇に、負けてなるものか。
私はバネだ。押しつぶされてきた時間だけ、どこかに力が溜まっている。
その力を、解放してやりたい。
花の都、歌姫は田舎の歌で成り上がる。〜私を見つけてくれた閣下の期待に報います〜 鳥羽ミワ @attackTOBA
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