第15話 デート?
レングナーさまは私を馬車へ乗せてくださった。
私は座席に座って、やっと一息つく。無意識に肩へ力が入っていたようで、すとんと力が抜けた。
ぼんやり膝を見つめていると、レングナーさまが窓枠を叩いて私の注意を引く。顔を上げると、「デートをしよう」といたずらっぽく言った。
「デート」
浮かれた響きに、私は驚いておうむ返しをした。レングナーさまは頷いて、御者にどこかの住所を告げる。
そのまま馬車は走り出した。これまで走っていた方向――私の自宅のある方向とは、違う道へと入る。
「どちらへ向かわれているのですか?」
私が尋ねると、レングナーさまは茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「楽しいところさ」
そうして、馬車はとあるビルの前で止まった。新しい建物のようで、アーチ状の屋根が優雅な美しさを演出している。
「行こう」
レングナーさまは私の手を取り、導く。私は今の格好のみじめさも忘れて、彼について歩いた。
「ここで、僕が主催するサロンをやっていてね」
私たちはエントランスへと入る。建物全体に暖気が満ちていて、私はほっと息を吐いた。
サロン、という言葉を口の中で転がす。詳しくは分からないけれど、なんとなく、心躍る響きだ。
それはきっと、レングナーさまが、私を連れ出そうとしている場所だからだろう。
階段を上がり、廊下を歩く。次第に、音が近づいてきた。
管楽器のロングトーン。弦楽器をつま弾く音。歌声に、ドラムロール。
私が顔を上げると、レングナーさまは「きっと、期待以上だよ」と言って笑った。
扉が開く。風が吹くように、音が私の身体を包んだ。
楽器を持った人々。あちこちで人々が語らい合い、音楽を奏でている。
言葉を失う私を見て、レングナーさまはいたずらが成功した子どものように目を細める。
「すごいだろう?」
ドアが開いたことにより、人々の視線が私へ集まる。その中に、あのバーで出会った人々の顔もあった。
レングナーさまは私を前へ押し出す。私が反射的に背筋を伸ばすと、それを支えるように、肩へ手が置かれた。
「紹介しよう。アンナ・エフラー嬢だ」
朗々とした声で、レングナーさまが私の名前を、全員に告げる。私は震える手をいなしてスカートの裾をつまみ、できるだけ優雅に見えるように挨拶をした。
「その子、きみがずっと自慢していた子か?」
上等の紳士服に身を包んだ男性が、フルートから口を離してレングナーさまへ問いかける。私は気恥しくなって、うつむいた。
レングナーさまは私の肩を叩いて、「大丈夫」と囁いた。そして男性に向かって、「フーバー、本人に言うなよ」と気安い調子でたしなめる。
「アンナ嬢、紹介しよう。僕の友人のドミニク・フーバーだ」
「歓迎するよ、アンナ嬢。ところでこいつ結構気難しいけど、大丈夫? 相談だったらいつでもしてね」
フーバーさまはからかうように甲高い音を鳴らす。彼いわく、レングナーさまは気難しいらしい。
私がそろりと見上げると、レングナーさまは「フーバー」と低い声でたしなめた。
「はいはい」
対してこたえた様子もなく、フーバーさまは音階をさらりと吹く。私が所在なく立ちすくんでいると、レングナーさまは「こちらへ」と私の手を引いた。
壁際に来ると、そこには一台のアップライトピアノが置かれている。彼は椅子に座って、蓋を開けた。
指慣らしに練習曲の冒頭をさらって、彼は私を見る。その瞳は、期待に輝いていた。
「歌って、アンナ嬢。僕が伴奏する。隣にいるよ」
その声の力強さに、私は脚を肩幅に開いた。肩の力を抜き、顎を引く。
「はい」
私の言葉に、レングナーさまが鍵盤を叩いた。
いつも歌っている、私の故郷の歌だ。
歌い出した私に、いや、私たちに、部屋中の視線が集まる。どこからかドラムが加わり、弦楽器の旋律が重なった。部屋の真ん中から手拍子がはじまり、私は腕を広げて、全てを受け入れた。
気づけば身体が揺れて、脚はステップを踏んでいる。懐かしい。楽しい。
お母さまと遊びにいった女神祭でも、こんなことがあった。
熱狂の渦の中、私の最後の声が、高らかに伸びていく。レングナーさまが和音を叩き、余韻が残って。みんなが手を叩き、足で床を叩いた。どく、どく、と、部屋全体が脈打つようだ。
身体が、どっと重たい。息切れがする。額には緊張からなのか踊ったからなのか、汗が浮いていた。
「素晴らしかった」
レングナーさまも、椅子に座ったまま拍手をする。その革靴のつま先が上下して、彼も床を叩いていた。
私は頷いて、皆さんに向かってお辞儀をした。ふう、ふう、と息をつきながらの礼は見苦しいだろう。体力をつけるのが、今後の課題だ。
歌に今後の課題があることの、なんて嬉しいことか。
そのまま、誰かが新しい曲の旋律を演奏しはじめる。すぐにみんながそれへ乗っかって、曲の渦が巻き起こりはじめた。
私の世界が、比喩ではなく明るくなる。音は風で、光で、渦で、私をもみくちゃにした。
いっぱいいっぱいになってレングナーさまを見上げると、「好きなだけ歌って」と彼は耳元で囁く。
「行っておいで」
私は、ためらいなく、その渦中へと飛び込んだ。隣でレングナーさまが私の手を握って、歌う私を見つめている。
今この瞬間、世界で一番幸せなのはきっと、間違いなく私だろう。そう確信できるほど、私の胸は高鳴っていた。
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