邂逅のアトリエ

甘灯

邂逅のアトリエ

芦谷あしやさん95歳だったのね…穏やかな最期だったわね」

「…うん。そうだね」


 同僚の言葉に明里あかりは寂しそうに答えた。


 芦谷は明里が勤める老人ホームの利用者で、先日老衰で亡くなったばかりだった。

芦谷はとても物静かな人で、5年ほど前から入居していたが問題な行動をすることは一度もなかった。

口数は少なく、1日の大半を自室に篭って絵ばかり描いて過ごしていた。

描いていたのはほとんど水彩の風景画だったが、明里には気になっている絵があった。


 それは女性の肖像画だった。

肩口で切り揃えられた癖のない黒髪、着ている服は決まって水色のワンピースだ。

端麗な顔立ちで屈託ない笑顔が似合う、可憐な印象の女性。

 芦谷はその女性以外の人物画は一切描いていない。

アングルや絵のタッチに多少の違いがあっても、すべて同じ女性であると一目でわかる。


『芦谷さん、その方は奥様なんですか?』


 明里は入居したばかりの芦屋に思わず尋ねた時があった。


芦谷はその問いに苦笑しながら「違うよ」と言った。


『僕、多分結婚してないんだ』

『多分?』


 明里はその言い方が引っかかって首を傾げた。


『僕ね、寝たらその日以前の記憶が全てなくなるんだよ』


 明里は驚いて目を瞬かせた。


『書きつづっている日記によるとね。…僕はどうやら事故に遭ったみたいで、頭を強く打ったらしい。「でも病院の検査では脳の損傷は見られず…精神的な解離性健忘かいりせいけんぼうと疑われたけど…はっきりとした原因が分からなかった」…と、そう書いているんだ』

『…そうなんですね。そうとも知らず不躾ぶしつけに聞いてすみません』


 申し訳ない気持ちになった明里に、芦谷は静かに笑った。


『気にしなくていいよ。それでね、事故に遭って以来、一日も欠かさず日記を書いているんだ』


 芦谷は棚に並べられた数冊の分厚い日記帳に目をる。


『僕にとって、書き綴ったこの日記達は僕の人生…そのものなんだよ。毎日読み返していてね…僕に妻はいたという事は一切書かれていないんだ。付き合ったことのある女性達の事は書いているんだけどね』


 書いた内容を思い出したのか、芦谷は少し恥ずかしげに頭を掻いた。

その姿に明里は思わず笑った。


『なら、その付き合っていた女性の中に…この絵の女性が居るかもしれませんね』


 明里の言葉に芦谷は腕を組みながら考え込んだ。


『んー、どうなんだろうね…何しろ覚えていないからね。…この人は僕にとっては何なんだろう?』


 芦谷の言葉に明里は悲しい気持ちになった。

思い出を何一つも覚えていないということは、虚しい人生だと思う。


『あの時、ああして楽しかったな、嬉しかったな』


 そんな生きていく中で、ふとした時に昔のことを思い出して、笑ったり、人と分かち合えるという喜びを味わえない。

 いくら文字に書きしるしていても覚えていないなければ、日記を読み返したところで『こんなこともあったな』と懐かしむこともできない。


 明里はそんな芦谷のことが不憫ふびんに思えた。


『…あまり医学的な事は詳しくないんですけど』


 明里は前置きしてから話し始めた。


『記憶ってまず脳にある海馬かいばという部分で保存するんですよ。まぁ、どうでもいい記憶は海馬がふるいにかけて忘れるそうですけど。それで残った大切な記憶は別の場所…えっと大脳皮質だいのうひしつだったかな。そこに移動して保管されて…ずっと脳に残っているらしいんです』


 明里は少し噛じった知識を思い出しながら話した。

芦谷は興味深そうに明里の話に聞き入っている。


『えっと…ですね…。それで何を言いたいかというと…。だから、芦谷がずっと描かれているこの女性は……そう!芦谷さんにとって大切な存在ひとだと思うんです!!』


 しどろもどろになりながら明里が力説し終えると、芦谷は目を見開いた。


『僕にとって大切な人…か。何も思い出せないけど…でも脳の奥底に残っているってことはそうなのかもしれないね』


 明里の言葉が腑に落ちたように、芦谷は頷いて答えた。

もしかしたら元気づけようとする明里に対して、気を遣った言葉かもしれない。


『きっと、そうです!それに…』


 明里は壁にかけられた肖像画をもう一度見る。


『芦谷さんに…こんな笑顔を向けてるってことは…きっと、この女性も芦谷さんのことを大切に想っていたと思いますよ』



 その言葉に芦谷は息を呑んだ。


「………そうか…そうなら、いいな」


 肖像画を見ながら、芦谷は泣きそうな顔をした。

その表情の真意は、明里には分からなかった。





   ◇◇◇◇   ◇◇◇◇


 明里は主が居なくなった部屋で、彼の遺品を整理していた。

荷物は決して多くない。画材と日記ぐらいだ。

 芦谷は家族がいなかった。

もとは独り暮らしをしていて、足を悪くして車椅子生活になってから明里の勤める老人ホームに入居していた。


 明里は額縁に飾られた女性の肖像画を撫でた。

芦谷の絵はとても上手い。

素人目からしても、水彩の温かみのある色合いと精密な絵のタッチは人を引きつけるほど見事なものだった。

しかし意外なことに芦谷は画家ではなかった。


 芦谷は事故に遭ったと思われる23歳からほぼ日雇いの仕事をしながら細々と生活してきたらしい。

 芦谷がきちんと定職につかなかったのは、記憶を維持できなかったからだ。

記憶がないということは継続的に仕事することがとても難しい。

職場の人間関係も毎日リセットされるとなると、仕事に支障をきたすことが多い。

しかし日雇いなら、1日限りの仕事内容であり、そこまで人間関係を深く構築しなくてもいい。

だから芦谷にとって、それが最良だったのだ。

しかしそのせいで彼の生活はとても苦しかった。

それでも芦谷はなんとかお金を工面して画材を買い、絵を描き続けていた。


 これらはすべて芦谷が書いた日記に綴られていたことで、生前の彼から語ることは一切なかった。

 否、正しくはそれは出来なかった・・・・・・


「芦谷さん…この女性に会いたかっただろうな…」


 明里は無意識に呟いて、込み上げてきた涙を袖で拭った。


 生前の芦谷は人の顔も名前も記憶出来ないので、あまり人と関わりを持つことを避けている節があった。

 他の利用者も積極的に芦屋に話しかけたりせず、介護士の同僚達も芦谷に対して最低限の会話に留めていた。

 しかし唯一、明里だけは芦谷にきちんと向き合っていた。

 毎日「誰?」という顔を芦谷にされても、明里は気にせず挨拶して、時間が余す限りたくさん話した。

 明里は芦谷が大好きだったのだ。

そんな芦谷にもっと何かしてあげられなかったのか。

自問自答する度に、何もしてやれなかったと明里はひどく落ち込んだ。


 コンコン。

扉をノックする音で、明里は我にかえった。


真柴ましばさん、ちょっといいかしら?」




 ◇◇◇◇   ◇◇◇◇


「私が芦谷さんの遺産の相続人に…ですか?」


 応接室で、明里は芦谷の弁護士と名乗る男と対面していた。

 言われた内容に、明里は思わず聞き返す。


「はい。生前に芦谷さんから依頼を受けまして」


 弁護士はスッとテーブルに封筒を置いた。


「故人は貴方にすべての遺品を相続してほしいと遺言を残しておられるのです。どうされますか?」

「え…」


 明里は戸惑った。


「芦谷さんはどうして私に遺産を渡すなんて言ったんでしょうか…?芦谷さんは…その…記憶障害があって…私のこと覚えてないはずなのに…」


 朝会うたびに、まるで初対面の人とあったような芦谷の様子を思い出す。

 弁護士は「そうですね」と頷いてから、そのわけを話し始めた。


「…芦谷さんに聞きましたら、日記を見返してよく真柴さんのことが書かれていたそうです。大変良くしてもらっている…感謝の言葉を書き綴っていたそうで。……しかし自分には親切にしてくれた記憶が残っておらず、そのことを心苦しくも思っていたようでもありましたが…」


 家族でも何でもない明里に遺品を相続させるという理由は、単に親切にしてくれたと言う事らしい。


 赤の他人に遺産を相続させるなんてまるでドラマのような展開だ。

 まさか実際に自分の身に起きるとは思わなかった。


「遺産と言っても金銭的な財産はまったくない状態なので…芦谷さんの遺品すべて譲渡するという形になるのですが…」


 弁護士は気まずそうに頭を掻いた。

芦谷は身内が居らず、芦谷の死後の遺品の処理についての問題があった。

芦谷は他人に迷惑はかられないと言っていて、弁護士にすべて任せると言ったものの、弁護士は誰かに相続させてはどうだと提案し、渋る芦谷に食い下がった。

それは弁護士が芦谷の絵の素晴らしさをよく理解していて、私情を持ち出してでも処分などさせたくなかったのだ。

 しかし1円にもならないことを、明里に押し付ける形になって申し訳ない気持ちがあった。

明里は芦谷の遺言書を読み終えて、息をついた。


「わかりました。芦谷さんの遺品は私がすべて譲り受けます」


 明里の晴れやかな顔を見て、弁護士は驚いた顔した。





   ◇◇◇◇   ◇◇◇◇





「…で、芦谷さんの個展を開くなんて、場所を借りる費用大変だったんじゃない?芦谷さんから一切お金は貰ってなかったんでしょ?」


 親友の香織かおりのトゲのある言葉に明里は苦笑した。


「まぁ…そうだけど。でもやっと芦谷さんにしてあげることが見つかったからいいんだよ。1日限りの個展だから、費用はそこまでかからなかったし」


 芸術とは無縁に生きてきた明里は、個展を開くためにかなり苦労した。


「ま、とてもいい絵だもんね…色んな人に見せたい気持ちは分かるわ。でも無料ただじゃなくてもさ」


 香織が尚も食い下がるので、明里は話題を変えることにした。


「香織、本当に手伝ってありがとうね。SNSで宣伝なんて、そういうのに疎い私にはまったく思いつかなかったよ」

「でしょうね。…まったく、あんたは損得勘定なしに行動しちゃうから…ほっておけないのよ」


 香織は露骨にため息をついた。


「えへへ」

「何照れてんのよ?気持ち悪い」

「香織って…ホントに優しいよね」

「違うわよ。あんたとは腐れ縁なだけで…そ、そのよしみで世話してやってるだけ!」


 香織の必死の照れ隠しに、明里は笑った。


「…でもさ。本当になんで個展を開こうと思ったわけ?遺言にはそんなこと一切書かれてなかったんでしょ?」

「うん」


 明里は静かに頷いた。


「もしかしたら…この絵の人が来てくれるんじゃないかなって、そう思って」

「………」


 香織は何も言わずに、明里の話を黙って聞く。


「芦谷さんは90歳過ぎてるんだから…その人もかなり高齢だと思うし…来てくれる確率はほぼ無いんだけどね」


 明里は寂しそうに笑った。


「でも、もしかしたら!って思っちゃったんだよね…」


 途端に俯いた明里の肩を、香織はポンと優しく叩く。


「そうね。来てくれるといいわね」


 香織も来ることはないだろうと同じことを思っていたはずだ。

しかし香織は、叶わないとわかっている明里の願いを汲み取って、そう言ったのだ。

そんな親友のやさしさに、明里は涙がこみ上げてきた。






 その日、芦谷の個展には多くの来客が来た。

その人の中には絵を買いたいと申し出る人もいたが、明里は丁重にすべて断った。


「明里、大体の荷物は車に積み終わったわよ」

「ありがとう」

「これは指定されたトランクルームに運んでおくわね。後は一人で大丈夫?」

「うん、大丈夫」

「なら、そのままあたしは先に帰るわね」

「うん!ありがとう、香織」


 香織が帰ると、明里は最後に飾られていた肖像画を静かに眺めた。

 高齢の女性は何人か来ていたが、芦谷の想い人は居なかった。


「分かってたんだけどね…」


 静かに呟いて、明里は額縁の絵に手をかけた。


「あの!」


 その時、声を掛けられた明里は振り向いた。


「展示会はもう終わってしまいましたか…?」


 息を切らしながら、若い男性が言った。


「はい。片付けてしまって…もうこの一枚しか」


 明里の視線に男性もそちらを見る。


「ああ…やっぱりよく似てる」


 男性は呟いた。


「え?」

「実は…その絵の女性…俺の曾祖母の若い頃によく似ていているんです」




 ◇◇◇◇   ◇◇◇◇


 男性の名前はしのぐと言った。

10年ほど前、彼の曾祖母は病気で亡くなった。

母と遺品整理をしている時に、曾祖母の若い頃の白黒の写真を見たことがあるらしい。


「SNSで偶然展示会のことを知って…あまりにその写真の曾祖母と似ていたので。それで気になって行こうと思っていたんですけど、急に大学の研究室から呼び出されてしまって…」


 凌は大学院生らしく、用事を終わらせて、急いでここに駆けつけたということだった。


「そうだったんですね。わざわざご足労おかけしてしまって…あのよかったら少しお話聞かせてもらえませんか?」






 凌は明里に曾祖母の写真を見せてくれた。

本当に芦谷が描いた女性とよく似ている。


「曾祖母の妹から母が聞いた話なんですけど…曾祖母…名前はみなとと言うんですけど、曽祖父と結婚する前に…駆け落ちしようと思ったほど想っていた男性がいたそうなんです」


 明里は驚いて目を見開いた。


「時代が時代だったので、親の決めた人と結婚をするしか曾祖母には選択肢はなかったのですが…でもどうしてもその男性と一緒になりたかったみたいで…二人は駆け落ちすることにしたんです。でも駆け落ちすると決めた日に男性は来なかったんです」


「え…どうし…あっ!」


 明里は思い出したように言葉を切った。


「どうしましたか?」


 凌が思わず聞き返す。


「この絵を描いた人…芦谷さんと言うんですけど…若い頃に事故に遭ったらしくって…それで記憶障害になってしまって」

「え、それじゃあ…」

「…ええ。もしかしたら…湊さんと駆け落ちする日に…芦谷さんは事故に遭ったのかもしれません」


 明里は泣きそうになって、思わずシワができそうなほどスカートを強く握った。


「そうか…曾祖母はその男性が来なかったことで…結局曾祖父と結婚したんです」


 凌も明里に同調したようで、その声が感傷的に震えていた。


「そうでしたか…」

「あ…それで俺…これを持ってきたんです」


 何か思い出した凌はリュックから一つの木箱を取り出した。

それを明里にそっと手渡す。


「開けてみてください」


 凌にそう促されて、明里は慎重に箱の蓋を開けた。


くし…ですね」


 それは飴色のべっ甲の櫛だった。


「これ…曾祖母の形見なんですけど。芦谷さんの遺品と一緒に置いてくれませんか?」

「え?で、でも…」


 凌が言わんとしていることを察した明里は戸惑った。


「母から了承を貰っているんです。だからお願いします」


 凌は深々と頭を下げた。

芦屋が湊の想い人だという確証は何もない。

しかしー


「…わかりました」


 明里がそう言うと、凌は安堵の息をついた。




 凌が帰ると、明里は額縁の絵の前に立った。


「芦谷さん、これ…湊さんの形見の品です」


 明里は絵の方を向くように置いた椅子の上へ、湊の櫛をそっと置いた。


「私、残りの荷物を車につけてきますね」


 独り呟き、明里は画廊の扉を静かに閉めた。






          ・

          ・

          ・





 一人の女性が椅子に静かに座って、肖像画を見つめている。


『実物より随分と綺麗に描いてくれたのね』


 女性は少し皮肉も込めて、しかし何処か幸せそうに微笑んだ。


『そんなことないよ』


 女性の隣に佇んだ若い男が苦笑したように言った。


『そうかしら?とても美化してると思うわ』

『違うって。実物の方がずっと綺麗だよ』 

『ふふ…相変わらずお世辞がうまいのね。でも…ありがとう。ずっと私のことを覚えてくれて…想っててくれて』


 途端に女性は泣きそうな顔で言った。

男の目にも薄っすらと涙が浮かんだ。


『約束破ってごめん…』


 男は深く頭を下げた。


『あの時は…あなたを恨んだわ』


 女性は静かな声で言った。


『そうだよね…』


 男は頭を下げたまま、消え入りそうな声で言った。


『でもね…』


 女性は男の袖を掴んだ。

男が弾かれたように顔を上げる。


『こうして…また会えたんだもの。だから、もういいの』


 女性は男を愛おしそうに見つめて、そして笑いかけた。

その笑みは目の前にある肖像画とまったく同じだった。


『ありがとう。…じゃあ、もう行こうか…』

『ええ』



 二人は微笑み合い、手を繋ぐ。


そして二人の姿はかすみのように静かに消えた。


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