Episode 1: マーガレットの目覚め

 それは、大切な話をするために夫をフレンチレストランに誘い、ふたりで食事をしていたときのことだ。いま思いだしてもどうにかなりそうなほど不思議な出来事だった。


 そのときなにが起こったかをごく簡単に言ってしまうと、27歳既婚者の私・相澤紗耶香さやかが、食事中に突然スノーグレイス侯爵家の長女、マーガレット・スタンリーに人格転移してしまった、ということだ。


 転移のきっかけについては、はっきりしない。普段はお酒に弱い夫が、前菜が終わったときにめずらしくアペリティフを褒めたことは記憶に残っている。 


「このスパークリング、なかなかドライでうまいね」彼はそう言って、フルートグラスのステムを持ち上げて液体の残りを確かめ、最後のひとくちを飲んだ。


 近ごろはふたりとも仕事が忙しく、ふたりで出かける機会も減ったから、ひさしぶりの外食に彼はややハイになっているのかも知れなかった。


 そして彼は名残惜しそうにグラスを置くと、「次はどうする? ブルゴーニュにしようか?」などと言って上機嫌にワインリストをめくりはじめたので、私はすこし焦った。


「そんなに飲んで大丈夫なの? もう顔、真っ赤じゃん」私はちょうど出されたオマール海老のビスクを左手に持ったスプーンで掬いながら言った。


 私はあらかじめお店と相談して、コース料理最後のスイーツに「祝パパデビュー」というちいさなプレートをつけて妊娠を報告するサプライズを用意しておいたのだが、彼は酔っ払うと記憶が曖昧になる人なのでこのままいくと計画がぶちこわしになる。


「#$%&はどうかな? ヴィンテージは□%△○だけど」


 彼がワインリストをめくる右手を止めてそんなふうになにか言いはじめたと同時に、なぜかよく分からないけど、誰かの声が至近距離でそこにかぶってきて突然聞き取りにくくなった。それは、ザーッという電波ノイズに混じった話し声のようだった。


「え? めっちゃノイズが入ってきてよく聞こえない」


 ——私も酔ってるのかな。


「なんだよノイズって」夫は笑った。


 確かにそう。生の声にノイズが入るなんてあり得ない。


「それよりさ、今日は食事の最後に私から伝えたいことがあるんだけど。あなた飲むと寝ちゃうから、ワインじゃなくてグラスビールくらいにしておけば?」


 本格的に酔ってしまうとまずい。


「%##$かな改まって? もしかして□%$#@こと?」夫は冗談めかして言った。


 ——またノイズだ。何を言ってるか分からない。


 そう思った次の瞬間、頭のなかにもやがかかったような不思議な感覚に襲われて、私は気分が悪くなった。視界がぼやけて中心部分がよく分からないような、夫との距離感も近くて遠いような、もどかしい感覚に陥った。


 テーブルの上のグラスやワインリストが歪み、次第に輪郭を失っていく。その一方で、視界の中心には奇妙に明るい光の粒が浮かび上がり、それが幾何学模様のように形を変えながら渦巻いているのが見えた。


 と、突然、胸が吸い込まれるような圧力に襲われ、息ができない。体中を冷たい風が撫でる感触に震え、同時に足元が崩れ落ちるような浮遊感に囚われた。


 ——来て。


 誰かの声が耳元で響いた瞬間、視界が闇に包まれ、無数の星々が光る異空間に放り込まれたようだった。


マーガレットお嬢様レディ・マーガレット!」


 ふと気がつくと、どうやら私は、手を滑らせて落としたグラスの破片で足を切ったようだ。店の小柄な女性がいそいで駆け寄ってきてナプキンで私の足首を覆い、その純白のナプキンに鮮血が滲みだす様子を、私はまるで夢の中の出来事のように傍観していた。


 ――マーガレットお嬢様って?


 よく見ると彼女は異国の女性だ。歳は17か18くらい。髪を後ろでお団子にしてダークブラウンの裾の長いワンピースを纏い、首回りには白い襟がかかっていて、胸元に地味な色のリボンタイを結んでいる。装飾品はつけていない。制服みたいな服装だが、名札はない。


 ——店の人ではないのかな。親切な彼女はいったい誰なのだろう。


「ありがとうアン、大丈夫よ」


 なぜかそういう言葉が自然と口をついて出てきたことに、私は自分で驚いた。アンですって? なぜ私ははじめてお目にかかるこの子の名前を知っているのだろう。


 ふとまわりを見渡すと、私が今いるその場所はレストランではない。目の前にいた夫もいないし食事をしていたテーブルもない。ここはどこかの古めかしい洋館の一室だ。


 ——え……?


 私の心臓ははげしく鼓動を打った。


「あの……ちょっと……」

「大丈夫ではありませんわ、こんなに血が。じっとしていてください、いまマクレーンさんを呼びます」


 アンはそう言うなり立ち上がって、天井からぶら下がっているベルの紐をちぎれそうなくらい何度も引っ張った。マクレーン夫人は口うるさい人だけど、こういうときは頼りになる。


 ――待って、マクレーン夫人って誰?


 私はアンの姿を目にした最初の15秒間よりもあきらかに動揺し、混乱していた。狐につままれるなどという穏やかなものではなく、全身から血の気が引いて手足が震え、おそらく表情は凍り付いたようになっていただろう。


 ――私のなかにだれか別人の記憶が入り込んでいる!


 いったい夫は、レストランは、どこに消えたのだろう。ここはどこだろう。そして、マーガレットと呼ばれた私はいったい誰なんだろう。


 思わず俯いて自分の服を確認すると、仕事帰りのグレーのパンツスーツだったはずが、いつのまにか白っぽいワンピースになっている。髪を手さぐりしてみると、ミディアムボブの毛先がどこかへいってしまって、編み込まれて頭のうしろでポニーテイルにまとめられているようだ。


「鏡を、鏡を……お願い」


 ひどく息苦しく何がなんだか分からなくて、私は立ち上がってくうを掴むような無意味な動作を繰り返した。


「お嬢様、落ち着いてくださいませ」


 私はアンがいそいで渡してくれた手鏡を覗き込んで心臓が止まりそうになった。そこには、ひどく青ざめてはいるけど私とは似ても似つかぬ美しい少女が――ヘーゼルブラウンの瞳にブルネットの髪を備えた、一目でそれと分かる異国人が、心配そうにこちらを見ているのだった。


 私は鏡を取り落とすと叫んだ。


「私、どうなっちゃったの? 私はマーガレットなんかじゃないわ、アイザワ・サヤカよ! 27歳! 夫がいるの!」


 それからほどなく気を失った私は、三日三晩、熱にうなされて眠り続けていたらしい。そして目覚めてからはいつまでも泣いていた。何の落ち度もなく暮らしているのに突然異世界に飛ばされて他人のからだを与えられるなんて、それだけで不条理もいいところなのに、私の場合はちょうどのが分かったところだったのだ。それを夫に報告しようとした矢先にこんなことになってしまった。泣くなと言うほうが無理な話だろう。


 絶え間なく泣き叫び、誰かれ構わず呪詛じゅその言葉を投げつける私を、スノーグレイス侯爵である父のモーガン・スタンリーや妹のスカーレット・スタンリー、そして当家の使用人たちは、「マーガレットは何かの熱病に冒されているか、悪魔に取り憑かれたかのどちらかなのだ」と考えたようだった。


 使用人たちにはただちに箝口令かんこうれいが敷かれ、口外したものは解雇されることを言い含められたうえで、手に負えない私に可能な限り優しく接するように言い渡され、実際、彼らは私に慰めの言葉をかけ、まいにち神に祈り、賛美歌を歌い、滑稽なことだが祓魔師エクソシストを呼んで悪魔祓いの儀式を行った。


 そうこうするうちに、私はもう泣いてもわめいても相澤紗耶香には戻れないのだと理解し、今にして思うといささかのんびり屋でお酒弱々魔神だけどとても私想いでいてくれた夫を、たったひとりで日本に置き去りにしてきたことに、ひどく胸が締め付けられた。


 そして毎日の寝起きや食べること、それ以前に生きていることすら苦痛で仕方なく、死んでしまえばまた生まれ変わって夫の元に戻れるかもしれないという考えに囚われ、実際のところ今すぐにでも首を括ろうかとまで真剣に考えていたほどだ。


 それからひと月も経過してやっと精神状態が安定してきた私は、ずっと専心に世話をしてくれたレディースメイドのアンを話し相手として、おそらくこの世界へ来てはじめて、自分ではない誰かと内容のある会話をしたのだった。


「もういちど言うけど、私はマーガレットではないの」——私はナイトガウンのままベッドの上に起き上がってそう言った。


「はい、もうそれは何度もお嬢様から伺いました。でも、私としましてはマーガレットお嬢様付きのメイドとして、あなた様にお仕えする以外にございませんので」アンは立ったまま両手を前に揃えてはっきりと答えた。はっきりとした物言いだが冷淡ではなく、むしろ私のことを心配しているらしい様子が清んだ瞳から見えた。


「どこの誰かも分からない私に仕えてくれるの?」

「あなた様がご自分をマーガレットお嬢様ではないとおっしゃることについては承知いたしておりますし、もしかすると実際そうかもしれませんが、だからといってそれだけで私はお仕事を辞める訳にはいきません」


「待って、あなたに辞めてほしいなんて少しも思ってないわ」

「あなた様がしきりにご自分をマーガレットお嬢様ではないとおっしゃることは、マーガレットお嬢様付きの私がお仕事をなくすことにひとしゅうございます」


 そう言ってアンは悲しげな様子でしきりに前髪を撫でた。


「そういうつもりはないのよ。あなたが私付きのメイドさんだからこそ、純粋に真実を知ってほしいと思ってるの」

「はい。ですから、ご事情についてはよく分かりませんけれども、あなた様がマーガレットお嬢様ではないということについては承知いたしております」


「信じてくれるの?」

「はい」


「あなたは、私がまだ熱病の影響でおかしくなったままだと思ってない?」

「おかしいという言い方は正確ではないと思いますが、まだ完治されていないかもしれません」


 私はすこしやるせない気持ちになった。人格転移などという理解不能な話が受け容れられるはずもなく、結局はこうして熱病の影響ということになるのだ。毎日べったりと世話をしてくれているレディースメイドですら信じてくれないのに、他の誰が信じてくれるだろうか。


「困ったわね。高熱で何日か寝込んだのはたしかだけど……」


 アンは最初に会ったときのように、ダークブラウンの裾の長いワンピースを纏い、首回りには白い襟をかけていて、胸元には地味な色のリボンタイを結んでいる。

 あとで知ったことだが、現代のコスプレなんかに使われるお仕着せメイド服にはエプロンが必須だが、レディースメイドはエプロンをしていないことの方が多いらしい。


「ねえ、ところでほかにもいろいろと質問があるんだけど、長くなりそうなのでそこに座ってちょうだい」私はドレッサーの椅子に座るようアンに言った。


「私に分かることでしたらお答えいたします」アンは背もたれを使わずに背筋を伸ばして座った。


 ——そこで彼女から聞き出したことをざっと要約するとこうだ。ところどころ不正確な部分や事実と異なる部分があり、そこはあとから私がつけたして整理した。


 いまは1887年だそうだ。1887年だなんて……日本なら明治20年、フランスなら第三共和政が敷かれて17年、英国ならヴィクトリア朝の時代だ。つまり私は100年以上もの未来から来た人物ということになるのだ。


 この国はグレートウェスト王国というらしい。グレートウェスト王国なんて、日本では歴史の授業でも習った記憶がないしもちろん受験勉強にも出てこない。首都マーシュフォートには、街を東西にうねりながら横断するように豊かな水量の川が流れているという。首都の真ん中にある中央駅から蜘蛛の巣状に伸びた地下鉄の軌道を蒸気機関車が走り、地上の街路では馬車が行き交う。この蒸気機関車の地下鉄で、私はちょっとした事件に巻き込まれることになるのだが、それはまたあとで話す。


 大都市では上流階級の社交が盛んで、昼間はシルクハットをかぶってステッキを持ったフロック姿の紳士や、花で飾った大きな帽子をかぶってパラソルをさしたドレス姿の淑女が競技場に集い、競馬を楽しみ、夜は夜で毎夜毎晩どこかでパーティが開かれるらしい。パーティには、上は公爵デュークから下は大商人、裁判官、将校、医師などがハイ・ソサイエティを求めてやってくるそうだ。


 私が転移したこの家はスタンリー家といい、首都から北東に数マイルしか離れていないにもかかわらず田園地帯の続く田舎で、領主のスノーグレイス侯爵モーガン・スタンリーはウェルフリート伯爵を兼ねている。スタンリー家はいわゆる貴族の家柄だ。


 日本では西欧の貴族というと、すべての家が豪奢ごうしゃな暮らしをしているというイメージがあるようだけど、ここスタンリー家は飛び抜けて裕福という訳ではない。領地が12万エーカーあり使用人が数十人いるので、中流家庭から見ると桁外れだとしても、資本家や大商人のように湯水のごとくお金を使うような生活はしておらず、お付き合いしている社交界から見ると堅実な部類だと言って差し支えなかった。


 とは言えそこは貴族、これはまたあとで書くけど、家族だけのごく普通の朝食でも5種類から6種類のご馳走がまいにちテーブルを賑わしたし、食後にはかならず果物とミルク・プディングがついた。お茶の時間にはバナナのサンドウィッチかスポンジケーキ、あるいはその両方がついた。ほんとうはもっと質素に暮らすことが相応ふさわしいのだろうけれど、ある程度の領地を所有している以上は、かんたんに使用人の頭数を減らせばいいという訳にはいかないし、食を切り詰める訳にもいかない事情があるらしい。貴族には貴族なりの価値観や習わしというものがあるようだ。


 こうしてざっと並べてみると英国ヴィクトリア朝に似ているところがとても多くて、まるで映画で観る世界だ。ただし、日本人の多くが憧れるような華やかな世界は、あくまでも表向きだけのこと。この時代はまだガス灯が普及する以前のことだから、ランプしかない夜の暗さときたらほとんど暗闇と同じだし、トイレのことについては話す気にもならない。賑やかな社交界をよそに、一歩離れて路地裏に入ると、不衛生で危険極まりない現実世界が待っている。まさかこんな世界に自分が生きることになろうとは、ほんとうに夢にも思わなかった。


 アンはいくら私が説明してもなかなか納得してくれないので、これからは誰に対しても熱病であらゆる記憶を失ったように装うことで、うわべだけをつくろって生きていくことにする。


 次のエピソードでは、100年を超える未来から来た異国人の私が、貴族の家でどんなにちぐはぐな生活を送ったかを紹介しよう。

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ハーグリーヴス家の儀式 小宮結葉 @yuikom

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