第27話
私は影の中から姿を現した。鏡火の背後だ。背後から一歩踏み込んで後ろに強烈な蹴りを繰り出す。青白い雷の閃光が瞬く私の足裏が鏡火の肋骨あたりに当たる瞬間。鏡火は炎となってチリチリと消えゆく。幻影だ。本物は私の背後に。鉄扇が音を立てて迫ってきている。風を切る鋭い音が耳元をかすめ、私は反射的に振り返った。
ぎらりと光る刃が迫る。私は咄嗟に鉄扇を思いっきり噛んだ。硬く冷たい鉄の感触が歯に伝わる。私は気にせず顎に力を込めた。バリバリと音を立てて噛みちぎり、砕いて咀嚼するとその成れの果てをぷっと地面に吐き出す。
鏡火が信じられないという顔でぎゅっと眉を顰めた。
「野蛮ね。本当に人間なの? まあいいわ……」
私が放つのは鋭い右ストレート。しかし拳を叩き込もうとしたところ、鏡火は余裕の表情で軽やかにそれを避ける。今度はこちらに拳が降ってくる。避ける暇もない彼女の拳が私の腹にめり込んだ。痛みに肺から息を吐く。そしてすかさず喉を掴まれた。その細腕で、信じられない程の剛力。私は苦しさに喘いだ。鏡火の赤い唇は上がり、グッとその力が強くなる。
その時、屋敷の方が何やら騒がしくなった。明かりがついて人のざわめきがするのを耳にした。私は手を振り解いて背後に飛び退くと息を吐いた。楓が札を剥ぎ取り、この家にもともと張られていた結界を破ったのだ。結界を破ったことにより、やがて人がやってくるだろう。
「あら……もう時間かしらね」
鏡火は屋敷の方を見てそう言った。さらりと黒髪をなびかして地面を蹴る。その背中に向かって私は叫んでいた。
「待っとけ!! 私が必ず倒す!! 地獄に落としてやるから!!」
石垣を乗り越える際に、鏡火は振り向いて美しく笑った。
「楽しみにしているわ」
軽やかに石垣を乗り越えてその背中はあっという間に見えなくなる。そして鏡火はこの庭園を去った。
残されたのは銀二のみだ。青年の姿で、赤黒い血に塗れてうつ伏せに倒れている。一歩踏み出して近づこうとしたところ、そばで楓が現れた。少し足を引きずっている。
「どうしたの?」
「アオが、戻ってくれって……」
影から姿を現したアオは地面に崩れ落ちた。それでも這って、なんとか銀二に近づこうとする。必死だった。私は肩を貸して立たせてやった。そしてアオは、私と共によろよろと銀二に近づく。楓が銀二の体を仰向けにしてやって、初めてアオと対面する。銀二は右目から血を流していて、左目はぼんやりとアオを見上げた。その瞳はアオを見ているようでどこも見ていない。視力が失われているのだ。銀二はもう長くない。
銀二は匂いを嗅ぐように鼻をすんと鳴らす仕草をする。掠れた声がした。
「蒼月か……悪かったな……」
銀二のその言葉に、アオは目を伏せた。そして顔を上げると優しい目で言った。
「兄貴だと思ってたよ。今までありがとな」
それに銀二は少しだけ口端を上げた。
「……最期にお前に言っとかなくちゃならねえことがある。──黒羽は夜行衆だ」
「は、」
黒羽とは父さんに昔仕えていた妖怪だろうか。前にアオと銀二が話している時に出てきていた名だ。それを聞いたアオは目を大きくさせて顔を強張らせていた。
「じゃあな、蒼月」
銀二は静かに目を閉じた。穏やかな死に顔だった。
光の差し込まない影の中、私は楓に肩を貸していた。そのまま影を出て屋敷を彷徨い、暁史を探す。途中で慌ただしく歩く家の者たちに会ったので、舞を影から出して引き渡す。心配して引き止められるのを振り解いて、私たちは歩き出した。夜は薄れ始めて東の空がほんのりと青みを帯びていく。暗闇は少しずつ溶け出し、遠くの山々がぼんやりと浮かび上がる。
「なあ、」
一歩一歩踏み締めるように歩きながら楓が不意に口を開いた。その声はかすかな朝の風とともに流れる。どこか遠くで消えてしまいそうなほど小さな声だった。彼女は前方へと視線を真っ直ぐ向けたまま、思いを絞り出すように続けた。
「悪かったわ」
いつもの自信が溢れるような快活な言葉とは違う。居心地が悪そうな声だ。
「嫉妬してたんよ」
私は目を伏せて口端を上げる。そして「いいよ」と短く返した。もう怒りは欠けらも残っていない。
「許してくれるん?」
楓は声に安堵を滲ませていた。私は精一杯の勇気を詰め込んで言った。
「代わりにさ、友達になってよ」
その言葉に楓はふと私を見た。クリクリとした彼女のまあるい瞳と目があう。カフェラテ味の飴玉みたいな瞳。彼女の頬がわずかに紅潮し、ゆっくりと花が綻ぶようにはにかむ。
「うん、なるわ。あんたの友達」
その答えに、私の胸がじんわりと温まる。緊張や距離感が夜明けの薄明かりの中、徐々に溶けていく。
そうして人の話し声がかすかに聞こえてきた。中庭の方だ。そこに向かって歩く際に空を見上げると、東の空が一際色彩を帯びてきていたのが分かる。青みを帯びた暗闇はさらに淡く。星たちは一つ、また一つと消えていく。代わりに黄金色の眩い光がゆっくりと地平線を染めていく。やがて朝の太陽が姿を現し、その輝きがこの世界を美しく照らしだす。
その静寂に包まれた景色の中、中庭で私は暁史と岳の姿を見つけた。しかし、瞬間何か違和感を覚える。こちらに背を向けて立つ岳の背中から、まるで異物のように突き出たものがある。鎖だ。血に濡れて鈍く光る鎖。それは彼の肉を裂いて、剥き出しにその背中から突き出ていた。
生々しく、残酷なその景色に息を呑む。
暁史はその状況に微塵も動じることなく、手元に伸びた鎖を握りしめていた。彼がその手を引くと、その鎖と岳の身体も動く。次の瞬間、鎖が消えると同時に、岳の背中にはぽっかりと穴があき、彼の身体から力が抜けていくのが見える。ゆっくりと倒れゆく岳に向けられた暁史の瞳。なぜだろう。それが脳裏に焼き付いて離れない。
私はこの光景に圧倒されて、理解が追いつかなかった。ただ目を見開いていた。隣で楓のほっとした声がかすかに聞こえた。
「な? 言ったやろ、暁史兄さんが負けるわけないって」
その声が妙に遠くから聞こえてくる。私はそれになんと答えたのだろう。それも定かではない。言葉が思うように出なかった。
岳は地面に倒れ伏していた。血溜まりができている。その鮮烈な赤が広がる中、青ざめた顔で岳は暁史を見上げて呟いた。
「なん、で……?」
「簡単な話やな。元から信用してへんのや」
”信用”。信じていないという言葉。自分のことのようにショックを受ける自分がいて驚く。暁史はかつて、岳と幼馴染だと話していた。何年も共に過ごし、長い絆を築いてきたはずの幼馴染ですら、暁史は信用していなかった。それならば、私は──私は果たして暁史にとってどういう存在なのだろう。幼馴染ですら少しの迷いなく切り捨てる彼が、出会って間もない私のことを心から信じてくれるわけがない。そう思った時、胸が引き絞られるように痛んだ。
暁史の一面を、冷酷さを知っていると思っていた。少しは理解しているつもりだった。でも一抹の不安が胸をよぎる。私のことも切り捨てられるのだろうか。それは……さほどあり得ない未来ではない気がした。
彼への信頼が揺らいだ瞬間、ぎりぎりとねじれるように苦しさが胸を締め付ける。それまで私は兄以外の誰にも、こんなにも心を乱されたことはなかった。感情が揺さぶられて、胸の奥底から鈍い痛みがじわりと湧き上がり、押し寄せるように広がっていく。この思いは一体何なのだろう。
──多分私は、暁史のことが好きだった。
認めた瞬間、納得とともに心にはジクジクと鈍痛が走る。気づかれまいと感情を抑え込もうとするたびに、その痛みはかえって強まる。心の奥深くに鋭く染み渡っていくようだった。暁史の過去を知って彼の痛みを少しは知った気でいた。意地悪で、でも優しくて、面倒見がいい。彼の中で譲れない芯を持っていて、そして時に驚くほど冷徹な男。
そんな彼に、ほんのわずかでも触れることができればいいと、私はずっと願っていたのかもしれない。
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