第23話
私は息を呑んだ。口元を手で覆い、そして目をこらす。綺麗な男の横顔が、汗を流して俯いていた。顔面蒼白だ。間違いない、そこにいるのは岳だった。私は思わず拳を握り締め、アオと顔を見合わす。裏切り者の正体が岳だったなんて。と言うことは最初の呪詛は自作自演か。
「いいぜ。お前のチンケな命、俺が預かる。俺の国盗りに使えるかどうか、それが見極められる最後のチャンスだ。今すぐ戻って一人でも殺せ。奴らの血の一滴でも手土産に持ってこい。それができねえんなら、お前もただの虫ケラ同然。俺の足元で這いずり回る以外の道はねえってことだ。直々に殺してやるよ……弱者に価値はない。そうだろ?」
そこには絶対的な支配者の威圧感があった。沈黙が張り詰め、闇に包まれた庭園が冷たさに包まれる。
その瞬間だった。どこかで微かな物音がした。私は唾を飲んだ。一瞬私が音を立ててしまったのかと思ったが……違う。少し離れたところで音が鳴ったのを感じた。
「……おい、人がいるな。……お前つけられてたのか」
全身に冷や汗が滲む。こちらまで身震いするような冷たい声だった。
「絶対逃すなよ、殺せ。……じゃぁな、期待してるぜ」
その声を最後に青火は消えてしまう。残されたのは身の凍るような沈黙。しばらくして、岳はため息まじりに呟く。
「そこにいるの舞ちゃんだろ、出てきなよ」
少しの沈黙の後。ザ、と砂利を踏み締める音を立てて竹藪の影から舞が出てくる。限界まで眉を顰め、険しい顔つきをしていた。
「はあ〜、君ボクのことあからさまに疑ってたもんね」
「……あんた、何しとるか分かっとるん?」
軽蔑したような冷えた声だった。信じられないとでも言いたげに眉を寄せる。岳は肩をすくめた。
「舞ちゃんはボクがずっと当主になりたがってたの知ってるだろ? そのために夜行衆を利用してるんだよ」
「はあ? そんなことのために……!」
「そんなこと? ハハッ舞ちゃんは分かってないね。まあ、分かんないか。女で、しかも正妻の子供の君には」
岳はふー、とゆっくり息を吐く。そして顔にかかっていた髪を掻き上げた。
「ボクはね、見返してやりたいんだよ。ボクを虐げていた全ての奴を。そのためにあの家の頂点に立ちたい。生まれのせいで当主になれない。……そんな現実認めてたまるか。このボクが当主になってやるんだよ」
「その結果が、妖怪風情にぺこぺこすることか?」
「はは、綺麗事なんて口ではいくらでも言える。手段なんか選んでる暇はないんだよ。妾の子のボクが、牛鬼家の歴史に名を刻むには、ね。弟たちを殺したら、次は祓い屋の世界で頂点だ。ボクは上り詰めてやるさ。……そのためなら何だって犠牲にできる」
一拍の沈黙が流れた後、岳が舞に手を差し出した。嫌に明るい声で誘うように言う。
「なあ、舞ちゃん。ボクとおいでよ」
「は?」
「夜行衆のモットーは弱肉強食。舞ちゃんもそういう思想好きだろ? 君にこそぴったりな場所さ」
岳はいいことを思いついたと言うふうにニコニコと微笑んだ。
沈黙が続いた。それは重く、長く……私は舞が寝返るのではないかと思った時。舞は静かな声で語り出す。
「……強者には大抵のことを好きにできる権利がある。……その代わり、強者は弱者を守る義務がある」
舞はまっすぐ岳を睨み据えながら、はっきりと言った。
「父さんが言ってた言葉や。昔、私はこの家業が誇りやった。この家の一員なのが嬉しくてたまらんかった。この祓い屋であることが、ヒーローみたいに思っとった。……それを思い出したわ」
そして口端をクッとあげて笑う。それが答えだった。
「へえ……」
岳は懐から銃を取り出したかと思うと、次の瞬間迷いのない動きで舞に銃弾を打ち込んだ。銃口からわずかに響いた音は、通常の銃声とは違い、まるで湿った金属を叩くような低い音だった。サブレッサーにより爆音が消され、重く抑えられた音。くぐもった悲鳴のような呻き声が聞こえた。舞は鮮やかな真紅の血を流す脇腹を抑えながらぐらりと倒れた。これ以上は見ていられない。──助けなきゃ。
私は歩みでていた。そこで、私と同じように物陰から出ようとする者を見つけた。顔を硬く強張らせた楓だった。驚愕の顔で私を見ている。しかし、私たちはもう岳の視界に入るところまで来ていた。
驚きに目を見開いているのは楓だけではない。舞が叫ぶ。
「あんた何しとるん!? 早う逃げえや!!」
「姉さんを置いてなんて逃げられへんよ!!」
それを目を細めてただ眺めていた岳が、名を呼ぶ。
「……銀二」
「分かってるぜ、岳。お前を守るのが、俺の役目だ」
銀二が息を吸い込むとゆっくり両肩を広げ、鋭い吐息とともに獣じみた変貌を始めた。その姿形が変わっていく。ブルブルと身を震わす。服からのぞく手足は獣のそれになっていく。やがて銀二は完全に人の姿を失い、巨大な狼へと姿を変えていた。彼の足は大地を踏み締めて、まるで大木が根をはるかのよう。背中から尾にかけて生える長い白銀の毛は、まるで鋼の刃が集まり波打つように煌めきを放っている。鎌のような爪を持っていた。巨大な口がゆっくりと開かれ、鋭く並んだ牙と赤い舌が覗く。
「わりいな、蒼月。俺も、俺の主が大事なんだ」
瞳は澄み切った黄金。それははっきりと知性を宿していた。アオが私を庇うように前に出る。
アオが先に動いた。俊敏に地面を駆けて小柄な体を駆使し、銀二に斬りかかる。鋭利な爪が銀二の巨体に向けて一直線に振り下ろされた。だが、銀二は一瞬で身を翻す。そして巨大な爪でその攻撃を受け止める。鋭い金属音が響き、火花が散る。
このままじゃ決着がつかないと思ったのか、二人は背後に飛び距離をとった。ジリジリと回りながらタイミングを見定めていたが、銀二は低く唸りながら飛びかかり、巨大な前足を振り上げた。アオはその一撃を察知し、すかさず後方に飛び退く。
瞬間、銀二の爪が地面に突き刺さり深い溝ができた。銀二はそのまま唸り声をあげて一気に地面を踏み締め飛びかかる。その巨体が驚くべきスピードでアオに迫る。アオは地面を蹴り付け、くるりと身を回転させて宙に舞う。銀二の爪が一閃する。アオを狙って空を裂く。アオはまるで風のように身を翻し、彼の爪の一撃を紙一重で躱す。背後に回ると銀二の太い首に組みついた。そのまま爪を立てようとするが……銀二は首を振りながら、アオを石灯籠に叩きつけた。石灯籠が崩れて砕ける。腕が緩み、地面に落ちたアオに向かって銀二の力強い前足が襲いかかる。爪がアオの肩に深く突き刺さった。肉が裂ける。
「ぐっ……!」
アオの顔が苦悶に歪む。
「アオ!」
助けに行こうとしたところ、銃弾が私の靴を掠めた。見れば、岳が銃を構えていた。硝煙の匂いが鼻先に香る。
私は地面を蹴破るように踏み締めて、ジグザグに走り出した。まっすぐ相手には向かわない。木や灯籠、竹藪などが立ち並ぶ庭園に身を滑り込む。狭く障害物の多い場所に引き込むことが目的だ。少しでも隙を作らせる。楓はすでに姿を消していた。
私は竹藪の隙間から、岳が銃を向ける瞬間を細かく観察していた。タイミングを見て近づきながらも体を低くして素早く地面に伏せる。植え込みや低木などの物陰に隠れながら姿を一瞬現し、また物陰に隠れる。それを繰り返す。
「……ッチ」
岳の苛立ちが手に取るようにわかる。私は岳が撃ち尽くした銃弾数を静かに数えていた。そして、微かに聞こえるリロード音の瞬間。私は素早く地面を蹴り、飛びかかるように岳の背後へ。岳が素早く振り返る。銃弾が発射される瞬間が、まるで時間がゆっくりと流れているかのように見えた。その軌道が一つ一つ、はっきりと見える。
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