第20話

 ゴホッと濁った音がした。振り向くと、アズマが喉を押さえたまま前屈みになり、畳の上にゆっくりと膝をついていた。その口からは黒い血が滴り落ち、畳に滲んでいく。その血は通常の赤とは異なり、まるで墨汁のように深く淀んだ色合いだ。その手の甲を見ると、墨のような黒い文字の形をした呪詛がじわじわと皮膚を覆っているのが分かる。まるで呪詛そのものが生きているかのよう。アオは険しく顔を顰めて、それを睨みつけていた。

 アズマは咳き込みながらも震える手で胸元を探り、古い紙を取り出した。その間も、どこからかやってきた黒い煙がもうもうと部屋の四方に漂い始める。肌にまとわりつき、じりじりと灼熱を感じさせる奇妙な煙。暁史は、瞬時に状況を把握すると無言で素早く小瓶を取り出し、私の手に押し付けた。

 「これ清めの水、呪詛に垂らしたって」

 冷静さの中にも焦燥が垣間見える。暁史はアズマから紙を受け取ると、銀色の鋭いナイフを取り出して自らの手のひらに迷いなく刃を当てた。血が一筋、真紅の跡を残しながら滴り落ちる。その血を指に塗りたくると、紙に何かを描き始める。その最中、私は床に膝をつき呪詛が迫るアズマの腕をとり水を少しずつ垂らしていった。冷たい水が肌に触れると、黒い線がジリジリと燃えるように後退する。しかしまたすぐに別の場所に蛇のごとく絡みついていく。

 「無理だよ、効いてない!」

 「大丈夫や、今準備が終わった」

 暁史は畳に、陣のような不思議な印を描き終えたところだった。暁史は札を指に挟むと、印を結び陣の真ん中に立つ。そして、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。それはかすかな囁き声となって部屋全体に響き渡り、空間が微かに震えるのを感じた。暁史は脂汗を流しながら、その瞳には強烈な光が宿る。真剣に霊力を練り上げて、術を組んでいる。

 やがて暁史の前髪が無風の部屋でふわりと持ち上がり、くるくるとした癖毛の長い赤毛が靡いた。いつしかこの部屋には暁史を中心に縦横無尽に風が渦巻いていた。まるで竜巻のよう。風は次第に力を増し、清らかな水の香りがしていた。それが黒く重たい煙を追い払うように押し流す。

 気付けば、部屋の煙は晴れていた。


 そこで暁史は額の汗を拭い、わずかに表情を和らげた。アズマもようやく呼吸を整え、肩で息をしながら顔を上げる。彼の腕にはもう黒い線は見当たらない。アズマはため息を吐きながら呟いた。

 「悪い、借りを作っちまったな」

 「ええんですよ、いつか返してくれれば。それにしてもこの犯人、この会合のうちに何人殺すつもりなんやろ。……ハア、俺一応報告しに行きますわ」


 

 廊下を出ると、暁史が言う。

 「もうすぐお昼や、そん時宗一兄さんに報告しよか」


 昼食が取られるのは別の広間だ。昨晩夕食を食べた部屋。中に入るとまず目を引くのは、丁寧に手入れされた庭園の景色が広がる大きな窓。窓の外には苔むした石と手入れの行き届いた植栽が配されている。美しい畳。そしてそこに低めの座卓が並び、卓上には懐石料理が美しく盛り付けられている。

 もうほとんどの人々が席について食事を楽しんでいた。暁史は、まっすぐ宗一郎のところへむかう。

 「何やて? また呪詛がきたんか」

 宗一郎は食べる手を止めることなく、苦々しい声で言った。宗一郎の食べる姿は、まるで食材が彼に吸い込まれていくようだ。宗一郎のテーブルだけ、山盛りのご飯とおかずが運ばれていく。アオが呟いた。

 「どんだけ食べるつもりだよ」

 彼は目を輝かせて箸を手に取り、美味しそうに次々に料理を口に運ぶ。どれも一度に大きなひと口で頬張っていた。噛む間も惜しむように一気に飲み込んでいく。

 「午後からはどうするつもりや?」

 噛む音も豪快で、香りや味わいを楽しむように一瞬目を閉じたかと思えば、すぐにまた次の料理を手に取る。

 「とりあえず舞にも聞いとくわ。その後、会合に参加する」


 私たちの席について、食事を済ませた後。自室で少しの休憩を挟み、私たちは廊下を歩いていた。

 「舞って誰なの?」

 「俺の姉や。今は嫁いで遊馬を名乗っとる。高知の方の家やね」

 「なんで、その舞さんに話を聞きにいくの?」

 「理由はいくつかあるけど、まず遊馬と牛鬼は昔から仲が悪い。それと……舞は岳の結婚相手候補やったんや。その話は結局流れたんやけど……」

 「どうして?」

 「さあな、それは本人たちにしか分からん。ただ……舞姉さんと岳が口論してたとこを目撃してた人がおるらしい」

 「……いつなの?」

 「昨日、会合のすぐ後や」

 暁史は視線を前に向けたまま淡々と静かな声で私の疑問に答える。

 「……暁史は舞さんが犯人だと思ってるの?」

 「ないとは思うてる。でも……俺はあの人苦手や。姉さんはなぁ、信じられへんほど気が強うて、激しい考え方しとるからな」


 「おお、よう来たにゃあ。飴いるか? キャラメルもあるぜよ」

 土佐弁訛りの男、遊馬正宗は訪ねてきた私たちを見て人懐こく笑う。太陽みたいな笑顔だった。そしておもむろに懐からじゃらじゃらと飴を出す。アオは喜んで受け取っていた。

 「貰えるもんは貰っとく主義だからな、オレは」

 正宗は暁史にも手を差し出すが、暁史は断った。

 「いや、遠慮しときますわ。最初に正宗兄さんと姉さんに助手を紹介しときます。紅露晴と、アオです」

 「よろしくお願いします」

 私はぺこりと頭を下げた。舞は興味なさそうに鼻を鳴らす。それに対して正宗はニコニコしながら優しい声で言った。

 「よろしゅうな。わしはずっと妹が欲しかったけん、暁史の相棒ならわしにとったらもう家族じゃ! 兄や思うて頼ってくれ」

 茶色の髪はふんわりとした癖があり、結んだ髪の先が元気に跳ねている。彼がふっと笑えば、周りの空気までもが柔らかく色づくような雰囲気だ。瞳は優しげに垂れており、心を包み込むような温かさがある。そして土佐弁の朗らかな口調が、彼のその明るい性格を引き立てていた。

 私はもうこの人の魅力にやられかけていた。好感度がぐんぐん上がっていく。私はおずおずとずっと気になっていたことを尋ねた。

 「あの、その頬はどうしたんですか?」

 正宗の頬にはつい最近できたばかりであろう傷が、真っ赤に腫れ上がり鋭く斜めに走っていた。肉がえぐれた部分には薄いかさぶたがまだ固まりきらず、乾ききらない血がじんわりと滲んでいる。周囲の肌は赤紫色に染まり、触れれば痛みが走りそうなほどに生々しい。

 「ああ、これな。恥ずかしいがよが、へましちゅうて。心配はいらんぜよ。見た目だけ派手ながや」

 正宗は傷がある反対の頬を掻く。それを聞いていた舞は冷たい目で夫である正宗をじろりと見た。

 「あの夜行衆とかいうんに襲撃されたんよ。ほんま、カッコ悪いわ。こっちが恥ずかしくなってくる」

 「はは、返す言葉もないぜよ」

 隣で正宗は眉を下げて笑っている。嫌な感じだ。暁史が嗜めるように声をかける。

 「まあ、その辺にしときや姉さん。仮にも正宗兄さんが手こずった相手なんやから、実際強かったんやろうし」

 「は? 相手が強かったなんて、負けた言い訳する奴はド三流やろうが。情けない弱者の言い訳する奴なんか、ゴミや。そんなゴミになるくらいやったらこの私が直々に引導渡したる。そんなんが夫やなんて私の恥やからな」

 彼女はフンと鼻を鳴らして言い放った。とんでもない女だ。私はあんぐりと口を開けた。

 「相変わらずやね、姉さん」

 「あんたは相変わらずぬるい考え方しとるんやな。助手なんか雇って。あんたが考えてること分かるで」

 「勘弁してや。正宗兄さんも大変やね」

 「口喧嘩では勝てたことないぜよ」


 暁史は咳払いをするとそこで本題を切り出す。

 「それで、昨日の深夜2時、何してはりました? 一応聞かなあかんのですよ」

 「寝てたわ」

 「わしも」


 

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