第19話

 静まりかえった部屋だった。柔らかな日差しが、白い寝具に包まれた彼の頬を照らす。

 「暁史くん! 来てくれたんですね!」

 布団に横たわっていたその牛鬼岳という男は、暁史を見た途端パッと顔を綻ばせた。人懐こい子犬のような笑顔だ。暗紫の着物の襟元は緩く布団の上に広がり、その控えめな柄が彼の儚げな雰囲気を醸している。おそらく二十代くらいの、綺麗な顔をした青年。黒髪の前髪をさらりと流した短髪。少し釣り気味の目。そうして、彼は顔を歪めながら布団からゆっくりと起き上がる。体を起こすと、その端正な顔に苦しげな色が浮かんだ。

 「ゴホッ、ゴホッ……すいません、こんな形で」

 「主、無理すんなよ。呪詛を受けたばかりだろ、休んでろって」


 銀二がそっと背中に手を添え、支えながら優しく背をさする。心配そうに眉を寄せている。真摯なまでの忠実さが、その視線の奥にひそんでいる。アオと話していた父さんに昔支えていたっていう狼の妖怪の、彼だ。

 「呪詛を受けたの銀二の主だったのか」

 アオが驚いたように呟く。

 「ああ、無理せんとそのままでええで、ちょっと話聞くだけやから。アンタも災難やったな」

 しばらく彼は重たそうな呼吸を繰り返し、咳き込んでいた。そして落ち着くと、私を見て首を傾げた。

 「えっと、君は……?」

 「助手の紅露晴です。あの、暁史とは仲がいいんですか?」

 「フフ、暁史くんはボクの憧れですよ。昔から強くて強くて。祓い師として憧れない人はいませんでした……そうですねえ、幼馴染みたいなものですかね」

 「そうやねえ結構、長い付き合いやね」

 「へえー!」

 胡座をかいて畳に座り込んで話を聞いていた銀二も笑って、言う。

 「主の幼馴染かー! そりゃいいや。主の恥ずかしい話も聞けんのか?」

 「銀二」

 「ははっ冗談だって、な?」

 「ったく、どうにもお前はボクを舐めてるだろ」

 「そんなちっこい体で凄んでも可愛いだけだぜ?」

 「お前のおやつの団子は無しだ」

 「ええー!! マジかよぉ」

 銀二は大袈裟にガックリと肩を落とす。くすくす笑いながら「こう見えて大の甘党なんですよ、こいつ」と岳は笑う。銀二とかなり仲がいい様子だ。アオがつまらなそうに鼻を鳴らした。暁史は咳払いをして、本題に入る。

 「何時頃呪詛を受けたん?」

 「確か……午前2時頃だったかな。守りの札を持っていたから、なんとかこの程度で済んだんですけど……札はほら、燃えてしまった」

 差し出された手のひらには、黒く煤けた札があった。

 「相手の心当たりはあったりする? 恨みを買ったりしてた?」

 「それが、全く思い至らないんだ」

 首を横に振る彼の瞳は冬の湖のように澄み渡っていた。

 「俺からも一応言っとくが、主は恨みを買うような奴じゃない」

 「ほんまに? 一人もおらんのかいな」

 暁史が眉に皺を寄せてカリカリとこめかみを掻く。その時、銀二が小さく声をこぼした。

 「あ、そういやぁ」

 「なんや銀二」

 「こいつの弟がな……知っての通り主は今、牛鬼家で一番力をつけてる。当主候補の筆頭だ。だが……」

 「妬みを買ってるんやな」

 「ああ。それも、主は本妻の子じゃない。……実力も伴わない馬鹿の嫉妬さ」

 

 私たちは岳と銀二に、話を聞かせてくれたことのお礼を言ってから部屋を出る。廊下を進みながら、暁史は静かに口を開いた。

 「牛鬼岳は26歳。弟の蓮司は25。同じ年頃で、本妻の子供の自分より立場が下のくせして、実力があったらそりゃ怖いわな」

 その声には不思議なほど感情は乗っていない。

 「次、牛鬼蓮司や」

  

 ◇

 

 「失礼しますー」

 暁史は相手の声を待たずに襖を開けて部屋に入って行った。アオと私もその後に続く。

 「何だよお前らは……!」

 「ちょっとお話しさせてもらうだけですわ。昨晩の2時頃、どこにいてはりました?」

 暁史は部屋をぐるりを見回す。日が差し込み畳の匂いが香る、清潔で広い客間だった。私にあてがわれた部屋よりも少し広い。傍には酒の瓶が転がっていた。

 「ああ……岳を呪った奴だと疑ってるのか」

 蓮司は鼻でわらう。栗色の髪。少しうねった髪質で、オールバックにしていた。陽の光を受けると、彼の髪は仄かに光を反射し、栗色の色合いが一層際立つ。着物は、深い藍色。夜の闇のような濃紺にほんのりと青みが差し、質の良い絹が光の加減でわずかに艶めいている。目には少しクマがあった。

 「アリバイなんてねえよ、あるわけないだろそんな時間……と言いたいとこだが、あるぜ」

 「え?」

 「アリバイだよ。昨日は4時くらいまでアズマさんのところで酒飲んでたわ」

 「……アズマさんとはどういう関係で?」

 暁史は片眉をくい、と上げながら尋ねた。

 「師匠だ、祓術の。あと、一応血が繋がってる。叔父だよ」

 母親がアズマの妹なのだと、蓮司は肩をすくめて語った。この界隈では、家同士の結束を強めるために結婚相手をあてがうことも少なくない、らしい。

 「ふん、妾の子供のくせに立場をわきまえないからこんな目に遭うんだ。死んで当然の奴だろ」

 蓮司は口の片端をあげていった。

 


 「まずいことなったわ。アズマさんは一筋縄ではいかんで……」

 「アズマさんは犯人だと思う?」

 「……正直分からん。あの人は昔からよく分からんのや」

 暁史は眉間に皺を寄せながら、廊下を歩く。艶やかな木の床は何度も磨かれたように滑らかで、歩くたびに微かな軋み音を立てている。それにしてもこの家は本当に広い。下手な旅館よりも部屋があるのだ。しばらく歩いて、アズマの部屋にやってきた。

 部屋は、広く美しかった。一目で特別な客間だとわかる。床はしっとりとした緑色の畳。畳の縁は上品な紺色。壁には白い漆喰が施され、一方の壁際には華道の花が静かに飾られている。大きな木枠の障子が庭に面しており、開け放たれた障子の向こうには美しい庭園が広がっていた。手入れの行き届いた苔庭や石灯籠、松の枝が優雅に配置されているのが見える。

 お決まりの質問を投げかけたれたアズマは怪訝そうに眉を上げて、暁史を見た。

 「アア? 昨日なら蓮司と酒飲んでたぞ。なんだ? 探偵ごっこか? 宗一郎に泣きつかれでもしたかよ」

 畳に腰掛けて片膝を立てていた。無精髭が口元に影を落とし、その髭をゆったりと撫でながら笑う顔は、実に飄々としていながらも、どこか底知れない含みを感じさせる。

 「まあ、はい。そんな感じです……牛鬼蓮司とは仲がよろしいんです?」

 「そこそこだな。ま、祓い屋の世界じゃよくある師弟関係だ。……そんなことより、お前さんやっぱ雪貞の娘か」

 そしてアズマは私をまっすぐ射抜いた。相手の心の奥まで見透かすような眼差し。息を呑むほど鋭い眼光だ。

 「はい、雪貞は私の父の名です」

 アズマはそれを聞いてフッと眉を和らげて微笑んだ。目をゆっくり細める。

 「懐かしいな。あいつはイイ奴だった。……そこの使い魔とも久しぶりに会ったよなあ」

 それまで黙っていたアオは、アズマを見て言った。

 「オメーは随分老けたな」

 「ハハハ、人間そんなものよ。だが、だからこそ、人間ってのはイイんだ。雪貞もそうだった。魅力のある男だった」

 「まあな。弱点は山ほどあるのに、惹きつけられる妖怪も多かった」

 「ハハッ隙があるからイイのよ。完璧なものになんか色気は生まれねえ」

 相手を安心させるような穏やかな表情だった。その瞳が静かに揺れる様子は、まるで湖面のような静けさを感じさせる。

 私が、父さんのことを聞こうと口を開いた時のことだった。

 

 壁に貼られた札が、火花を散らした。そして眩しいくらいの光を放つ白い焔が燃え上がる。

 暁史が鋭い声で叫ぶ。

 

 「呪詛や!!」

 

 

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