第16話

 頭をタオルで拭きながら歩いていると向かいから暁史がやってくるところだった。少し湿った赤毛を後ろで結んでおり、肩に垂れている。 

 「じゃ、朝ごはん食べに行こか」

 アオと一緒に食事をとる大広間へ向かう。着くと、もうすでに馴染みのある良い香りが漂っていた。

 白米は完璧に蒸らされてふっくらとした粒が立ち、熱々の湯気が立ち上る。味噌汁は食欲をそそる香ばしい出汁の香りが漂っていた。湯気の奥から豆腐やワカメが顔をのぞかせる。器を両手で取りゆっくりと口に運んで飲めば、ホッとして体を芯からじんわりと温めてくれた。卵焼きは美味しそうに黄金色に輝いている。舌の上で出汁の風味が絡み合い、口に含むとほろりとほどけるよう。焼き魚は香ばしく焼き上がり、きつね色にパリッとした皮がそそられる。箸をいれると、しっとりとした身がふんわりとほぐれ、口に入れるとほんのり塩気が効いて朝の体にやさしく染みわたる。

 アオは口の周りを汚しながら焼き魚をウキウキと頭から齧って頬張っていた。少し羨ましそうな声で言う。

 「暁史はいつもこんな飯を食べてたのか」

 「ま、この家の数少ない長所やね」

 食事を終えると、私たちはまた会合の始める広間に向かった。

 

 二日目の会合。皆が席に付き、それは始まる。まず資料が配られて、過去の事例との比較することから始まった。過去にあった襲撃事件との共通点や、相違点を比較する。私は暁史に渡されたその資料を隣から覗き込んだ。字ばかりが並んでいて、頭が痛くなる。

 結果的に、宗一郎は警戒レベルの引き上げを提案。重要な家々はそれに同意した。襲撃の頻度や規模を鑑み、これは今までにないほど危険な兆候だと判断したのだ。今までにないほど、過激で攻撃的。そこには、はっきりとした意図がある。

 なぜ今、祓い屋の有力者たちが標的になっているのか。議論の内容はそこに移っていく。相手が夜行衆だとして、妖怪側の目的が何なのか。何を求めて、このような行動に出ているのか。「決まっている」と誰かがこぼした。──下剋上だ。

 その瞬間のことだった。

 突然、壁に貼られていた札が全て、一気に燃え上がる。眩しいほどの光を放つ美しい白い焔だった。「結界が破られた!」と誰かが叫ぶ。まるで時が止まったようにこの刹那にすぎる時間の中、その場にいる皆がその異様な感覚に気づいた。空気がビリビリと重く張り詰める。今までの安定感を保っていた空間に亀裂が走る。


 「まあ、まあ、皆さん。お忙しいところ失礼致します」 

 縁側から下駄のまま土足で上がってきたその女。長い黒髪を揺らしていて、ゾッとするほど美しい女の妖怪だった。背筋が凍るような冷ややかさを湛えており、肌は月光をも超えるほど白い。黒く長い髪は、闇夜の霧のように静かに流れ、肩から背にかけて滑らかに落ちていく。黒い着物が風もないのにたなびいて、端にチラチラと白い焔が燃えている。一歩も動けなくなるほどの、圧倒的な威圧。

 女は、爪の長い白魚のような手で、ゆっくりと扇を開いた。そして口を隠す。

 「おんしゃあ生きて帰れると思うがか」

 土佐弁の男は険しい顔で、刀を抜く。それに対して微笑むだけにとどめたその妖怪は落ち着き払って言い放つ。

 「あたしは鏡火。悪五郎様の側近として祓い屋たちにお知らせに参りました」


 鏡火。

 忘れもしない、兄さんを殺した妖怪。

 気付けば私の手は激しく小刻みに震えていた。私はそれを押さえつけると、ゆっくりと立ち上がる。息を吐く。この場は一気に殺気だっていた。誰もが怒りと憎しみを込めて、武器を構える。

 鏡火は不敵な笑みを浮かべていた。

 「ここにいる全ての者に宣戦布告をします。悪五郎様が尊ぶこの世の理はただ一つ。強きが生き、弱きが散る」

 鏡火は微笑みを絶やさずはっきりとした声で言葉を放つ。

 「人間たちよ。戦いに応じる者、我の前に立て。そうでない者は、ただ身を潜めて震えよ。弱き者には未来はない。あたしたち夜行衆が勝った暁には……悪五郎様は妖怪の時代を作る!!」

 

 鏡火は扇を閉じると、首を少し傾げて顎に当てた。そして楽しそうに笑う。

 「ふふふ。さあ戦いの火蓋は落とされた。あたし達夜行衆の前に立ちはだかる覚悟はできているのかしら? 夜行衆が勝つか。それとも果たしてお前達人間が勝つか。強者が生き残る、ただそれだけのことよ」

 悪五郎は”妖怪の時代”とやらを目指しているらしい。それが人間にとっては良くない未来だということははっきりと分かる。

 私は人混みをかき分けて、前に出る。暁史が止めるように私の腕を掴んだが、……私はそれを振り払う。そして鏡火に近づく。ふと、鏡火は前に出てきた私に視線を投げた。見下した笑みを浮かべながら首を傾げて微笑む。まつ毛が影を作っていた。私は血を吐くように叫ぶ。

 「アンタが……兄さんを、黎明兄さんを殺したの? ……答えて!!」

 鏡火は視線を斜め上に投げてちょっと考え込んだ。「黎明、黎明ねえ……」そしてパッと頬を綻ばせて笑う。

 「ああ、あの人間ね? 雪貞の息子の。殺したわ」

 全く悪びれる様子もなく、ニコニコ笑う。恐ろしいほど無邪気に。

 「本当は生け捕りにするつもりだったんだけど……あまりにも弱すぎて、手が滑っちゃって」

 

 怒りのあまり、目の前がぼんやりと赤く霞んでいく。頭に血が上り、鼓動が耳の奥で打ち鳴らされているようだ。歯を食いしばりすぎて、顎が痛むほど力が入っている。気がつけば、私は無意識のうちに床を蹴りつけていた。足元の床材が軋み、歪む音が耳を打つ。拳を振り上げ、そのまま勢いに任せて殴りかかる。全ての力をかけて拳を叩きこむ。

 拳が鏡火に触れるその刹那。鏡火の姿は陽炎のように焔になって消えてしまう。残るのは拳に残る焔の熱さのみだった。


 誰かが言った。

 「妖と人間の戦争が始まるよ……まずい時代が来ちまったねえ」

 「また争いが始まるなんて。もし、人間が負けたら……」

 この混沌の中で生き延びなければならない。人間が、妖が、互いに命を奪い合う時代だ。

 「くく、戦争か。久々に楽しくなってきたな」

 そんな中、アズマが喜びを頬に浮かべてそうこぼす。

 誰もが混乱し、落ち着きなく言葉を交わす中、私は呆然と拳を見ていた。涙は出なかった。ただふつふつと湧き起こる、これは……怒り。拳を握りしめると、爪が食い込むのも構わずに指先が震えているのがわかった。

 胸の奥で何かが燃え上がるように熱を持ち、心臓が激しく鼓動する。血が頭に昇っていく感覚がし、こめかみがズキズキと痛み始める。殺さなきゃ。

 誰が? ──私が。

 誰を? ──鏡火を。

 

 「妖怪がなんでこの結界だらけのこの屋敷に入れたんよ」

 ひそひそと交わされる陰湿な声が耳を刺すように響いてきた。その声で周りの者たちがざわめきこちらを見るのが分かる。疑念を含んだ視線が突き刺さる。

 「妖混じりが引き入れたんちゃうの」

 「なんてったって妖の血が入ってるもんな」


 その瞬間湧き上がったのは諦念だ。また”これ”か。

 所詮、私はどこにも居場所がないのかもしれない。……しょうがないことだ。異物はどうしても人と混じり合えない。瞳を閉じようとしたその時、手が肩に置かれた。顔を上げる。

 「お前ら、文句があるなら俺に直接言えや」

 見上げれば暁史がいた。青筋を浮かべて側から見ても怒り狂っている。

 

 「性根の曲がった根性なしが。俺の客やぞ」

 

 ひそひそと陰口を囁いていた男たちや、女子供たちはたちまち俯き視線を逸らした。

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