第15話
「起きろ、晴。訓練の時間や」
まだ薄暗い屋敷の一室で、低く鋭い声が容赦なく響き渡った。その声に、私は意識が眠りの底に沈んだまま呻き声を漏らし、タオルケットにしがみついた。だが、そのささやかな抵抗も虚しく、心地よい暖かさを剥ぎ取られるようにタオルケットは無情にも引き剥がされた。肌に触れる朝の空気が鋭く体を突き刺してくる。隣のアオが不満を押し殺したように唸りを上げた。
「まだ五時じゃねえか!! ふざけんな!!」
「正しくは、”もう”五時や。時は金なりやで」
半分夢の中で微睡むように私は外に視線を向けた。窓から見える外、東の空には早朝の日差しが僅かに差し込み始めていた。屋敷の影と木々の影が薄い朝霧に溶けるように長く地面に伸ばしている。その光景にうっすらと意識が目覚めるものの、また瞼が閉じようとする。疲れと睡魔の重さに、身体がすっかり染み込んでいく。
「ええ……まだ、夜みたいなもんじゃん」
私はまだ半分夢の中と言った様子でうつらうつらと呟く。そして目を擦り大きなあくびをこぼした。
「お前には時間がないんや。さっさと起きろ。それとも木刀で叩き起こされたいんか」
「わかった、わかった。起きるって!!」
アオがタオルケットを蹴り飛ばして座り込み、眠気混じりの目で暁史を睨む。私たちはやっとのことで起き上がり、立ち上がった。そして半ば恨めしげに去っていく暁史の背中を見つめる。
外に出ると、夏の朝特有のひんやりとした空気が肌を掠める。歩きながら、僅かながらも目が覚めていくのを感じた。陽はまだ地平線から顔を出しておらず、庭は薄青と淡いオレンジ色の光に染まって、木々の影が柔らかく地に伸びていく。風に木々が静かに揺れて、枝葉の影が地面にゆらゆらと舞っている。遠くに鴉の一声が響いた。薄い光が足元を包み込みながら、静かに朝の訪れを告げる。
十分後、私は訓練場で木刀を構えた暁史と対峙していた。アオはあくびをしながら腕を組んで眺めている。
私はふうと息を吐くと一気に駆け出す。大地を砕くかの如く足に一気に力を込めた。周りの景色が流星のように流れる。そうして間合いに飛び込むと、すかさず風を切るように木刀の切先が迫ってくる。頭を左に逸らすことで避けて、体を捻る。突きを捌き、溜めを作っておいて顎に向かって放つのは強烈な後ろ回し蹴り。その蹴りが迫る中、一瞬暁史はふっと笑った。思いっきり暁史は体ごと仰け反る。背後の地面に手をついて、バク転をして躱す。体をまるで曲芸師のように自由自在に操っている。
距離をとった暁史は再び構え、間髪入れずに向かってくる。素早い一文字の一閃。私はのけぞって目と鼻の先で避けた。そして一歩踏みしめると暁史の腹に渾身の拳を叩き込む。が、寸前で腕を掴まれその勢いを殺さずうまく利用して投げ飛ばされる。ザザ、と私は地面を滑って転がった。暁史が言った。
「次、」
今度は間合いに滑り込むと、蹴りを放つ。今度は足首を掴まれ、大きく放り投げられる。空中で体を捻りながらどうにか着地するも、すでに彼は目の前に迫っている。木刀が迫る。鎖骨の辺りを斜めに切りつけられる。木刀を掴んで奪おうとしたところ、ガラ空きの腹に蹴りを入れられる。痛みに思わずうめいた次の瞬間、衝撃と共に視界が一瞬暗くなった。顎に重い一撃を喰らったのだ。
「次、」
木刀だ。あれをなんとかしよう。僅かに体を捻ると、私の蹴りは寸前で空を切った。だが私は諦めず、二度三度と連続で拳を放つ。木刀で防がれるが……それが狙いだ。圧倒的なスピードの拳が次々に繰り出され、木刀がそれを受け止めるたびにミシミシと鋭い音が周囲に響き渡る。
暁史は眉を顰めた。次の瞬間木刀が風を裂く。私は飛び上がって避ける。鋭い風切り音が響く。だが、着地の瞬間、間髪入れず腕が目前に伸びてくる。胸ぐらを掴まれた。地面に叩きつけられ、喉元を押さえつけられる。私は息を切らして、真上の暁史の顔を見上げていた。暁史がにんまりと笑う。
「次、」
これで何度目だろうか。私はひたすら暁史に負け続けていた。木刀で殴られ、蹴られ、投げられ、叩きつけられる。
鼓動が早くなる。無理だ。もう、終わりにしたい。思わず情けない言葉が込み上げる。全然相手にもなっていない。でもこんなんじゃ鏡火を倒すなんて……。唇を噛んだ。頭に次々と浮かぶのは弱音ばかり。なんでこんなに動きが読めないのだろうか。暁史のシルエットが何より強大で威圧を放っているように見える。暁史はどんな攻撃をぶつけても冷静に体を駆使して対処する。次の攻撃を頭の中で考えようとするが、集中力が途切れそうになっているのが自分でも分かる。
「そろそろやな」
その言葉に、私は顔を上げた。
東の空から光が滲むように広がっていくのが見えた。澄んだ青空が少しずつ明るくなっていく。少し淡い空の群青から少しずつ染まるように濃さを増し、蒼穹と呼ぶに相応しい深い青へ。
「もう時間や。次は俺以外とも訓練を組むか」
暁史は満足したように口端を上げる。
その言葉に私は曖昧に頷いた。疲労にまみれた体で訓練場を後にし、足元のおぼつかないまま屋敷内に戻っていく。アオの心配する声にも碌に答えられなかった。そして私は一旦部屋に戻り替えの服を抱えると風呂場に向かっていた。砂だらけになったし、汗もかいたのでシャワーを浴びることにしたのだ。
芦屋家の風呂場は、まるで昔の温泉宿を思わせるような重厚で趣のある造りで、奥にひっそりと隠れるように佇んでいる。入り口の戸は磨き込まれた木材でできており、私は手彫りの渦模様が施された扉を押して入る。男女の入り口が左右に分かれ、それぞれの暖簾には「男」と「女」の文字が、筆の掠れた味わいで染め抜かれていた。湯は張っていないため、シャワーのみだ。浴場はがらんとして、乾いた匂いがした。
私はゆっくりとした歩みで浴場を横切り、そっと鏡の前の椅子に座って、膝を抱える。そうして、早朝の誰もいない風呂場で私は一人泣いた。声を押し殺して啜り泣く。鏡にはあざだらけの私の身体が映っている。
──全然勝てなかった。頭にあるのはそれだけだ。情けなくて堪らない。悔しさがどんどん膨れ上がる。胸が引き絞られたように苦しい。もっとできたはずだ。震える両手で顔を覆う。
もっともっと強くならなきゃいけないのに。兄さんを殺した鏡火を倒すには、こんな強さじゃ全然足りない。
私は涙で視界がぼやける中、ふと顔を上げた。鏡の中で、涙を流し目を腫らした私が静かに見返していた。
兄の仇を討つには、こんな体たらくでは話にならない。私は目を閉じた。
ただ強くなりたかった。
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