第14話
──いやいやいや。ありえない。ボコボコにされてときめくとか。マゾじゃないんだぞ。
私が暁史の斜め後ろを歩きながら首を振る。だいたい暁史は意地悪だし、冷たいところがあるし、長所といったら絵が上手いことぐらいだ。……嘘。本当は優しいところがあるのも知ってる。でもさ……悶々と考えに浸っていたちょうどその時、廊下を歩いていたところアオと鉢合わせた。
アオが目を見開いて言った。
「どうしたんだよ! 晴!!」
薄暗い屋敷の廊下に響くその声に、私は少し驚いた。まあ確かに……洋服は砂だらけ。腕には赤黒いアザが。アザを摩りながら、私はどうにか言葉を絞り出した。
「ちょっと訓練で……」
「虐められたのか! 暁史オメー!!」
アオの怒気を孕んだ視線が暁史に突き刺さる。暁史はそれに対して眉を寄せてため息を吐く。
「はあ、うるさいねん。お前はどう見ても過保護すぎや。別に主でもないんやろ」
「アア?」
「まあまあ、二人とも落ち着いて……そんなに悪くもないから」
私は痛みを耐えて二人を宥めた。そこで、暁史は首の後ろを擦りながら私を見る。
「傷が酷いようやと、治癒できるもんを呼ぼか」
「いや……いいよ。手加減してくれたでしょ? 骨も折れてないしこれくらいの怪我なら寝たら治るよ」
「そんならええけど」
「フン」
アオは苛立たしげに鼻を鳴らしたが、私の言葉に渋々引き下がった。
「暁史、ここにおったか」
見れば宗一郎が廊下を歩いてくるところだった。着物をきちっと着こなし綺麗な所作で廊下を歩いている。そして暁史の前にやってくるとポンと肩に手を置いた。
「お前な、いいかげん親父に会ってこい」
「……はあ」
一瞬、暁史の表情が固く強張る。宗一郎は頼みこむように、暁史をじっと見ながら言葉を続ける。
「親父も最近体調が良くないんや。お前の気持ちも分かるけど……少し顔見せるだけでもしてやってくれへんか」
どれほど時間が経っただろうか。体感にして一分。長い沈黙の後に暁史は言った。
「……わかったわ」
それに宗一郎はほっとしたように肩の力を抜いた。渋々と言った様子で暁史は眉を顰めて重く息を吐く。そして少し振り向いて私をアオを見た。
「お前らは……」
「私たちもついてく」
すかさず私が言い、アオも頷いた。
「なんもおもろいことないで。俺と親父がギスギスしてるのを見るだけや」
「どうせ部屋に戻ってもやることないし」
「そうか」
暁史は少し困ったような顔をして、仕方がないと言ったふうに頷いた。そして私たちは揃って、廊下を進んでいく。屋敷の奥へと向かう長い通路を、足音だけが響く中、無言のまま進んでいく。古びた木の匂いが漂う廊下を歩き続けて、ようやく扉の前に辿り着いた。暁史が手にかけるその一瞬、躊躇いが彼の顔に浮かぶ。しかし暁史はすぐにその浮かんだ感情を押し殺すとそのまま力を込めて扉を開けた。
低い天井と濃い木目の目立つ古風な作りが目に入る。部屋の広さは圧倒的で、古いが手入れの行き届いた家具や調度品が威圧感を放っている。
部屋の中央には大きな椅子に深く腰掛けた男がいた。厚い革張りの椅子は深みのある黒に染められており、長い使用によって微かに艶が生まれている。50代後半から60代前半くらいだろうか。白髪まじりの髪に鋭い切長の瞳。意地悪そうな光を湛えて、暁史を見るとその口角がクッと上がる。その顔には老いの色が深く刻まれているが、目は生き生きと生気が宿っていた。この男が現、芦屋家当主。
「誰かと思ったら、この家から逃げ出した暁史やないか」
黙って私たちが部屋に入るのを眺めていた彼は、嘲笑するように言った。
「……うるさいねん。死にかけやって聞いたから来てやったのに、相変わらず口だけは達者やね」
「ハッお前もな。……妖混じりの助手を雇ったんやって? それも紅露の娘やとか」
そこで、彼は私に視線を向けた。じろりと一瞥して観察されているのがわかる。暁史は小馬鹿にするように首を少し傾げた。
「なんか文句あります?」
「お前は……まあええわ。好きにしたらええ。それで痛い目にあってもお前だけの責任なんやからな」
冷ややかな嘲笑が暁史に突き刺さる。
「余計なお世話やわ」
「生意気なやつや」
「じゃ、これで失礼させてもらいます、宗一兄さんの頼みは果たしたんで」
暁史は背を向けると扉に向かって歩き出す。
「じゃあな、暁史。せいぜい足掻けや」
「フン、あんたが地獄に行くんを楽しみにしとくわ」
廊下に出ると、一人の美しい女性が立っていた。背筋を伸ばし、姿勢が美しい。上品な草木柄の入った着物を着ていた。
「あら暁史やないの」
落ち着いた雰囲気を漂わせ、華やかさと気品があった。歳を美しくとった、静かに目を引くような女性だ。黒髪には艶があり、肩甲骨あたりまでの長さ。ゆるく編み込んでおり、瞳は深みのある濃い茶色。透き通るような色白の肌。
「椿さん……どうもお元気そうで何よりです」
暁史は立ち止まると、口端を上げて言った。椿と呼ばれた彼女が口元に手をやりくすくすと笑う。
「ふふふ、暁史も元気そうやねえ。聞いたで、妖混じりの助手雇ったんやってねえ」
「はあ、そうですけど。椿さんはさぞかし安心したんとちゃいます?」
「あら言うやん。相変わらず口が減らん子供やであんたは。桜子さんには似ても似つかへん」
暁史はもうめんどくさいという感情を隠しもせずに鬱陶しそうに言った。
「もうええんですよ、本題はなんですの」
「そう……前から言おうと思ってたんやけどな、私たちにつかへん?」
椿は壮絶に美しく笑う。
「……何を言ってはるのか分からんのですが」
「ふふ、お前の母親の仇を討ちたいと思わんのか?」
仇。私はその言葉の重みに息を呑んだ。いつしか空気は重く張り詰めている。しかしそんな中も暁史は顔色を変えずに淡々と言葉を紡ぐ。
「復讐ってわけですか」
「そうや、ええ提案やろ?」
椿は妖艶に笑った。微塵も断られると思っていない態度だ。暁史は微笑みを浮かべる。
「断らしてもらいます」
そう、はっきりと言った。自信に満ちた快活な言い方だった。
「そないなつまらんこと、俺はやってる暇ないんですわ。暇人でいらっしゃるあんた方だけでやったらどうです?」
暁史らしいと思った。人を馬鹿にした響きを持っている。椿は顔を真っ赤にして口を噤む。もう言葉が出ないようだった。
長い廊下、暁史の隣を私は歩きながら我慢できず問いかけた。
「あの人は誰なの?」
「側室の椿さんや……相変わらず性懲りも無く野望を抱えとる。めんどいやつやで」
「仇って、……何なの?」
「……くだらんセリフや。俺がそんなもんに靡くような馬鹿やと思っとったんやろうな」
夕食の時間、私は暁史とアオとともに、会合をしたのとはまた別の大広間に来ていた。広間は明るく、低い天井には古びた木彫りの梁が見える。壁際には掛け軸が掛けられている。夕食の時間だ。息を吸い込めば、腹の鳴るいい香りがしていた。
人々が席につくと、上座にいた宗一郎が立ち上がり、声を張る。
「今日はお疲れ様でした。こうして共に食卓を囲むことができ、嬉しく思います。食は心の糧であり、また力を養うもの。どうか遠慮せず存分に味わってください」
軽く手を合わせて「いただきます」と言った後、宗一郎が箸を取り、丁寧に一口料理を口に運んだのを合図に、皆もそれぞれ箸を取り始めた。
長い食卓には美しく整えられた和食の膳が並んでいる。一番端には、風味豊かな出汁が香る白味噌の味噌汁が湯気を立てる。具材には季節の山菜が浮かび、湯気にほんのり緑が差し込んでいた。
漆塗りの器に盛られた小鉢には胡麻豆腐。砕いた胡桃と金箔が控えめに飾られ、美しいコントラストが生まれている。
最初にアオがマグロの刺身を箸で挟んでとって頬張る。満足そうにぴょこぴょこ耳を動かして二又の尻尾を揺らしている。口がゆるゆると緩んでいた。暁史もまた控えめに箸を進める。綺麗な所作で艶やかで、ふっくらと炊き上げられた艶やかな白米を食べていた。
私も頬を緩めて食べ始める。茶碗蒸しはゆずと三つ葉の香りがして、とろりと口当たりがよく美味しい。胡麻豆腐はまろやかで舌触りが滑らかだ。
「アオ、これ食べてみた? めちゃくちゃ美味しいよ」
あまりの美味しさに私は笑みを浮かべて言った。アオももぐもぐと口を動かしながら言った。
「フン、暁史お前の家なかなかやるじゃねえか」
私は次に立派な活け作りの刺身に取り掛かる。大皿に一匹の魚がまるでまだ海を泳いでいるかのように盛り付けられている。透き通るように切り出された刺身の切り身が、薄く引かれた氷の上に美しく並べられていた。白く澄んだ身にかすかにピンク色が差して、光を反射しながら輝いている。切り身の隙間からは青い大葉と白髪ねぎが覗き、山葵や菊の花が彩りを添え、引き立て役として美しく盛られていた。
一切れを箸で挟む。醤油に軽く浸すと、身はすっと吸い込むように醤油をまとい、歯ごたえのある弾力と柔らかい甘みが口の中でほどけていく。
時折こちらを観察しているような視線が一瞬交差するが……次第に私はそれを忘れた。そうして夢中になって食べ進める。そうして一日目は過ぎたのだった。
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