第8話
妖怪も死ねば腐敗する。だがそれは人間とは違い非常に早いスピードだ。微生物に分解されるわけではない。ただ、その身に残る妖力が分解され、空中に溶け出す。なぜかは知らない、興味もない。まるで存在そのものが風に溶けるように、妖怪が持つ妖力は一瞬で崩れ、淡い霧のように周囲に散っていく。妖怪が死んだことでその場に妖力がみなぎると、また新しくその妖力を気に入った妖怪がその場を縄張りにして棲みつく。その繰り返し。それがこの世界の決まりだ。
初めて私は妖怪を殺した。刀が手元から離れた今も、震えが指先に残っている。
暁史は刀の血を拭いながら言った。
「どうや一仕事終えた感想は?」
「最悪だよ……」
呼吸が浅くなり、手元の汗が冷たく感じられていた。
◇
「何してるの?」
暁史とともに、私は家に戻ってきていた。ダイニングのテーブルいっぱいにスケッチブックを広げる暁史の手元を覗き込んだ。そこには鉛筆の荒々しいタッチで山姥が描かれていた。そういえば、暁史は妖怪を描く絵描きだと言っていたっけ。祓い屋としての姿が印象深くて忘れていたけど。アオは暇そうに、その様子を眺めている。
「見ての通りやね。忘れんうちに描かなな……写真に残らんからこう言う時困るわ。自分の記憶が頼りやからな」
「なんで居間で描くの?」
「そりゃお前……俺の部屋は本が侵食してるからなあ。本だらけや。汚したくないし」
「へえー、本とか読むんだ」
私は少し驚いて言葉を呟く。
「おん、もっぱら推理小説とかやね、最近は」
暁史はサラサラと鉛筆を走らせる。私は隣に腰掛けるとその様子を頬杖をついて見守っていた。そういえば、私は暁史について何も知らない。そうと決まれば好奇心がグングン膨らむ。暁史は上機嫌に笑みを浮かべつつも黙々と絵を描いている。
「その絵って売れるの?」
その言葉に、暁史は苦々しい顔をして、顔を上げる。
「……普通そう言うんは聞きにくい質問とちゃうの? えらい正直なんやね。まあええけど……正直あんまやね。祓い屋界隈ではちょくちょく売れとるで」
「ふーん」
私はテーブルにあったどら焼きの包みを開けながら、絵が出来上がっていくのを見ていた。暁史は生き生きと笑みを浮かべて鉛筆を走らせる。何も言わずとも『楽しい』と訴えかけてくる。その瞳には焔があった。キラキラと光を反射して燃え輝いている。確かにそこには情熱と呼ばれるものがあった。
「絵を描くことが好きなの?」
「まあな。家の奴らにいくら反対されてもこればかりはやめられへんかった」
口元を綻ばせて、出来た絵を見る暁史の顔は穏やかで優しい。私はその表情に少しドキッとした。
「暁史なら、そんなこと気にしないんじゃないの?」
「俺をなんやと思ってるねん。……まあでも確かに。俺は自他ともに認める頑固やからね。つまらんことは意地でもやりたない。おもろいことにしか興味ないし」
「面白いこと?」
「そうやな、この世は俺にとっておもろいかおもろくないかや。つまらんことは大嫌いやねん」
暁史は頬杖をつくと私を見てニヤッと笑う。イタズラ小僧が見せるような勝気な笑顔だった。その言葉に、暁史の根幹がある気がした。また一つ、暁史について知れた気がして私は嬉しくなる。もっともっと暁史について知りたい。
「そっか……」
私はどら焼きを一口齧って、飲み込む。ふと、私はあることを思い出して声を上げた。
「そうだ! あのさ、夜行衆って何? 悪五郎とか。山姥が最期に言ってたよね」
「ああそれな……」
暁史は鉛筆を置く。
「昔から妖怪の中でも特に強うて狡猾な奴らが集まった組織や。最近勢力伸ばしてきよって祓い屋連中の間でも話題になっとる。まあ、厄介な連中や。元々は山奥とかほとんど人間が寄り付かへん場所におったんやけど、今じゃあちこちの縄張りを広げよって都市部にも手を出し始めとる。その夜行衆のトップにおるんが『悪五郎』ちゅう男や」
暁史は口の片端をくいとあげて低い声で言った。
「俺が祓う」
その言葉は重く響いた。そして、視線を私に投げると問いかけた。
「……前にこの町がおかしいって話たな、覚えとるか?」
「うん」
「この町には悪四郎っちゅう大妖怪が封印されとる。悪五郎の父親や。そして……悪四郎を封印したのはお前の父、紅露雪貞や」
暁史は真剣な表情で私をまっすぐ射抜いていた。
「え? 父さんが?」
「祓い屋の世界では伝説や。一人の封印師として、命をかけて戦って悪四郎を封印したんやで。偉大な男や」
「ふーん、知らなかった……」
暁史は頬杖をついて私にニヤッと笑いかけた。
「アオなら詳しいんとちゃう? 雪貞に使役されとったんやから」
「えっ!? そうなの!?」
大きなため息を吐くアオ。否定も肯定もしない。アオは居心地悪そうに頭を掻いた。その腕には桜の花弁の模様が走っている。暁史は飄々と言葉を続ける。
「その桜の花弁の呪印、見覚えがあってな。ちょっと調べたら出てきたわ、『
それに対してアオは凪いた瞳でふっと微笑む。少年の容姿に似合わず大人びた微笑みだった。
「雪貞が死んだ時、契約は切れた。今の俺は自由なただのアオだ」
「どんな人だったの?」
そう聞いたのは興味からだ。私はあまり父について知らない。アオも今まで自分から過去を語ることがなかった。
「女好きで、美人に弱くて、見てみぬふりができない奴だったよ。戦いでは冷静沈着。封印師としてあいつより優秀なやつ見たことねえ」
遠くを眺めながら、抑え切れない懐かしさが滲んだ声色だった。二度と返らない日々を思い出すように、アオはため息を吐いた。
「……そうだったんだ」
「ま、とにかく、夜行衆と戦う覚悟だけは決めときや」
私は戸惑う。
「いきなりそんなこと言われても……」
「ええか? お前には決して避けられへん因縁があるんや」
◇
場所は変わり、高校の昼休み。私は屋上に向かっていた。照りつける日差しの下、背中に汗がじっとりと滲む不快な感覚がある。真っ青な空に入道雲は白く巨大に膨れ上がっていて、ジリジリと強く日差しが刺している。赤い提灯に、青白い顔をした赤のスカートを履いた花子。人体模型に、青い人魂が頭上でひらひらと揺れていた。
私は集まった面々を見回して言葉を発した。
「夜行衆について、調べてもらってたやつ、なんか分かった?」
私の言葉に、顔を見合わせる妖怪たち。誰もが顔色は悪く、何を言い出すわけでもなくお互いの顔をじっと見ている。話そうとするものはいない。最後に花子がやっと口を開いたが、言葉が詰まるように重たかった。
今の夜行衆には、頭の悪五郎、そして四人の側近がいるらしい。
そして……言いにくそうに花子は話を切り出した。鏡火の配下たちが『あの封印師、雪貞の息子を鏡火様が殺した』と吹聴しているのだと。
息が止まった。そして頭の中で何かが凍りついたように、だんだん息が浅くなる。アオが心配そうな顔でそっと私の手を握った。
「兄さんが?」
「気を落とさないで、ただの噂よ」と、花子は必死で言い聞かせるように答える。
「……ただの噂だったら皆んなそんな顔しないでしょ。教えて、何が分かったの?」
少しの沈黙の後、赤提灯が口を開いた。
「黎明の死体が見せしめに晒されたんだ。死体に残った妖力まで確かに黎明だった」
私は震える声で囁く。
「……見たの?」
返ってきたのは、容赦ない肯定だった。アオはぎゅっと私の手を握る。赤提灯は言葉を選びながら続けた。
「聞いた話だけど──」
──周囲には冷たい土と瓦礫が散らばっていて、とめどなく流れる血がその上に薄い膜のように広がっていた。黎明はどうにか立ちあがろうと足を震えさせていた。彼の息は荒く、空気を吸い込むたびに、痛みに苛まれるように顔を歪める。それもそのはず、大きな切り傷が胸に刻まれていた。出来たばかりの傷で、彼の瞳のように真っ赤な血が流れている。それでも黎明はゆっくりとどうにか立ち上がる。逃げることは無理だと悟ったのか、歩みを進める鏡火に対して背を向ける様子はない。
周りに大勢いた妖怪たちは囃し立てていた。「殺せ」と。雪貞の息子は、妖怪たちを興奮させるには十分すぎる名だ。それだけ恨みを買っているのだ。
「雪貞の息子を討て!」
その叫びが闇の中に響き渡り、妖怪たちの興奮が一層高まる。鏡火が静かに歩みを進めて、黎明に近づく。彼女の目には何の情もなかった。血に染まった鉄扇を広げて眉を顰めながら息を吐く。
「弱すぎて寒気がするわ。ああ、イライラする」
黎明は眉を下げて苦笑いをする。前髪は乱れていて、瞳が見えていた。鮮烈な赤が黒髪から覗く。
「俺も腹が立つよ……俺の弱さに」
「あらそう。それも当然の弱さだわ」
「でもさ」
黎明は自分が置かれている立場を理解していないかのように微笑む。鏡火は眉をピクリとあげた。
「俺は目にみえる力だけが全てじゃないと思う。そう信じたいんだ」
妖怪たちが次第に飽きてヤジを飛ばし始めた。黎明は全く気にした様子もなく、ふらふらとしながら堂々と立っていた。
「ハッあなた、何が言いたいわけ?」
「君も……俺と同じ考えを持ってるんじゃないかって──」
次の瞬間、鏡火は何のためらいもなく、黎明の胸元に向かって鋭く手を突き出した。その手が、まるで鋭利な刃物のように黎明の肉体に深々と突き刺さる。その手を抜いた黎明の胴には穴が空いていた。血の匂いが辺りに鮮烈に香る。妖怪たちの歓声が大きくなる。鏡火は舌打ちをして頭を掻くと、重いため息を吐いた。
「ああ、殺しちゃったじゃない、はあ」
そのまま、鏡火は背後の部下に手を差し出す。渡された日本刀を握ると一閃。首と胴が亡き別れになる。
首がゴロリと転がる。黎明は目を見開いたまま息絶えていたのだと。空虚な赤い瞳が空を見つめていた。
私は声もなく手で口を覆った。クラクラして息が上手く吸えない。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだった。そうして、夏の日差しがじりじりと照りつける屋上で、私はただ立ち尽くしていた。赤提灯が懐から何かを摘むと、おずおずと手を差し出す。
「これ……これだけ拾ってきたんだ」
それを見た途端、私は体の力が抜ける心地がした。赤提灯が広げた手にあったのは、ミサンガだった。私の持っていたものを同じもの。兄が絶対に外すわけのない。母さんの形見。それが赤黒いシミを作ってただ、ポツリとあった。
私は恐る恐るそれを掴んだ。だが、現実は変わらない。私の手の中にある、ミサンガがぼんやりと視界に揺れる。それはあまりに冷たく、重すぎる。
虚脱感が、体の中に冷たく染み渡っていく。暑さはますます酷く、皮膚の下にこびりついた汗が嫌に冷たく感じられた。悪い夢ならどれだけ良いか。世界がひっくり返るような酷い衝撃に息もつけない。アオが静かに肩に手を置き、私を支える。無言のまま、ただ優しくその手が私の震えを受け止めてくれていた。
目の前に広がる景色がぼやけて見え、呼吸が荒くなる。たまらなく、酷く暑く、全身を締め付けるような夏の日差しがただ私の身を焼き尽くしていく。
酷く暑くて、頭が痛くて────。
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