第6話

 目が覚める。

 柔らかい布団の感触。心地よい温もりが体を包み込む。天井は見覚えのない木目調だ。首を曲げて見渡せば、開け放たれた窓から朝日が差し込み、チュンチュンと小鳥の囀りが響いていた。窓から流れ込む朝の空気は冷たい。

 暗く重たい感情が胸の蓋をしているようだった。今はただ兄さんに会いたくてたまらなかった。

 

 ゆっくりと起き上がると、隣でアオが布団から半分出ながらもイビキをかいて寝ていた。奇跡的な寝相の悪さだ。とりあえず制服に着替える。そして下に降りることにした。

 階段を降りて、一階のダイニングに行く。どうにも空腹だった。暁史がいなかったら食パンを失敬しよう。するとちょうど暁史が廊下を歩いてくるところだった。暁史の紺色の着物は、袖口がわずかに乱れ、帯も普段より少し緩んでいるように見えた。大きなあくびをし頭をポリポリと掻きながら歩いてくる。その顔には眠気が色濃く浮かんでいて、目の下にうっすらとクマが浮かんでいるように見えた。私の姿を視界に入れると「晴」と名を呼んで何かを摘んでみせた。ミサンガだ。

 そしてあくび混じりに暁史は「ほら」とミサンガを差し出してくれる。

 古びた絹糸で編まれているが、見る角度によって糸の色が深紅から漆黒、黄金へと変化し、まるで霧が立ち込めるように陰影が差す。

 そのミサンガを手首にきつく結ぶと、私を取り巻く空気が張り詰めた。まるで重厚な封印がかけられたかのように。私の妖力はひっそりと押し込められ、周囲の妖怪には微塵の気配も感じられなくなるのだ。

「ありがとう、暁史!」

 暁史はもう背を向けて引き返すところだった。背中越しに暁史はふらりと手を振る。ふわりと大きなあくびをかみ殺すように肩をすくめる姿に、ふと気づく。


 もしかして……寝ずにこれを作ってくれていたのか。眠る時間を削ってこれを編む暁史の姿を想像して私は風が吹くように笑った。


 ◇


 今日もいつものように、私は高校に通い、授業に身を任せるように時間が流れていく。そして、放課後のチャイムがようやく鳴った。帰ろうと軽い鞄を肩にかけ、晴れやかな気分で立ち上がる。やっと解放されたと晴々しい気分をしていた私は地獄へ叩き落とされることになる。

 「紅露」

 担任をしている数学教師が私を呼び止めた。冷酷な表情だ。

 「なんですか」

 「課題また忘れただろ。ここでやって帰れ」

 「はあマジ?」

 「マジだ」

 私は顔を歪めたが、この決定を覆すことはできなそう。しかたなく渋い顔で机に向かい直し、課題の問題に取りかかる。隣でアオに教えてもらいながら、なんとか解き終わり、先生に見せて許可をもらってようやく教室を出た。


 玄関口にたどり着くと、校門前に人だかりができているのが目に入った。運動靴に履き替えながら、私はつぶやいた。

 「ん? なんだろう」

 「おい晴! あいつだ!」

 アオが顔を歪めて叫ぶ。見れば、人だかりの中心にいるのは、なんと暁史だった。女子高生たちに囲まれている暁史は、心底気持ちよさそうににっこり笑っている。妙にサラサラした髪が光を受けてなびき、セットされた髪が見慣れた彼より少し大人っぽい。黒い着流しの和装姿で、肩には一見無造作に見えるショルダーバッグ。どうやら周囲の女子たちは、そんな彼の余裕たっぷりな雰囲気に夢中らしい。

 「……あいつ、何してんだよ」

 すると、クラスメイトの女の子が私を見つけて大声で叫んだ。

 「紅露さん! こんなにかっこいいお兄さんいたの!? 言ってよ!」

 「はあ…」

 兄だと説明しているらしい。何を言ってほしかったのかはわからないが、とりあえず気の抜けた返事をする。そこで暁史が私に気づき、余裕のある笑顔でポルシェを指差した。

 「遅かったやん、先生に居残らされたん? あんた頭悪そうやもんなァ。ほな、さっさと行くで」

 「なんでいるんだよ」

 暁史は上機嫌に手を振り返しながらも車に乗り込み答えた。

 「次の依頼が待ってるんや。時間が勿体無いから迎えに来てやったんやで、感謝しろや」

 

 仕方がなく助手席に座る。後部座席にアオが座った。車を走らせる間、暁史は依頼について淡々と説明した。

 「子供が攫われとる。妖怪の目星はついとるんや。子供は、勘やけど……死んどるやろうな」

 その温度のない言葉に私は息を呑んだ。

 「普通いくら人が喰いたくても、実際に行動に移すのは滅多におらん。よっぽど自分の力に自信があるやつだけや。今の時代、祓い屋がすぐに飛んでくるからな」

 暁史は、「だが、」と言葉を連ねた。

 「前々から思っとったけど、この町はなんかおかしい。妖怪が強すぎるんや。妖がひしめきあい、妖力が渦巻いてる。俺はな、その謎が解きたくてここに来た」

 

 私は車の窓から流れる景色を眺めていた。街を歩く人間、そして大小様々な妖怪の姿が私の目には映った。街を闊歩し、街の隅で息づいている。私にとってはいつも通りの光景だ。この街がおかしいなんて、考えたこともなかった。アオは考え込むように黙り込んだままだった。


 やってきたのは、山だ。森の木々はざわめき、冷たい風が低く唸るように吹きぬけている。青々と茂った草木で息づき、陽光をたっぷりと吸い込んでいる。葉の隙間から差し込む木漏れ日が、柔らかな光を地面に描き出す。蝉がひどく喧しく鳴いていた。

 緑が生き生きと輝く山々を続く道路の端に車を停める。そして暁史はなんの躊躇いもなく木々が生い茂る山に入って行った。私とアオもその後に続く。時折、花の甘い香りや、湿った土の匂いが風に乗って漂ってくる。どれほど進んだだろうか。暁史がすう、と息を吸うと怒鳴った。

 

 「おるんやろ。さっさと出てこいや!!」

 

 そして側にあった木を暁史は思いっきり蹴り付ける。

 「ガラ悪っ」

 私の思わずこぼした言葉には反応せず、暁史はよく通る声で言い放つ。

 「ここまで俺ら祓い屋をコケにして見逃してもらえるなんて思ってへんやろ。なあ? 妖怪風情がよおやるわ。それとも怖くて出てこれへんか?」

 暁史は生き生きと煽る。私は思わず暁史の袖を引っ張って囁いた。

 「ちょっと、そんなんでほんとに出てくるの?」

 「大体の妖怪は出てくる。妖怪ってのは総じてプライドが高いもんやからな。ま、これが無理だったら別の手も考えてる」

 

 その時だった。

 「ひひひ、ひひ、……また可愛らしいお客が来たかエ?」

 どこからともなく笑い声が聞こえてきたのは。老婆の引き攣ったようなしわがれた声だった。ゆっくりと木の間から現れたのは、一人の年老いた女。暁史は鼻で笑う。

 「ようやくお出ましかいな。何様やねんほんま。……地獄に送ったるわ」

 「フン、祓い屋ごときがいつまでもギャアギャアうるさいねえ」

 普通の老女ではない。彼女の背丈は異常に高く、体は痩せこけているが、その手は大きく、爪は鋭く伸びていた。白い髪は乱れ、無数の葉や枯れ枝が絡まっている。黄色い目が暁史を見つめ、鋭い歯が不気味に覗く笑みを浮かべている。山姥だ。

 「昔からそうだよ、お前たちは。……目障りなんだよ、坊や」

 その山姥は「ひひひ」と嫌な笑いを浮かべながらこちらに飛びかかってくる。

 暁史は素早く後ろへ下がると私の尻を蹴った。

 「は!?」

 自然と私の体が暁史の前に出てくる。

 「いいか、晴。お前は格上との戦いを経験しなあかん」


 そう言いながらも振り返りみた暁史は薄笑いを浮かべていた。腕を組んで静観の図だ。


 「雑魚としかまともに戦ったことないんやろ。そんなんじゃこれからは通用せえへん。……アオ。手出したらあかんで」

 「わあってるよ!!」

 



 

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