第5話

 「これ暁史が作ったの? 全部?」

 私は濡れた髪を、首にかけたタオルで拭きながら呆然と尋ねた。テーブルの上に広がるのは、食欲をそそる料理たちだ。ます嗅覚に飛び込んでくるのは生姜の香り。千切りキャベツとともに、一人分の皿の上に豪快に盛り付けられたこんがりきつね色の大きめの唐揚げが5個。衣がやや焦げているようにも見える。そして艶やかに光る米に、湯気の立つ味噌汁。「うまそー」とアオがペロリと舌舐めずりした。

 「そうやけど? 食べれへんもんない言うてたけど、一応誰でも好きそうなもんにしたわ。唐揚げ嫌いなやつおらんやろ」

 暁史はグレーのエプロンを外しながら、言った。そして椅子を引いて腰掛ける。そしてキョトンとこっちを見た。

 「どしたん? はよ食べな冷めるで」

 「うん、唐揚げめちゃくちゃ好き! ありがと、いただきます!」

 「いただきまーす」

 私はパッと笑うと椅子に座り、箸をとって言った。アオも席に座って手を合わせる。

 まずは唐揚げから。一口齧ると、生姜の風味が強くしっかり味がついている衣が、ザクっと一気に崩れる。そして肉汁がジュワッと口の中で溶けた。焦げたところが香ばしい。私は目を輝かせると次々食べた。米はほのかに甘く、温かな味噌汁はホッと落ち着く味がした。

 暁史は箸の持ち方から綺麗な仕草をする人だった。動作はゆっくりとしていて、何というか品があると感じさせた。背筋はまっすぐ伸びていて静かに咀嚼し、お椀の取り上げ方さえ美しい。その姿を見ると、自然と気をつけようという気になって背筋が伸びる。

 アオと私は次々と皿の上の料理たちを平らげていった。皿が底の白さを取り戻し、米の最後の一粒を食べた私は、満腹になった腹をさするとふう、と息をついて手を合わせる。

 

 「「ごちそうさまでした!」」

 「ん、よろしゅうおあがり」


 キッチンに皿を下げると、暁史はシンクで皿を洗っていた。私は近づいて尋ねる。

 「手伝う?」

 「いや、ええわ。今日はもう休んでええで、明日から仕事やし」

 「はーい」

 


 階段を上がると割り当てられた私室に入る。中途半端に荷物を取り出した鞄とその他諸々が地面に散乱している。私はそれらを無視して窓を開け放った。

 窓から時折吹き込む夜風が心地いい。闇が重く蒸し暑くたれこめる外では、虫たちが喧騒を醸している。私は電気を消した薄暗闇の中、静かに窓の外を眺めていた。光輝く街の煌めきが、黒く沈んだ山の闇の遥か下で瞬いている。私は窓枠に体重をかけるように肘をつくと顎を支えた。ため息のような吐息が暗闇の中溶けていく。

 「ねえ、アオ。あのさ……」


 兄さんは見つかるだろうか。口にせずとも、その言葉はアオに届いたらしい。アオは暗闇の中、畳にあぐらをかいて座ると青い瞳を光らせながら口を開いた。

 「さあな。ま、黎明れいめいのやつはああ見えてしぶとい奴だぜ」

 私は込み上げる感情を誤魔化すように笑った。

 「ありがと。そうだよね。うん、なるようになるよ、きっとね」

 

 

 夢を見た。


 遠い過去の夢だ。


 暮れ時の街を、幼い私と兄が一緒に歩いていた。私はぼんやりとその記憶を俯瞰するように眺めている。確かこれは……10年前だ。父さんと母さんが死んだ年だからよく覚えている。空は燃え立つように赤く染まって、家々の白壁が夕陽を照り返して明るい。鴉の鳴き声が遠くで響く。兄さんは私の少し後ろを歩き、私は時折走り出しながらも手を広げて風を感じていた。蝉の声がして、風が草木を揺らす音が快く耳に残る。

 

 「お前、最近はどこでも走り回ってるな。転ばないように気をつけろよ」

 「うん」

 走りながらそう言った途端、私は小石につまずき前のめりにこける。私はやっとのことでまだ暖かさの残るアスファルトに手をついた。ジンジンとやってくる痛みにじわっと涙を浮かべる。尻をついて血の滲む膝を抱えた。

 「あーあ、言ってる側から。まったくお前はしょうがねえな。見せてみろ治してやるから」

 兄さんは私の前にしゃがみ込むと傷の前で手をかざす。すると、みるみるうちにその傷は治っていく。まるで高速で回したビデオを見ているようだ。兄さんは昔から治癒する能力に長けていた。いつも兄さんは私の傷を見つけるたびに治してくれる。自分にはその力は使えないのに。

 「なんで兄さんはいつもそんなに優しいの?」

 「優しくなんてねえよ」

 「嘘だー!」

 頑なに兄の言うことを信じない私を見て、兄さんは笑って言った。

 「嘘じゃねえって。俺さ、自分が気持ちよく生きるには、見てみぬふりができねえんだよな。なんかモヤモヤしちまうんだ」

 兄さんは優しい声で私の肩に手を置いた。

 「俺は自分の手の届く範囲を守りたいんだ。お前とか、大事な奴らが笑っていてくれれば、それだけでいいんだよ。それで俺は満足なんだよ」

 

 「私も! 私も兄さんがいればそれでいい!」

 この時の私はまだ幼かった。兄の言葉の意味を捉えるには。

 「それはちょっと困るな……」

 兄さんは苦笑する。

 「なんで?」

 「お前には広い世界で生きてほしいんだ。いっぱい友達作って、大切な人を作ってさ」

 「ふーん。それって楽しいの?」

 「楽しいさ、きっとな」


 ふと兄さんが私の頬にある傷に気づいた。

 「お前、その傷どうした?」

 「クラスの子に叩かれた」

 「……やり返したか?」

 「ううん、兄さんが言ってた通り、我慢した」

 「そうか」

 兄さんは苦々しい声で呟くと私の頬を親指でなぞる。触れてみれば、もうその傷はどこにもなかった。

 また兄さんと私は歩き出す。私は空き地の草むらにある影を見つけると、パッと頬を綻ばせて飛びついた。

 

 「見て兄さん! 妖怪捕まえた!」

 ふわふわとした丸っこい妖怪だ。怯えたようにきゅっと鳴いた。

 それを見て、兄さんは深いため息を吐く。

 「かわいそうだろ、離してやれ」

 「かわいそう? 妖怪のくせに弱いのが悪いんじゃん」

 「あのな……」


 兄さんは真剣な顔を作って私の前にしゃがんだ。私は怒られるのかと思って身をこわばらせる。


 「俺はお前に酷なことを言う。だが、それでも俺はお前に言うぞ」


 私と同じ、いちご色の力強い瞳がボサボサの黒髪から覗く。その真剣な瞳に私は自然と捕まえていた妖怪を手放していた。その妖怪は一目散に逃げていく。兄さんの目を私はただ見つめていた。


 「お前、人間として生きろ」


 兄さんは言葉を続ける。

 「妖怪に友達作っても、子分作ってもいい。でも、自分が人間だっていう意識を持て。妖怪として修羅の道を歩むな」

 「兄さんも人間として生きてるの?」

 「まあそうだな。……不満か?」

 「……みんな私が変だって言うの。私人間じゃないみたい」

 「辛いな。お前はきっと人間として生きるなんて辛いことばかりだろうな。でもな、エゴだとしても俺はお前に妖怪としてじゃなく人間として生きてほしいんだ。それにお前は優しいから、妖怪として生きるのもきっと辛い思いをする」

 

 「俺だっていつまでもお前の側にいれるわけじゃない。いつかは自分の道を歩まなければならないんだ」

 「嫌だよ、兄さん。ずっと一緒にいてよ」

 「大丈夫さ。俺がどこにいても、お前はちゃんと自分の道を歩いていける。お前にはその強さがある。保証するよ」

 有無を言わせない、でも優しい笑顔だった。夕暮れの光が差している。もう二度と戻らない懐かしい日々。

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