二.邂逅 ⅱ.二〇二三年一月 鼓動
それから、二人が再び会ったのは年を明けた二〇二三年一月のことであった。
典弘が待ち合わせの築地市場駅に向かっている途中、理香からまたメッセージが届いた。
『改札の前で、待ってる。黒いダウンをきてポニーテールにしているよ』
典弘は、素敵な人だな、と思った。会うのが久しぶりだから、すぐにわかるように自分の特徴を送ってくれているのだ。反面、忘れているわけがないだろう、とも。ホームから改札階へと続くエスカレーターを登り、左に折れると改札の先に理香が立っているのが見えた。典弘は、自分が新しい自分になったことを感じた。
築地市場の駅を出ると、平日の昼間にもかかわらず多くの人でごった返していた。外国人観光客がそのほとんどを占めているように見えた。二人は典弘が事前に探していた、海鮮丼を出す店を目指して人混みを縫って歩いた。多くの言語が飛び交っていたはずだが、その何一つとして二人の耳には届いておらず、互いの言葉だけが耳に届いていた。それだけで十分だった。
典弘が探した店に辿り着くと、そこは長蛇の列だった。あまりの列の長さに二人はその店を諦め、ワンブロック先にあった空いている店に入った。テーブルを挟んで二人は向かい合い、軽く近況について伝えあった後で、相手のことについて探り合った。好きな食べ物は何か、最近あった嫌な出来事はどんなことか、過去の恋愛について、典弘と理香という人について。
「夫の母が乳癌で、もう先が長くないの。私、夫のことは嫌いだけど、夫の母はとても好きなの。たくさんよくしてくれたし、厳しいところもあるけど、それは優しさから出るものだというのが伝わってくる。でも、もう治療は難しい段階まで来ているんだ。もうすぐ自宅に帰ってくる。」
理香は海鮮丼の最後の一口を飲み込んだ後で言った。理香は、まだ二回しか会ったことがない典弘に、なぜこんなことを告げたのか自分でもわからなかった。わからなかったが、どうしても伝えたくなったのだ。あるいはそれは典弘という人間を信頼した結果だったのかもしれない。
「そうか」
典弘は、うまく言葉を選ぶことができないまま言った。生と死、人の根源的な部分を告白してくれたことは嬉しかったが、同時に悲しくもあった。好きな女と共に暮らす男の母とは言え、一つの命の日が揺らいでいる事実は、やはり苦しいものであった。
「でも、夫は全然義母に会おうとしないの。私がケアしているんだ」
理香は目を伏せてつぶやいたあと、一片の沈黙がテーブルの上に運ばれてきた。それからすぐ、店員が来てお茶を継ぎ足すと同時に、その沈黙を下げてくれた。
「自分の母親が弱っていくのを見るのは、きっとつらいことなんだろうね。葛藤があるんだと思う。」
少し迷いながら典弘は良い、注がれたてのお茶を飲んだ。お茶はまだ暑く、特有の苦味とざらついた感触が唇に残っていた。
店を出るとまだ少し時間があった。二人は店を出ると、近くにあるチェーンのカフェに向かって歩いた。一月の東京はとても寒かった。横断歩道で車が過ぎるのを待っている時、典弘は左手に理香の温もりを感じた。典弘は自分の鼓動が早く、大きくなるのを感じていた。道を往く車が途切れて騒音が静まってしまったら、鼓動の音が理香に聞こえてしまうのではないかと恐れた。
理香は、この男に触れてみたい、と思っていた。手を握り、指を絡めたいという純粋な欲望が胸の奥に広がっていた。最後に男性の肌に触れたいと思ったのはいつのことだっただろうか。ある時期までは、夫に触れたいという気持ちも確かにあった。夫の度重なる浮気がわかった後でさえ、そのような気持ちを抱いでいた時期があった。しかし、今はもう夫に触れたいとは思わないし、もし触れられたとしたら嫌悪感さえ抱くだろう。だからといって、自分がこれから取ろうとしている衝動の表現は何なのか、自分の中でうまく説明がつかなかった。ただ、皮膚と皮膚が触れるだけのことだ。まだ、大丈夫だ。そこから意味を引くことだって容易にできる。できるんだ。そう思っていた。しかし、動き出すにはきっかけが必要だった。自分以外の何かがスタートの合図を送ってくれる必要があったのだ。少し先からオレンジ色のタクシーが向かってきた。このタクシーが通り過ぎれば、きっと私たちは横断歩道を渡たり、向こう側に歩き始めることになるだろう。
オレンジ色のタクシーは横断歩道の前で少し速度を落としたあとで、思い直したように再度加速して通り過ぎた。理香の指が典弘の指先にかすかに触れたあとで、理香の手が典弘の五本の指を覆った。均衡が崩れた。典弘は理香の手を握り返し、そして指を絡めるように握り直してから小走りで横断歩道を渡った。
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