二.邂逅 ⅱ.二〇二二年十二月 空白の日々
その後で、二人の間の連絡が途絶えた。邂逅の後、典弘と理香は何通かのメッセージのやり取りをした。次に会う話をしたところで、理香からの返信が途絶えた。その空白のせいで、典弘は理香のことをさらに思うようになっていたが、その想いを断ち切るように理香とやり取りしたメッセージの履歴を、スマートフォンから全て削除した。僕が彼女の好みに合わなかったのかもしれないし、他の人と出会ったのかもしれないと、思った。十二月に入り、街はクリスマス、そして年末へと向かっていた。その間、典弘は早苗と三回ほど会ったが、早苗といるのに一人でるのと変わらない心持ちであった。それは早苗にしても同様で、どこか噛み合わない時間が流れていることを感じていたし、もはや二人の間にあるものは恋や愛ではないことも知っていた。
典弘は、調布の1Kのマンションに住んでいた。大学を卒業し、都内のIT企業に就職して最初の半年間は多摩センター近くにある会社の寮に住んでいた。半年が経った頃、寮が閉鎖されるから1ヶ月以内に退去するようにと通達があった。寮での暮らしは、当時は面倒くさいものであり、気楽な一人暮らしを心から望んでいた。実際、一人で暮らすと言うことは最高だと感じていたが、振り返れば、同期たちと暮らす寮生活も良い経験だったと今は思う。
"中央フリーウェイ 調布基地を追い越し
山に向かっていけば 黄昏がフロントグラスを染めて広がる"
荒井由実の中央フリーウェイの一節だ。恋人の運転する車に乗り、中央自動車道を走る歌だ。右に見える競馬場、左にビール工場。この歌のせいか、典弘はずっと調布という行ったこともない街に惹かれていた。そして実際に、家を探すために幾つかの駅を巡ったが、調布駅に降りた時にこれはと思うものを感じた。そして実際、典弘は調布という街を愛していた。
空白の間、典弘は休日をなるべく調布市内で過ごすようにしていた。深大寺、駅前のカフェ、調布飛行場。時々は隣の街にある東京競馬場にも出かけ、本を読んだり、どこかの競馬中継を見たりしていた。結果として、典弘は自分の生活圏の多くの場所に理香の存在を自ら塗り付けてしまうことになった。
理香はといえば、沙織のことで頭がいっぱいだった。0歳10ヶ月の沙織を母としてケアし、経理として会社を支えて、自由奔放な夫の妻として家庭を回した。女としての自分は、最早後回しにする以外なかった。
「理香ちゃんは、僕のことが嫌いなんだよ」
と、理香の夫は言った。理香は、典弘のことを思い出していた。男は何故、時々意味不明なことを唐突に言い出すのだろう。
「どうしてそう思うの?」
理香が返すと、夫の真之は続けた。
「だってさ、僕が飲んで帰ると怒るじゃない。23時以降に帰ろうとすると泊まってこいとか言うしさ。」
「沙織が起きるんだよ。沙織のことも全然気にしてくれないじゃない」
理香はダイニングテーブルの向かいに座った、夫の顎先をちらりと見て言った。夫の顔は、昔と比べるとやはりシャープさが失われつつあった。
「僕には僕の生活があるんだよ。理香ちゃんは経営者の妻として僕を支えると言う気持ちが足りないんだよ。やっぱり僕のことが嫌いなんだ。」
真之は溜息混じりに言った。
「だから、あなたのやることに干渉はしていないでしょう」
その三日後、理香は胃腸炎になり、嘔吐と下痢と熱に襲われた。それでも真之はその生活を変えることはなく、。日中は紗織をなんとか保育園に預けたが、夜は耐え難い日々だった。理香は二十分に一回はトイレに駆け込み、休めるかと思えば一時間に一回は紗織の泣き声に目が覚めた。それでも、沙織のことを思えば耐えることができた。沙織は私の総べてなのだ。
十二月の半ばになると、典弘はやはり理香を思い出してしまう日々が続き、ついに再度メッセージを送った。
『お久しぶりです。その後、良い出会いはあった?』
程なくして理香から返信があった。
『育児で大変すぎて、出逢いどころじゃなかったよ。でも私、もっと典弘と仲良くなりたいと思ってた。またランチでもいけたら嬉しい」
典弘は心底ほっとすると当時に、その理香からのメッセージの内容の解釈に困っていたのもまた事実であった。理香としては特に他意はなく、事実をそのまま伝えただけであったが、やはり、空白というフィルターが二人の間に立ちはだかっていたのは、事実であった。だが、それはあくまでただのフィルターである。フィルターは物質を通すことはできる。
食事の日の当日、理香が月島の事務所に出社すると、自分を含めて五名いる従業員のうち、二人が休みであった。理香は、キャンセルのメッセージを典弘に送った。十二月はもう、後半に差し掛かっていた。事務所の窓から見える木には、離れるタイミングを失った黄色い葉っぱがいくつか、しがみついていた。
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