二.邂逅 ⅰ.十月二十一日、東京②
二人は、新宿駅の西口から都庁へと続く地下道を並んで歩いた。多くの初対面の人々がそうであるように、彼等もまた、当たり障りのない会話で空白を埋めていた。しかし、典弘はその通過儀礼的な作法が苦ではなかった。理香が発する言葉から、彼女の本質や、考えや、もしくは心といった曖昧模糊としたものも含めて、全てを読み取ろうと必死だった。そしてそれは、彼にとっては必要なことだった。
典弘は、完全に恋に落ちていた。それも、普通の落ち方ではない。穴の側面に触れることもなく、すとん、と綺麗に恋に落ちたのだ。まだ、典弘の目には空が見えている。しかし、やがて深くへと落ちて行き、その空はどんどん小さくなり、見えなくなるということは明白だった。
恋に落ちた時の結末は二つしかないのだ。なすすべもなく深いところへと落ちていき、愛という柔らかなクッションで包まれるか、真っ暗な地面に叩きつけられてのたうち回るか、だ。恋に落ちるということには、覚悟がいる。覚悟がいるにもかかわらず、落ちるか落ちないかを自分で選ぶことはできない。一体どうなっているのだ、と典弘は思う。
典弘には、五年ほど一緒にいる恋人がいる。早苗というのが恋人の名だ。早苗は同じ会社の同僚で、付き合い始めた時は典弘の十二歳年上で、出会った時は上司であった。今は彼女の配下からも外れ、典弘はマネージャーに昇格したから、彼女とは横並び、つまり同僚であった。早苗との付き合いに、典弘はうんざりしていた。それはおそらく、早苗にとっても同じであった。典弘と早苗は年に十回会うか、会わないか、という状態だった。言わずもがな、男と女としての接触は一切なかった。典弘は苦しんでいた。彼女を抱く気は起きなかったが、一人の友人としてはそれなりに楽しさを見出せる相手であった。だから、別れを告げることができず、気が付けば五年の月日が経過していた。
今、典弘が抱いている感覚は、今まで生きていて始めてのものだった。
理香の容姿の美しさに圧倒されていた。長く綺麗な髪、はっきりとした目鼻立ち、綺麗な二重を携えた大きな瞳と、透き通るように白い肌。しかし、その時の典弘は、理香を抱きたいとは思えなかった。触れることさえ罪になるような美しさだった。美しいの定義として、辞書に載せたいぐらいだ。
会話を続けていくうちに、二人は高層ビルが立ち並ぶ地上に出た。
理香はその時、典弘に対して居心地の良さのようなものを感じていた。この人の心には、私の居場所があるのではないか。それをすぐに確かめることはもちろん、できない。できないがそう思っているだけで、女としての自分が少し目を開いたような気がした。好きになってしまうかもしれない、と思った。そしてこのようなことを考えた時点で、もう結末が見えているということも理解していたのだ。
食事をするレストランが入ったビルの前の交差点で信号を待っている時に、典弘は唐突に言った。
「僕は旦那さんみたいな経営者じゃないからね。普通の会社員だから、あまり期待しないでよね」
典弘は理香の期待値を調整するつもりで言った。多少は警戒していたのである。旦那と同じようなデートの水準を求められても応えられない、ということを伝えたのだ。理香は「どうしてそんなことを言うのだろう」と思った。そもそも夫にないものを求めて、典弘に会いにきているのだ。一体何を考えているのだ、この男は、と。
新宿副都心の一角に佇む超高層ビルの最上階にあるレストランに入ると、ランチの時間帯真っ只中であったが人はまばらであった。二人は愛想の悪い店員に連れられて、窓側のカウンター席に通された。その席からは東京西部、多摩地区をはっきりと見ることができた。薄曇りの空の下、多摩丘陵が見えた。ふと、典弘はすぐ目の前に自分の会社のオフィスがあることに気がついた。その日は金曜日で、典弘は有給を使っていた。典弘は本社勤務だったから、新宿オフィスに出社することはほとんどなかったが、直属の上司はそのビルの目と鼻の先のオフィスで働いていた。もちろん、今もいるはずだ。
典弘と理香は、鰻を注文して、食べた。その間、さまざまな話をし、たくさんのことをお互いに知った。二人の大学は創設者が同じであったこと、典弘と早苗の関係や付き合い方のこと、理香の夫について、理香がベビーカーを買う時にエクセルで比較表を作って説明したこと、典弘は前日に初めてのバリウムを飲んだこと、結婚する前に理香はオフィス用品メーカーで勤務していてそのメーカーの商品を典弘もよく買っているということ。共通点も相違点ももちろんあったが、その時二人が考えていたことは完全に一致していた。
お互いのことをもっと知りたい。
食事を終えると、二人は来た時とは別な道で別な駅へと向かった。帰り道で、典弘は勇気を出して聞いてみた。
「ねえ、どうして別な男性と会ってみようと思ったの?」
「夫が遊んでいるのだから、私だって遊びたいって思ったから。」
「余計なことだけど、理香にはそういうのは似合わないと思う。やめなよ。もっと自分を大切にしたほうがいい。」
新宿西口駅へ向かう途中にかかった歩道橋を登りながら、典弘は言った。本心だった。他の人に渡しくないと思ったのもあるが、理香の持つ美しさがあまりにも純粋すぎて、思わず口をついてしまった。理香は何も応えなかった。典弘はどう続けて良いのかわからなくなったが、なんとか次の言葉を紡いだ。
「また、会えるかな?」
理香が望んでいた言葉に近いものだった。
「うん。また会いたい」
新宿西口駅に着くと、理香は都営大江戸線の改札を通り抜け、ホームへと続く階段を降りていった。
振り返りもせずに。
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