二.邂逅 ⅰ.十月二十一日、東京①
新宿駅西口の花屋の前に、少し緊張した様子の女性が立っていた。理香である。落ち着いた茶色の髪を後ろで一つに束ね、薄化粧を纏っている。白いブラウスに濃紺のカーディガンを羽織り、グレーのロングスカートを合わせて立ちすくむ様は、派手さはないものの、雑踏の中で独特の存在感を放っていた。これから来る、会ったこともない男のために、仕事の昼休みを使い、地下鉄に乗って新宿までやってきたというのに、肝心なその男は「少しだけ遅れる」とメッセージを送ってきた。なんて男だ、と思ったのが本音であったが、このまま踵を返すわけにもいかない。苛立ちにも不安にも緊張にも似た不思議な感情が、頭の中に広がっていた。
理香が夫と結婚してから、もう五年が経つ。夫は月島にある町工場を経営していた。夫の祖父の代から続くネジをを加工する会社の三代目社長で、理香はその会社の経理兼総務兼人事として働いていた。夫は二年前に後を継ぎ、社長になった。夫が社長で、妻が経理。家族経営の会社でよくある体制であり、華やかなキャリアというわけではないものの、社長夫人というその体裁や、その巨大な経済力は理香を安心させるのに充分なものであった。夫婦生活がうまく行っているかと言われれば、それは順風満帆とは程遠いと言わざるを得なかった。経営者のイメージそのままで、夫は他所に女を作り、夜は飲み歩き、家に帰ってこないことも少なくなかった。酒を飲んでは深夜に家に帰り、日によっては明け方に帰ってくるということもあった。直接的な暴力はないものの、夫の持つ、精神的な暴力性、それも無意識に持っているものは、理香を心の底から苛立たせた。それでも、夫との間に娘も授かり、理香は持てる愛情の全てを娘に注いでいた。沙織(というのが娘の名前だ)こそが私の生きる道だと考えていたし、実際にそうだった。そして沙織の存在は理香を強くさせた。
しかし、何かが足りなかった。夫とのセックスはもはや思い出すことができないほど遠い昔の出来事であり、理香は周囲の目線からも、自分自身の認識の中においても「女」ではなく、「母」になっていることを感じ取っていた。母であることと女であることの間で、揺れ動く自分を自分自身でもうまく理解することができなかった。あるいはそれは、インモラルなことであったかもしれない。少なくとも、この時点では。
インモラル。不倫、その直訳じゃないか、と思った。沙織はまだ、0歳8ヶ月だ。わかっていた。出産して一年が経たないうちに、インターネットで知り合ったどこの誰かも知らない男性に会うために、新宿駅で佇んでいるということがどういうことなのか。どんな理由や経緯を並べたところで、これは不倫(になる可能性がある行動)なのだ。いや、大丈夫だ。これは遊びだ。ゲームだ。彼との距離を保って、遊びだと割り切ればいいのだ。もちろん、葛藤がないわけではない。まだ、不倫はおろか会ってすらいない。このまま、すぐにこの場所を離れれば、可能性を可能性のままにしておくことができるのだ。幸か不幸か、まだ彼は来ていない。猶予はまだ、ある。
花屋に並んだダリアのピンクが、やけに鮮やかに見えた。その鮮やかさから目を逸らすように自分のつま先に目をやると、新宿駅を行き交う人の波に自分が飲まれてしまうような気がした。どうすれば良いのだ。流れに身を任せるべきか、逆らうべきか。きっと、彼は来ない。来ないでほしい。
「こんにちは、遅くなりごめんなさい」
その声はしかし、理香の迷いなど無視して、足音の隙間を縫ってやってきた。
理香が顔を上げると、細身の男性が無理やりな笑顔で立っていた。少し伸びた髪に、細い体とバランスが合わないほどふくよかな頬を持つ顔。茶色のドライビングシューズ、黒いパンツ、えんじ色のニット、チェックのテーラードジャケットの胸にはニットと同じ色のポケットチーフが挿されていた。
理香三十七歳、典弘三十五歳。
出会ってしまった。
これから、長く深い物語が動き出すということは、二人はもちろん知らない。
二人が気づかないうちに、音もなく動き出していた。
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