ケース:金魚鉢

 そこは都心にあるオフィス街で、ガラス張りの鋭角な高層ビルが林立している。晴天の色を映し、眩しい青色をたたえていた。その足元では、スーツに身を包んだ人間たちが大勢行き交っている。

 のっぺりとした瞳が眼下をなぞる。下顎を上下させると、細かく鋭い歯が覗いた。

 最初に気づいたのは、外資系の企業に勤める三十代の男性だった。取引先に向かう途中で、不意に視線を感じた。頭上を見上げると、いつもと変わらないオフィス街の景色があるだけだった。空に聳えたビルが陽光を反射して目に入る。顔をしかめ、手をかざした。

 陰になった視界の中で、何かが動いた。よく目をらす。鏡面となったガラス張りのビルの表面を、透明な何かがひるがえった。男性の目には、極めて大きな魚のびれに見えた。

 あまりに非現実的な光景で、ビルに備わった大型ビジョンを疑った。ただその魚影はビルからビルへと移り、絹の布にも似た鰭を優雅に揺らめかせている。鮮紅色の鱗が鮮やかで、妙に重そうな白い腹が印象に残った。

 ふと童心に返った。赤みを帯びた提灯に彩られた故郷の祭りで、底の浅い長方形の水槽に張られた水の中を、色とりどりの金魚が泳いでいる。小赤、出目金、琉金。ポイの薄紙を破りながら、苦戦して掬い上げた金魚を透明な袋に入れて持ち帰った。家の金魚鉢で飼おうとして、その金魚はすぐに死んでしまった。

 ある種の現実逃避だったのかもしれない。高層ビルの表面に映った無機的な瞳が自分を見下ろしていたとき、どちらが金魚鉢の中の魚かわからなくなった。

 ガラスが割れる音が響いた。男性は煌めく破片と降り注ぐ大量の水、覆い被さる巨大な影を呆然と見上げるしかなかった。



 この都市のオフィス街で発生した災害の概要は、局地的な豪雨による被害とビルの倒壊事故が重なったものとして偽装された。

 各地のグラスウォールで覆われた高層ビル群で非実体の存在が確認されており、多くは魚類を模する。これらが全て実体化したケースの被害は甚大な規模になると想定されており、特殊激甚災害に発展するとして政府は対策を急いでいる。

 実体化した個体は強烈な腐敗臭を発し、およそ二ヶ月をかけて処理されるまでオフィス街は封鎖された。

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ケース:金魚鉢 @ninomaehajime

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