第19話

「どうしたの、溜め息なんかついて」

「らしくないな」


 寝不足のせいか、朝っぱらから紡と凪に杞憂されてしまった。

 まあ杞憂じゃないんだが。

 まっすぐな目はまるで、いつもの自信満々な兄はどこへ行ったのかと問うているようだった。

 高校についたらついたで、方々から妙に気遣われてしまった。いつも快活に挨拶しているせいだろう。今日は我ながら覇気がなく、挨拶し忘れてしまったクラスメイトがいることをあとで指摘されている始末である。

 目下、脳のキャパシティの大半を占めているのは朝日向のことだ。CPU使用率のほとんどが彼女の処理に割かれていて、そのせいで他のアプリが遅延している状態と言って差し支えないだろう。つまり俺はポンコツ状態というわけだ。

 特筆すべき議題はひとつ。

 太ももを全世界に公開するようなふしだらな売女を許容すべきか否か。

 心は当然ノーと訴えている。不満のドラムが心臓と同じタイミングで俺を叩いている。

 なのに俺は朝日向を見限れないでいる。

 普段ならば、所詮この程度の女かと三下り半を突きつけてけているところなのに。

 それができないでいる。

 何故か擁護までしてしまう。


「あれくらい何だ。みんなやってることだろ」


 だが許せない自分もやっぱり確固として居る。


「何が聖女だ。あれじゃ売春婦じゃあないか」


 長らく天使と悪魔が俺の中で戦っている。

 三つ又の矛やら火のついた矢やら物騒な武器が飛び交って鎬を削っている。

 銘々は理想と現実の権化だ。彼らはどちらを追い求めるかをかけて拮抗していた。

 論理的にはとっくに結論は決まっている。

 よし、こう言おう。

 好きだったけどお前にはがっかりした。誰にでも太ももを見せるなんてありえないぞ。一緒にいるとこっちまで汚れるから二度と話しかけてくるんじゃない。

 選ばれし者だと思ったのに。

 俺の気持ちを裏切ったお前とは絶交だ!


「影山君、いまちょっといい」

「うわっ」


 親の声より聴いた声がして振り返る。

 廊下の隅であれこれ呟いていた俺の背後に朝日向が立っていた。


「どうしたのそんなに驚いて。いま話しかけたらダメだったかな」

「全然。嬉しいよ。うん」


 微笑む彼女を前にすると必死になって積み上げた論理は瞬く間に崩れ去っていた。

 虚を突かれてこちらが動揺していると、彼女は腰のあたりで手を組んで犬のように上目遣いになる。

 恐ろしいことに好きになると些細な仕草ひとつでも可愛く見えてしまう。


「んと、何かあった?」


 思考能力が正常に戻る前に予期せぬ発言があったので質問の意図が分からなかった。


「何かって、何が?」

「今日は元気ないから」

「そうかな」

「梨華もみんなもそう言ってる」

「みんながそう言うならそうなんだろうな」

「何か嫌なことでもあった」


 純粋な瞳で屈託のなく尋ねてくる朝日向に、俺は恨めしく思ってしまう。

 あるよ。あったよ。

 お前が他の男と話したり軽薄なことをするからずっと最悪なんだ。


「別に。何もないよ」


 ありがちな微苦笑と、テンプレートみたいな返事が口をついた。

 他人に本音など話していいわけがない。

 気軽に胸の内を漏らせば裏で何を言われるかわかったものじゃない。キモイとか何とか。その場では普通に接していたのに内心ではとんでもないことを思っていて周りに言いふらす。これはその防衛のための標準装備で、それは彼女に対してもしっかり作動していた。


「あのね、今日、ふたりきりで話せる?」


 見ると、眼鏡の奥で眉が八の字になっていた。そのままじっと俺を見つめてくる。

 人の言うことをすぐ鵜呑みにする彼女が、こともあろうに俺の偽装を見破ったとでもいうのか。

 俺を疑っているのか。

 聖女が人を疑うなんてまったく度し難いことだ。


「ふたりで話してると思うけど」

「話してないよ」

「えっ」

「しゃべってるだけ」

「それってどう違うんだ」

「一方通行か、双方向か、かな」


 個人的に解釈するに、こんな耳目の多い場所でするのは会話とは呼べないと言いたいということなのだろう。

 いや違う。そんなんじゃない。彼女は俺の脆弱になったバリアのほつれに気づいたのだ。

 そしてそれを突破してこようとしている。

 俺が隙を見せたから。


「よくわかんないけど、朝日向のほうから誘われるなんて思わなかった」


 無駄口を叩きながら、並行してどうすべきか逡巡していた。

 朝日向は彼女審査に合格した。一度は告白しようとも思った。

 だがいまはその審査結果が誤りだったかも知れないと疑い始めている。その不審な相手の誘いに乗るのはどうなのだろう。

 これはいわばハニートラップというやつなのではないのか。

 詐欺師でいえば完落ち寸前の相手に対するダメ押しの一手。

 そうだ。密室で俺を手玉にとるつもりなのかも知れない。

 それでは厳正な判断はできない。

 麻薬をやった状態で恋人なんて選べるわけがない。


『自分の好感度を上げるためにお前を利用してる』


 鬼塚の吹く警笛が脳内で反響する。


「この前は影山君がいっぱい話しかけてくれたから、今度は私が勇気を出してみた」


 吸い込んだ空気はやんわりと断る言葉に変換される予定だった。

 だけれど、吐き出したときにはまったく別の物にすり替わっていた。


「わかった。今日は一緒に帰ろう」


 天使か悪魔は囁く。

 やめろこれは罠だと。

 でも俺はこう思う。

 罠でもいい! 

 罠でもいいんだ!

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