第二章 天使か悪魔

第11話

 生きていると嫌なことがたくさんある。

 生きているだけで嫌な思いをたくさんしてしまう。

 たくさんあった嫌ことは記憶に深く刻み込まれ、夢に出てきたり、時に奇声を生んだり、ふとしたときに蘇ってくる。


「うちのママが勉君と遊ぶなって言ってた」


 子供ながら何てひどいことを言う親なのだろうと衝撃を受けた。同時に、それを取りも直さずそのまま伝えてくる友達に理解が追いつかなかった。

 片親だったからか。

 寂れた団地に住んでいたからか。

 貧乏そうに見えたからか。

 いずれにしろ、こいつもこいつの親も糞だってことはよくわかった。

 俺はあのときなんて返したっんだっけ。


「僕のお母さんも〇〇君と遊んだら駄目だって言ってたよ」


 馬鹿か俺は。

――そんなんで帳消しにできるかよ。

 無性に怒りが込み上げたとき、俺は目覚ましの音とともに目を覚ました。

 アラームをオフにして沈んでいる髪をかき上げる。

 それから毒を吐き出すように長い息を吹き出す。

 最悪な夢を見たときはいつも朝から頭が冴えている。これから自分がどう生きていくべきか指針がはっきり定まっている感じだ。コンバスは今日も他者は敵だと示している。

 でも少しだけそれが震えるように揺らいでいる気がした。


「よし、今日も油断大敵といこう」


 鼓舞するように声を出して、まずリビングへ向かう。

 夫と離婚して以降、母を仕事一筋に専念させているので朝はいつも誰もいない。妹と弟もぎりぎりまで寝ているのでひどく静かだ。こうして独壇場となったキッチンで三人分の朝食を作り、ふたり分の弁当を作る。これが俺の日課だ。

 苦だと思ったことはない。血の繋がった家族に捧げる努力が無駄になることはないとわかっているからだ。

 ハムと目玉焼きとツナの甘辛炒め、という手間のかからないメニューを完成させて、テレビを見ながら一息つく。


『さて今日の特ダネ芸能ニュースです。今日の一発目は、司会者として大人気の大河大吾さんの不同意性交等罪疑惑についての続報です。昨夜未明、所属事務所から本件についての記者会見が本人同席の元、今日の夕方ごろに行うとの発表がありました。この件について本人は同意の元で関係を持ったと証言していますが、世論の反応は真っ二つに分かれています。被害者は涙ながら訴えているのだから相当な苦痛があったことは明白で大河さんを芸能界追放しろとの声もありますし、一方でこの手の訴えは言ったもん勝ちだという意見もあり――』


 朝から辛気臭いニュースがやっていたのでチャンネルを変えてから凪と紡を起こしに行き、揃って朝ご飯を食べた。。

 それから徐々に緩み切った他人への警戒を強めながら歯を磨き、他人への警戒を強めながら身だしなみを整え、他人への警戒を強めながら家を出る。

 もちろん施錠を三回くらいガチャガチャ鳴らしながら確かめて。


「ふたりとも気をつけてな。何かあったらすぐ電話するんだぞ」


 おまじないみたいに決まったセリフをかけて、ふたりを見送る。


「何もねーよ。戦時中じゃあるまいし」


 ツンデレのなぎからは恒例の塩対応が返ってきた。


「お兄ちゃんもね」


 つむぎの方からは愛らしい思いやりを頂いたが、万事問題ない。


「お兄ちゃんなら大丈夫だ」


 絶対の自信を表明し、俺はバリア全開で高校へ向かう。学力とは関係なく家からもっとも近い高校を選んだので徒歩通学だ。凪は自電車通学で、紡は集団登校だから背後から襲われる心配は少ない。

 俺は例にもよって後ろを定期的に振り返りながら、最終的に親愛高等学校の教室についた。途中、俺の学生手帳とバッグを狙っていそうな輩がいたがどれも勘違いだったようだ。

 そして目につくクラスメイトに片っ端から挨拶していく。

 こちらは敵ではないので攻撃してこなくていいですよ、と余分なコストをかけて宣伝していく。


「うっす、高柳おはよう。山崎おっは。まだ眠そうだな、また夜更かしかー。山本ちっす。寝ぐせひどいぞ、トイレの鏡で直して来いよ」


 伝統芸のような流れ作業がある人物を認めてやや停滞する。停滞したとわかるのは体感時間を知る俺だけだ。

 すぐ口角を軽く上げてこれまでのように挨拶をする。


朝日向あさひなたおはよう」

「あ、おはよう影山君」


 会釈までしてくれたから眼鏡が下にずれて三つ編みが軽く揺れる。

 それだけ。続く言葉はない。

 俺も昨日と変わらず前の席の友達とくだらない談笑をしながら、朝日向の笑顔をそっと眺める。

 何事も、何事もなかったかのようだ。

 昨夜あんなことがあったというのに。

 俺は泣きそうになりながら昨夜の会話を思い出す。

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