第6話

 72時間ごとに訪れる面倒なロック解除のタイミングに立ち会うべく、俺はそれから毎日、朝日向の一挙手一投足を監視した。

 カーテンの傍で談笑する彼女。荷物を持ってあげる彼女。男と嬉しそうに話す彼女。ひとりきりの彼女。

 戦慄したのは、彼女の中に嫌いになる要素を探そうとすればするほど、好きになる要素が増えていったことだ。

 話しかけられたら誰に対しても笑顔で対応する。

 頼まれたら強い口実がない限り断らない。

 悪口に参加しない。

 舌打ちをしない。

 眉間に皺が寄らない。

 機嫌が乱高下しない。

 怒らない。キレない。

 決して人のせいにしない。

 あってしかるべき人の悪しき部分が周りに見られていないところでも発生しない。廊下の端でも。階段の踊り場でも。図書室でも。ひとりになった帰り道でも。道草でふらっと入ったコンビニの本売り場でも。

 どれも俺の知る他人とは違う。怖いくらい非の打ち所がない。

 困ったことに嫌いになろうとするほど好きになっていくシステムが構築されつつある。

 だが、それでも信用しきれないのがこの俺だ。SNSでどんな言動を取っているかまで、しかと確認しなければ心から安心はできない。

 俺にとって人を好きになるというのはそれだけすごく大変なことなのだ。

 ディスプレイの指紋についてのアイディアは、たまたま友達のスマホを一瞥したことがあったから捻り出せた。

 ある日、ブラックアウトした友達の画面には特定の箇所だけ指紋が強く滲んでいた。光の加減でこんなに指紋が浮かび上がるものなのかというのも意外だったが、指紋だけでもわかることがあるのだとそのとき新たな発見があった。


「それ何の指紋?」

「どれ?」

「下半分だけたくさんついてる」

「ああこれっ。はは。パズドラだよ。ほらよくパズル動かすから。いま好きなコラボ来てて始めたんだわ」


 バズドラとはソシャゲでも有数の人気ゲームだ。確かにジャンルはパズルゲームで、自由に動かせる丸い形のパズルは画面下に固定されていたと記憶していた。

 その変哲のないエピソードがよもやこんなところで役に立つとは、まさしく持つべきものは友人である。

 監視とは別に、念には念をとばかりに俺も工作している。第一、パスワードを入力する瞬間に立ち会わなければならないので、定期的に話をしている。

 おかげで好感度貯金は目減りしていたが、幸い他の女子にも読書感想文を頼まれていたようなので接近のチャンスは多分にあった。


「今日もやってるのか?」


 放課後、いつものように図書室に寄ると、いつもの如く朝日向が真剣にペンを走らせていた。本を読んで、下書きを書いて、あとでそれを本人に清書してもらうという流れらしい。

 まったく物好きな。まあそういうところもいいんだけど。


「影山君。また様子を見に来てくれたの?」


 すぐさま相好を崩してニコニコしながら彼女は相手をしてくれる。他人のための切り替えが早い。


「見に来てくれたのって何だ?」

「心配性みたいだから。私が無理しすぎないか見に来てくれたんじゃないのかなぁって」

「まあそんなところかな。ここのところよく遅くまでいるから」

「読書感想文また頼まれちゃって。あと宿題も」

「また増えたのか?」


 女友達曰く、「彼女ちょっと天然入っているから」と評していたが、ちょっとどころではない。

 いや、猫をかぶって悲劇のヒロインに酔っている可能性もなくはない。

 この女狐に油断するな俺。ガードを高く上げろ。何をニヨニヨしてる。


「他の子がおじいちゃんかおばあちゃんが危篤らしくて」

「おじいちゃんかおばあちゃんかどっちだよ」

「深く聞いたら失礼だから聞かないよそんなこと」

「危篤ってことはまだ生きてるんだろ。宿題くらいなら自分でやればいい。危篤って言っても峠を越えて元気になるかもだし」

「気持ちが落ち着かなかったら何も手につかないじゃない」

「おうけー。わかった。もう何も言わない」


 俺が途中で降参すると、彼女は再び誰が為にノートに向き合う。

 その隙に俺は死角に置いてある彼女のスマホの画面を、専用のウエットティッシュ(ダイソー製品)でさっと拭う。休憩がてらに起動するので作業中は常に置きっぱなしなのだ。

 俺はを拭ってただ『そのとき』を待つ。

 いつの間にか画面が綺麗になっていても朝日向は十中八九、気づかない。

 人を疑うことを知らないから細かいことにも頓着しないのだ。

 仮に俺だったら一発で気づく。日頃と何か僅かでも異なれば。まず誰かから攻撃されている可能性を考慮する。新手のスタンド使いの能力かもとか。しかし彼女に限ってそれは一切ない。

 たとえば、あくびしているところに指を差し出したなら、間違いなくぱくっと咥えてしまうはずだ。ありありとイメージできる。

 まさに油断の権化。警戒の権化である俺とは大違いである。

 だから小癪な工作はこれだけに留まらない。


「はい、差し入れ」

「またわざわざ買ってきてくれたの? ありがとう」


 俺がビニール袋から取り出したのは校外のコンビニまで買いに走った、ファミチキだ。そう、メインは油もの。しかもうっすらと包装紙に油を移してある。

 ホコリひとつないスマホと、毎度くれる肉と、俺の動機が彼女の中で結びつくことは永遠にない。その点だけは絶大の信頼を置いている。


「最近帰るの遅いから小腹すいてるのはわかってる。ちょっとスマホでも見て息抜きしたらどうだ?」

「うん、そうしよっかな」


 額面通りに受け取り朝日向は微笑む。続いて瞳を閉じて大きく伸びをした。

 瞬間、俺は膝から崩れそうになる。

 巨乳だったのだ。

 まさかの、隠れ巨乳。


(着痩せするタイプだと!?)


 突き出した胸がいまにも光線を出しそうに大きく尖っていた。

 だぼっとした制服と長いスカートを穿いているため完全に盲点だった。

 いったいどこまで高得点を叩き出せば気が済むんだこいつは。

 故に、上げて上げて落とされることの恐怖が満ち満ちていく。

 もういっそ私は悪女ですと白状してくれ。

 もう俺にこれ以上は期待させないでくれ。

 いまならどうせこんなもんさと許してやるから。

 だが眼前に座る彼女は、ファミチキを美味しそうに頬張っている無邪気な女子高生にしか映らない。

 まるで頬にどんぐりを詰め込んだリスみたいに可愛い。


「朝日向、これはひょっとして悪い夢か。それとも」

「ん。にゃにか言った?」


 その先の言葉が出てこない。

 文字通り目が点になる朝日向。

 おかしな空気になりかけたそのとき、スマホが通知音を立てた。軽快なライン特有の音だ。

 不思議そうな顔をしながら、そのまま朝日向はスマホを掴み、一瞬だけ停滞したあと、指で画面を四回タップした。

 俺ははっとする。


(四回! パスワードは四桁! 指を叩いた位置は――) 


 俺が瞠目していると、俺に気を使ってすぐ彼女はスマホを伏せた。

 こんな気遣いができる女の子が現代に存在したとは。いまどきみんな恋人と話していたってスマホに釘付けなのが普通だ。そして俺は俺よりスマホを優先する他人に絶望してきた。なのに彼女はいま俺を優先した。

 いけないと思いつつも、評価点がまたぐんと上がる。


「ねえ、何か言おうとした?」

「いや、トイレしたいんじゃないかなぁと思って」

「あー、確かにそうかも」


 朝日向が顎に指を当てて天井を見る。

 そんなことあるかな。


「だろ?」

「影山君、本当に心配性だね。心配しなくてもここでお漏らしはしまーせん」

「そんな心配してない。馬鹿言ってないでさっさと済ましてこいよ。まだもう少しいるんだろ」

「うん、そうだね」

「ここは俺が見張っておくから別に急がなくていい」

「そんな心配してません」


 おかしそうに笑って、朝日向は一度も振り返ることなく図書室からまっすぐ出て行った。

 微塵も俺を疑っていない。

 俺はというと、一度室外に出てから彼女が廊下の奥に消えるのを確認して、全速力で踵を返し彼女のスマホをビーチフラッグみたいにひっつかむ。慌てすぎて机から転がり落ちたが、どうでもいい。

 全ての条件が整った。

 俺は確実に見ていた。指の動きと、残った油まみれの指紋を。それが見事に一致する。

 このパスワードの先で彼女の本性が俺を待っている。

 鬼が出るか蛇が出るか。

 俺が恐る恐る押した四桁の番号とは――


「一、二、三、四」


 その先で俺は、初めて彼女に触れられたような気がした。

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