第一章 聖女と検定

第一話

 挨拶は生活の基本だ。処世術と言っていい。

 おはよう。こんにちは。こんばんは。

 これらをジャブのように定期的に打っておくと、あとからじわじわと遅効性の良薬のように効いてくる。

 つまり人畜無害だと相手に安心させることができる。

 安心とはつまり油断だ。そこから生まれ出ずるメリットは計り知れない。挨拶するくらいでそれが手に入るなら、こんなにコスパのいいことはない。

 仮に犯罪を犯したとしても、近所の人がインタビューを受けたときに、「毎朝元気よく挨拶してくれるいい人でしたよ。まさかそんなことするような人にはとても思えませんでした」と言ってもらえるはずである。

 反対に不安にさせてしまうと互いに緊張を生む。間に摩擦が生じる。嫉妬されたり、監視されたり、下手すると敵意を向けられて攻撃までされる。

 だから俺は毎朝、挨拶をかかせない。


朝日向あさひなた、おはよう」


 あと名前か苗字を付け加えておくと、なおよし。

 するとこっちが相手をはっきり認識している友好的な存在であるとアピールすることが出来るし、相手もこっちをはっきり認識してくれる。


「あ、おはよう影山君」


 こんなふうに。

 彼女は清楚な三つ編みを揺らし軽く目を細める。

 俺は朝日向ひまりに軽く会釈をしてから自分の席につく。遅れて彼女も離れたところで席に着く。

 僅かながら心臓は高鳴ったが、ただそれだけだ。続く会話はないし、ゲームのようにイベントが発生して選択肢が出てくるわけでもない。

 だがそれでいい。それが日常というものだ。

 誰も傷つけないし、誰も傷つかない。ここは優しい世界だ。

 この場にいるみんなは高校生で、ここは高校の教室で、至って平和である。

 そして、俺は善良で平均的な人間だ。

 決してカースト上位にいそうな陽キャではないし、フィクションに出てきそうな露骨な陰キャでもない。あるいは何かに特化した隠れハッカーみたいなオタクキャラでもない。

 席は後ろの窓際じゃないし、誰か特定の人に異常に好かれていたり、行く先々で殺人事件が起こったりも全然しない。

 無論、異世界に転生したりもしない。

 そう、どこからどう見ても俺はどこにでもいる男子高校生だ。そこそこ善良で平均的。優秀でもなければ悪目立ちもしない。

 そのように、今日も努力して生きている。


「影山、おっは」

「おっは、鬼塚おにづか


 友達の鬼塚が通り過ぎざまに声をかけてきたので、俺も明るくオウム返しする。

 今度はせわしなくやってきた高木が好きなアニメの話をしてきたので、無難に合わせる。田舎のせいで少し遅れてネットフリックスで最新話を視聴しているようだ。前に金銭的な問題でプライムビデオに寝返りたいとかこぼしていたが、いまのところ続報はない。


「今回の演出は神だったわ」

「先週もそう言ってなかったか?」

「それは作画。戦闘シーン。ぬるぬるして神だったんだよ」

「高木の世界には神がたくさんいるんだな」

「神様ならいくらいたって困らないだろ。こんなんなんぼあってもいいですからねって」

「まあ確かに。八百万の神がいるんだから少し増えてもわかんねーか」

「ああ、ジャンプのアニメ化は全て神だ」


 符丁を合わせるようにふたりして笑う。

 俺の善良のオーラは、今日もシールドのように俺を守ってくれている。

 近くとも、それ以上は踏み込まないように。それ以上は踏み込ませないように。

 どれだけ親しくなろうと、この壁が消えることはない。

 親しいが親しいだけだ。

 他人の延長線上は所詮、他人だ。

 その先で心の扉は開かれない。

 そのシャボン玉のように薄く、かつ防火扉のように堅固な壁に、みんなが気づいているかどうかは知らない。

 少なくとも俺は自覚している。なんなら領域を拡大させて、意図的に話しかけづらい雰囲気を出すことだって自在に可能だ。

 それくらい俺の心には障壁が作られている。

 どうしてこんなふうになってしまったのか、最初の原因を遡れば、ひとつだけはっきり思い当たることがある。

 友達が陰口を言っているのを偶然聞いてしまったことだ。

 あれは確か、何かの冗談でいつものように軽くふざけたことを言った、ごく普通の日だったと思う。

 複数人で遊んでいたときだ。小学生低学年のときだから冗談の内容までは思い出せない。

 とにかく近所に住んでいる友達で集まってよく遊んでいたから、みんな幼馴染みと言っていいくらい仲がよかった。

 そのあと家の方角が違う俺だけが分かれ道で離れることになった。たぶん赤い夕日だった。

 でもふと、もっとみんなと一緒にいたくなって急いで来た道を引き返した。

 俺が戻ったらみんなどんな反応をするだろうと笑顔で走った。

 ところが追いついたそのときはっきり聞こえたんだ。


「あいつ最低だよなー」

「あれはないよな」


 俺は一瞬で自分のことを言っているのだと本能的に悟った。

 友達は俺に気づいてぎょっとしていたが、たぶん聞かれていないはずだといつものように接してきた。

 俺もまた何事もなかったようにみんなと接した。

 ショックなことを顔に出したら、何かが壊れるような気がした。

 軽い冗談を言っただけなのに、俺は俺のいないところで、よってたかって悪口を言われていた。

 ついさっきまで仲良くしていた相手に。

 ついさっきまで仲良くしていたのに。

 友達には自分の見ていないところでは違う顔があった。

 仲がいいと思っていたのに違った。

 何だそれくらい。繊細すぎる。そう言ってしまえばそれまでだろう。

 自分でも頭の冷静な部分ではそれくらいで、と思ってる。

 しかしこの出来事が多感な時期の子供にどんな影響を与えたかは言うまでもない。

 人の見た目は当てにならない。

 心証なんてもっと当てにならない。

 口では何と言っていても腹の中では何を考えているかわかったものじゃない。

 頭をかち割って、腹を掻っ捌いて、中を覗きこまなきゃ信頼できるかどうかなんて絶対にわかりっこない。

 こんな人間不信がかれこれ長くずっと俺の根底にあって、いまの善良で平均的で無難な人間性を形作っている。

 ある作品で書かれていたが、誰にでも優しいというのは誰にも優しくないと同義なのだ。

 俺は誰に対しても心を開いているが、誰に対しても心を開ききることはない。

 仲良くなっても心から信用していない。

 友達はたくさんいるけど親友と呼べる相手はひとりもいない。

 他人をあまり好きにならない。

 異性を好きになっても告白しない。

 というか付き合おうとも思わない。

 だって裏切られて失望したり傷つくは嫌だから。

 おかげで童貞で恋人もいやしない。

 うっかり女子を好きになってしまったときは、必死にあら捜しをして、「ほらやっぱりこいつはこういう奴だったわビッチ乙」と切り捨てて終わらせる。

 強制的に恋を終わらせる。

 それが無理な場合は、ただひたすら観測者として幸せを願うしかない。

 それが傷つかないための、裏切られないための、鉄則。

 最善の愛する人との付き合い方。

 いや、人間にとって最善とは誰も愛さないことだ。

 そもそも好きにならなければ嫌いになることもないし、傷つくこともないんだ。

 そんな俺が――再びを恋をしそうになっていた。

 彼女はクラスのマドンナ的な立ち位置にいなければ、クラスで二番目に可愛いと称されるほどのルックスもしていない。よくて五番目。

 いまどき珍しい三つ編みで、銀縁眼鏡をかけていて、なのに決して地味だったり暗かったりもしない。

 悪口や陰口を言っているところを一度も見たことがない。

 クラスカーストの下層にいるうだつの上がらない連中にも普通に接する。

 モテるタイプではないから仮に付き合ったとしても浮気される心配もない。

 何というか、何もかもがちょうどいい。

 もしもこういうのでいいんだよおじさんが実在するなら、「こういうのでいいんだよ!」といつになく強く言ったはずの女子生徒だ。

 俺にとっての完璧な女の子。

 眺めているだけで臆病な俺を安心させてくれる。

 他人も捨てたもんじゃないよという気持ちにさせてくれる。

 こんな気持ちになるのは一体いつぶりだろうか。

 もしかすると彼女は、俺が恋をするに値するだけの聖女かも知れない。


「え、それほんとにー?」


 鬼塚と談笑を続けながら視線を斜めに動かすと、その先で朝日向も女友達と楽しそうに笑っていた。

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