第8章 – 駆り立てるプレッシャー

銃声が鼓膜を打ちつけ、息苦しいほど狭く感じられる部屋の隅々に反響した。その鋭い音は、時間が無限に引き延ばされたかのような錯覚を生み出し、まるで世界そのものが一瞬止まったかのような感覚に囚われた。


キアランの体が咄嗟に私の上に覆いかぶさり、完全に庇っていた。彼の息遣いがすぐ近くで感じられる。その呼吸は速いものの、規則的で、どこか冷静さすら漂わせていた。緊迫した状況下での訓練が、彼の中に生きているのだろう。だが、この静寂もほんの一瞬で終わりを告げた。


互いの無事を確認する余裕すらなく、私は彼の腕の中から抜け出し、すぐに体勢を立て直した。倒れ込んだ拍子に絡まった腕と足をほどき、短い無言の視線を交わす。そこには言葉を交わす必要もない信頼があった。意識を瞬時に扉の方へ戻すと、私は銃をしっかりと握り直した。


「誰だ?姿を見せろ!」

私の声が鋭く響く。その瞬間、部屋の奥からゆっくりと一人の男が姿を現した。まるで自ら舞台に立つ役者のように堂々とした態度で、だがどこか異様な風貌だった。分厚いジャケットに深く被った帽子、顔を覆う黒いマスク、そして――夜中にサングラス?


思わず呟いてしまった。「夜にサングラス……?意味わかんない。」

キアランが横目で私を見る。その視線には少しだけ笑みが浮かんでいるのがわかった。「リア、今はファッション評論の時間じゃない。」

「……わかってるってば。」私は軽く息を吐き、苛立ちを振り払おうとしたが、次の瞬間、その男が再び銃を構えた。


今度は完全に備えていた。私はその一挙手一投足を注視し、細かな動きのすべてを頭に叩き込む。

男が引き金に指をかけた瞬間、私は叫んだ。「キアラン、弾を弾いて!3時方向、下7度!」

彼は即座に両手のナイフを引き抜き、まるで光を切り裂くような正確な動きで弾丸を弾き飛ばした。金属が擦れる鋭い音が響き、弾丸は虚しく床に転がる。私自身もその光景に一瞬目を見張ったが、それ以上に驚愕していたのは敵の方だった。


「な、なんだお前ら……化け物か?」男の震えた声が部屋に響く。

キアランが冷たく笑った。「逃げるか、降伏するか。選べ。」


しかし男は選ばなかった。決死の表情で再び銃を構え直し、無謀な挑戦を試みようとする。その瞬間、キアランは狙いを定め、ナイフを投げた。それは寸分の狂いもなく男の手に当たり、銃が音を立てて床に落ちた。


男は怯えた表情を浮かべながら、よろめくように廊下へ逃げ出した。

「止まれ!」キアランが叫び、すぐに彼の後を追う。

私は急いで立ち上がり、心臓の鼓動が激しく高鳴る中で叫んだ。「キアラン、絶対に逃がさないで!」


廊下は狭く、ちらつく薄暗い照明が不気味に揺れていた。その中でキアランの足音がどんどん遠ざかっていくのを聞きながら、私は歯を食いしばり、全力で彼を追いかけた。


上の階で軋む音が聞こえ、キアランの声が響く。「リア!あいつ、屋上に向かってる!」

非常階段を見つけた私は叫び返した。「すぐ後ろよ!捕まえる準備して!」


冷たいコンクリートの階段を二段飛ばしで駆け上がり、靴音が硬い音を立てて響く中、私は一心不乱に上を目指した。ここで仕留めなければならない――その思いだけが私を突き動かしていた。


突如、通信機からノイズ混じりの音が鳴り響いた。断片的に聞こえる声――レオン署長だ。しかし、雑音が邪魔をして、言葉は途切れ途切れだった。

「……リア……キアラン……証拠を集めて……本部へ……」


通信機を耳に押し当て、必死に聞き取ろうとする。だが、近づければ近づけるほど、ノイズが酷くなる。この異常な状況で通信が不安定になるのはおかしい。もしかして、信号妨害……?


「レオン署長!」焦りが声に滲む。「銃撃を受けています!武装した容疑者を廊下で追跡中です!」

しかし、返答はなかった。ただノイズが続くだけだ。

「……何だってんだよ!?」思わず苛立ちが口をついて出た。


深呼吸して、もう一度通信を試みる。「アパートに見知らぬ男が現れ、銃を構えてきました!キアランがその男を武装解除しましたが、今追跡しています!」

だが、応えるのは相変わらずノイズのみ。完全に回線が切れている。


「こういう時に限って……」苦々しく呟きながら、通信機を握りしめる。しかし、苛立ちに時間を割いている暇はない。署長なら、こちらの状況を察してくれるはずだ。

今は、前へ進むだけ。


キアランの足跡を追いながら建物の最上階へ到着した。目の前には、屋上への扉が少しだけ開いている。風に揺れるその隙間が、容疑者の行き先を示していた。

キアランと視線を交わす。言葉は要らない。互いの意図が一瞬で伝わる。


屋上に出ると、広い空間と冷たい夜風が私たちを迎えた。目の前には、追跡していた男が屋上の端に立っている。足元が不安定で、視線は逃げ道を探しているようだった。しかし、この高さから降りる方法はただ一つ――下に戻る以外にはない。


「動くな!」私の声が夜空に響く。銃を構え、男を睨みつける。


男はゆっくりと振り返った。その顔は奇妙なマスクとサングラスに覆われ、どこか不気味な威圧感が漂っていた。暗いレンズの奥に、何か計算をしているような視線を感じる。


「まだ降参する気はないみたいだな。」キアランが低く呟く。その目は男を鋭く見据え、逃がす気がないことを物語っていた。


「逃げようとしたらどうする?」私はそっと囁いた。

「逃げるなら、脚を撃てばいい。」キアランの声は冷静そのものだ。

「了解。」私は息を整え、銃の狙いを定め直す。


「じゃあ、飛び降りたら?」冗談半分に尋ねると、キアランは乾いた笑みを浮かべた。「そしたら重力に任せるしかないな。」

思わず笑いそうになる。「……本当にもう。まあ、確かにそうだけど。」


その瞬間、男が低く笑った。マスク越しでも分かる落ち着き――いや、不気味な余裕。

「いいじゃん、それ。」

「何を企んでいる?」キアランが警戒を込めて呟く。


次の瞬間、男の体がピクリと痙攣した。心臓が一瞬凍りつく。

「何……何が起きてるの?」私は思わず声を漏らした。


だが、考える暇もなく、男が突然動き出した。屋上の端へ向かって全速力で駆け出す。

「止まれ!飛び降りるな!」叫び声が響く。


二人で同時に発砲する。脚を狙った弾丸が夜空を切り裂くが、男は人間離れしたスピードで躱し、そのまま屋上の端を飛び越えた。


「……嘘だろ。本当に飛び降りたのか?」キアランの声には、驚きと苛立ちが混じっていた。


私たちは屋上の端まで駆け寄り、男が降下していく光景を目の当たりにして息を呑んだ。彼は壁を蹴って勢いをつけると、狭い隙間を迷いなく跳び越え、まるで熟練したフリークライマーのような正確さで別の建物へ飛び移った。その途中、張り巡らされた物干しロープを掴んで体勢を整えながら、一気に地上へと降りていく。


わずか数秒の出来事だった。男は地面に着地すると、驚くほど冷静な様子で立ち上がった。傷一つ負っていない。

「なっ!?」私は思わず声を上げた。その光景に完全に圧倒されていた。隣にいたキアランも言葉を失い、呆然と立ち尽くしている。これまでこんな身のこなしを見たのは、副署長エリスやカイ指揮官、大佐リス、あるいはロリアンくらいだ。

一体、この男は何者なんだ?どうやってあんなことができるんだ?


「急いで下に降りて、あいつを止めなきゃ!」私は階段の方へ向かおうとした。

しかし、キアランが私の腕を軽く掴み、動きを止めた。彼の視線は下の男に釘付けになっていた。つい先ほどまで俊敏で冷静だった男が、今は地面に立ち尽くし、両手で頭を抱えて苦悶の表情を浮かべている。


「リア、待て。」キアランが静かに言った。その声には不思議な説得力があった。

「待てって…キアラン、こんなときに何を――」私は言い返そうとしたが、彼の真剣な目に言葉を失った。


数秒が過ぎた。キアランはわずかに頷くと、何かを決意したようだった。「俺にもできる。」彼が小さく呟いた。

「まさか……冗談でしょ?」私は呆れたように彼を見つめたが、彼は後ろへ一歩下がり、体勢を整え始める。


「大丈夫、信じてくれ。」キアランは自信に満ちた笑みを浮かべると、次の瞬間――七階建ての高さから男を追うように飛び降りた。

「キアラン、正気なの!?」私は叫んだが、声は虚しく響くだけだった。


彼の動きは完璧だった。男と同じ足場、同じロープを巧みに利用し、衝撃を見事に和らげながら、ほとんど無傷で地面へと降り立った。

「よう!」キアランは肩の力を抜いたような口調で男に声をかけた。その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。「まだ終わりじゃないぜ。」


男は驚愕と恐怖が入り混じった目でキアランを見つめながら、小さく呟いた。「お前……化け物か……」

「はあっ!?」私は屋上から声を張り上げた。驚きと信じられない気持ちが入り混じり、息を整えながら目の前で起きたことを理解しようとする。


「キアラン!」私は叫んだ。その声には怒りと賞賛が交じっていた。「どうやってそんなことを……?」

キアランは軽く手を振りながら笑った。「後で説明するよ、リア。」彼の視線はすでに薄暗い路地に潜む男に向けられていた。


「聞け!」キアランの声が冷静だが鋭く響く。「今が最後のチャンスだ。降伏しろ。さもないと撃つ!」

だが、男は恐れるどころか、マスク越しにうっすら嘲笑を浮かべていた。その目には静かな反抗の意思が宿り、降伏する気など微塵もないことを示していた。


キアランは迷うことなくピストルを抜き、必要なら威嚇射撃を放つ準備をした。だが男が先に動いた。その動きは一瞬だった。影のようにその場から消え去り、残ったのはかすかな残像だけだった。

「なんて速さだ……」キアランは素早く銃をホルスターにしまい、全力で追いかけ始めた。この男を止めるには力で押さえるしかない。しかし、どうしても生け捕りにする必要があった。


「リア!」キアランは走りながら歯を食いしばって叫んだ。「上から追跡してくれ!見失ったら案内しろ!」

私は即座に位置を取り直し、上から追跡を開始した。「了解、キアラン!目を離さないでおく!」


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地上で繰り広げられる光景は、命を懸けた死の舞踏そのものだった。

一つ一つの動きが精密で無駄がない。男は超人的な敏捷性を見せ、ゴミの山を軽々と飛び越え、大きなコンテナを押してキアランの進路を塞ごうとする。だが、キアランも決して負けてはいない。障害物をまるでゲームの駒を避けるようにかわし、追跡のペースを一切落とさなかった。


「右だ!右に行って!」私は通信機越しに叫んだ。「奴はこの先の狭い路地に向かってる!」

雑音の混じる無線越しでも、私の声が必死に響く。わずかな途切れをもどかしく感じつつ、何とか正確に伝えようとした。

「キアラン!前方数メートルにフェンスがある!それを飛び越えて、左の道へ進め!」

「了解!」彼の返事は荒い息に混じりながらも力強かった。キアランはフェンスに接近すると、鋭い助走から一気に飛び越え、ほぼ音も立てずに滑らかに着地する。勢いを殺さず、そのまま追跡を続けた。


路地裏を駆け抜ける追跡劇は、迷路のように入り組んだ道をジグザグに進む。暗闇に包まれた通り。男は明らかにこの地形に詳しい。キアランが追いつきそうになるたび、急な角を曲がり、すぐ先でまた姿を現す。

「もう、いい加減にしてよ……」私は屋上から下を見下ろしながら、思わず呟いた。だが次の瞬間、ふとある考えが閃いた。

「キアラン、次の分岐を右に曲がれ!奴の進路を塞げるはずだ!」

無線の先から返事はないが、彼が指示を受け入れたのはすぐに分かった。キアランは一瞬で姿を消し、狭い側道へ消えた。


男は背後を振り返り、追跡者が見えなくなったことに気づく。その歩みが少し緩み、辺りを見回す余裕さえ浮かべた。その顔には、ついに振り切ったという自信の色が伺えた。

「自分が安全だと思ってるの?」私は低く呟いた。期待に胸が高鳴り、息を殺してその場面を見守る。上から見下ろす私の視線に気づくはずもなく、男は呼吸を整えるために完全に足を止めた。油断しきったその姿に、私の口元が僅かに引き締まる。


その瞬間だった。

嵐のように、キアランが側道から飛び出した。彼の全力疾走の勢いは凄まじく、強烈なタックルを放った。それはプロレスの「スピア」さながらの迫力だった。

「ぐはっ!」男は地面に叩きつけられ、衝撃で体が転がる。一方、キアランは勢いで路面を滑りながらも瞬時に起き上がり、間合いを取った。


彼は浅い呼吸を整えながら数歩後退し、倒れた男を銃でしっかりと狙ったまま静止する。男は呻き声を上げながらよろめき、起き上がろうとする。だが、その瞬間、銃声が響いた。

銃弾は男のすぐ横の地面を撃ち抜いた。

「動くな!」キアランの声は鋭く、無駄のない冷たさを帯びていた。「今のは警告だ。次は外さない。」

彼の手は微動だにせず、銃口の先は男を正確に捉えている。その姿はまるで鋭い刃のようだ。


男は完全に動きを止めた。その顔には焦りの色がはっきりと浮かんでいる。周囲を見回しながら最後の抵抗の手段を探すように目を泳がせるが、何も見つからないと悟ったのだろう。ついに肩を落とし、頭を垂れた。彼の表情から戦意が完全に消え去っていた。

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私たちは再びアパートの屋上に戻っていた。冷たい夜風が吹き抜け、わずかに湿った空気が肌を刺す。キアランと私は、謎の男を椅子に縛り付け、手錠で完全に動きを封じた。あの激しい追跡劇を終えたばかりで、息を整える暇もないまま、次の戦い――尋問が始まろうとしていた。


「キアラン、君は本当にすごかった。」

まだ荒い息を吐きながら、私は自然とそう口にした。「あの男に追いつくなんて、簡単なことじゃなかった。」

キアランはちらりと私を見て、わずかに口元を緩める。「いや、本当にすごいのは君だよ、リア。指示が的確だった。」

その言葉に、冷たい夜風にもかかわらず、頬がわずかに熱くなるのを感じた。返事をしようとした瞬間、男の声が割り込んできた。


「へえ、俺には褒め言葉はないのか?」

声には皮肉がたっぷりと込められていた。


私たちは揃って、興ざめした表情で彼を見つめる。

「黙って。」

ほぼ同時に発した私とキアランの声が、妙にハモっていた。目を合わせた瞬間、思わず笑いそうになるのを堪える。

「夜中にサングラスなんかしてなければ、捕まえるのが少しは大変だったって褒めてあげてもよかったかもね。」私は軽く肩をすくめながら言った。

キアランが眉を上げる。「それ本気で言ってるのか、リア?」

「ちょっと気になっただけ。」私は肩をすくめつつ、男を観察した。


意外なことに、男は答えた。「かっこよく見えると思ったんだ。」

キアランは呆れた顔で息を飲む。「冗談だろ……?」

「じゃあ、ファッション講座をしてあげようか。例えば、サングラスをかけるべきじゃないタイミングとか?」と私は冗談めかして言った。

「マジかよ、リア。」キアランがため息をつく。「無駄な講座はやめてくれ。」


その瞬間、一瞬だけ場の空気が和らいだ。厳しい緊張が少しだけ緩む。だが、それも長くは続かなかった。キアランの表情が再び真剣なものに変わる。「始める前に……署長に連絡を入れるべきだ。状況を報告しないと。」

私は頷いたが、微妙な違和感が胸をかすめた。「そのつもりだったけど……電波が不安定で繋がらないの。」眉をひそめながら呟いた。


そのときだった。男が突然口を開いた。「心配するな。もう電波は安定してるはずだ。」

私とキアランは無意識に目を合わせた。その困惑はお互いに共有される。なぜ追跡対象だった男がこんな風に手助けをするのか?


その疑念を一旦脇に置き、私は署長への連絡を試みた。驚いたことに、男の言った通り電波は驚くほどクリアだった。まるで何かの手品のようだったが、今は深く考える時間はない。


「こちらリオラ・ヘリオス。キアランと共に、銃撃を仕掛けてきた男を確保しました。これから尋問を開始します。」

通信機から返ってきたレオン署長の声は、明らかな満足感と誇りに満ちていた。「よくやった、ヘリオス。」


通信が終わりそうになった瞬間、ロリアンの声が割り込む。「署長、こちらも目標を確保しました――警察内部の裏切り者です。ルーサー、セレーンと共に尋問の準備が整っています。」

レオンの声が再び響く。今度は力強く、冷静だった。「素晴らしい。全員、可能な限り情報を引き出せ。」

「了解しました。」私とロリアンがほぼ同時に応答し、通信を切る。


私は視線を戻し、目の前の男をじっと見た。ゆっくりと彼の帽子を外し、マスク、そして最後にサングラスを取り去る。月明かりの下、その素顔が露わになる。

キアランと私は無言のまま目を合わせ、わずかに頷くことで次の方針を確認した。私が質問を担当し、キアランが鋭い観察眼でその反応を読み取る役目だ。


男は挑発的な目つきでこちらを見返す。まるで「俺を喋らせてみろ」と言いたげだ。

私は彼の雰囲気を感じ取りながら、冷静にその意図を探る。だが、最初の質問に対して、彼は何も答えず、ただ無表情でじっと私を見つめ返していた。


私はキアランを横目で見ながら、事件の始まりから今に至るまでの経緯を頭の中で整理していた。しかし、推測の多くはまだ曖昧で、確証には程遠い。だから、少し言葉を変えて再び問いかけた。

「この場所に電子機器……パソコンや他のデバイスを持ち込ませたのは、あなたですか?」


男の反応に思わず息を飲んだ。顔が微かに歪み、低く呟き始めたその様子には、苛立ちがにじみ出ている。それが誰かに向けられた怒りなのか、それとも状況そのものへの嘲笑なのか――分からない。

「馬鹿どもが!あいつ、一体何を考えてるんだ!」


私はその発言に眉をひそめながら、彼の表情を注意深く観察した。嫌悪に満ちたその顔は、怒りを隠そうともしない。

「ということは、命令したのはあなたではない?」私は目を細め、再び問い返した。


男はすぐに反応し、どこか防御的な口調で答えた。

「そいつらのことなんか知らねえよ。」

しかし、その目の奥に、一瞬だけ動揺が走ったのを見逃さなかった。


私は振り返り、これまで沈黙を守っていたキアランに低い声で尋ねた。「どう思う?嘘をついてる?」

彼は男を鋭い目つきで見つめたまま、わずかに首を振った。

「嘘はついてない、リア。」


その一言は新たな手がかりを与えてくれたものの、事態をさらに複雑にした。つまり、背後には別の人物がいるということだ。しかし、その「誰か」とは一体――?


「だったらさ。」突然、男の声が冷たい響きを帯びた。「そいつを捕まえてくれよ。必要なら少し痛めつけて、適当に教育してやれ。」


その物言いに嫌悪感を覚えつつも、彼の怒りの真意を探ろうとした。「自分の仲間を排除したい理由は?」と問いかけるが、彼はただ薄く笑って答えを拒否する。

「いいだろう。それならその“仲間”が今どこにいるのか教えなさい。」私はさらに詰め寄るが、返ってきた答えは予想通りだった。

「自分で探せよ。」


溜息をつきながら、内心でわずかな苛立ちを抑えた。だが、この状況で冷静さを失うわけにはいかない。少し話題を変えて、彼の態度を崩せないか試してみる。

「ところで――実際のところ、あなたはどれほど“強い”んですか?あの7階からの跳躍、見事でしたね。」


男は薄い笑みを浮かべた。その笑みには冷たさと挑発が混じり、こちらを値踏みするような目つきで見つめてきた。

「強さ、ね?」皮肉めいた声で言葉を繰り返す。「別に大したことじゃないさ。あれは……普通じゃなかった。」


私はキアランに視線を送り、目で問いかける。「普通じゃない?」

キアランもまた微かに眉をひそめながら答える代わりに目を細め、男の言葉の意図を探るように凝視する。


男は低く笑い、どこか嘲るように言った。

「俺の跳躍に興味があるなら、お前の相棒に聞いてみろ。お前たちのチームには、本物の“怪物”がいるんだからな。」


私は思わずキアランを見た。彼は冷静を保っているものの、内心の困惑がわずかに滲み出ている。

「お前の相棒は、俺が言いたいことをよく分かっているはずだ――彼の“自然な”能力は、俺の“不自然な”ものをはるかに凌駕しているからな。」


キアランは深く息を吐き、視線を私と男の間で慎重に移しながら、言葉を選ぶように口を開いた。

「あの7階からの跳躍について話すなら、単純に力任せにやったわけじゃないんだ。」

彼の声は落ち着いているが、その中に隠れた確信が感じられた。

「俺たちが使ったのは、体重を再分配する技術だ。もし無計画に飛び降りてたら、関節どころか全身が粉々になってたよ。」


彼の言葉に自然と耳を傾けながら、私はその説明に集中した。

「最初に膝をわずかに曲げて、真下にではなく隣のビルに向かって勢いを移動させる。それがスタートだ。」

彼は両手で動きを示しながら説明を続ける。

「壁に接近したら、足で反発力を使って方向を変えつつ、落下の衝撃を少しずつ分散させるんだ。」


一度言葉を切り、私が理解しているか確認するように目を合わせた彼は、そのままさらに詳しく説明を続けた。

「次に、建物間に張られた洗濯ロープを利用する。あれは一見脆そうに見えるけど、短時間なら体重を支える張力が十分にある。それが、落下速度を緩めるカギになる。」


彼の言葉を聞きながら、私は無意識にその動きを頭の中で描写していた。具体的で、まるで映像のように鮮明な説明だった。

「そこから片手を素早く離して壁を蹴り、いくつかの小さな着地に分けていくんだ。これによって衝撃を一気に受けるんじゃなく、段階的に速度を減らしていく。それがこの技術の要だ。」


私は息を呑んだ。その緻密さと正確さは、まるで精密に計算されたダンスのようだった。キアランは再び私を見て、話を締めくくるように言った。

「そして最後に、着地する時は膝を適切な角度で曲げて衝撃を吸収する。こうすることで関節や骨へのダメージを防げるんだ。何度も繰り返して体を慣れさせれば、技術に体が順応して、動きがリズムを持つようになる。」


彼の説明が終わる頃には、私は言葉を失っていた。ただの体力や筋力ではなく、精密な計算と深い理解に基づく技術だ。


そんな私たちの様子を見て、男は薄い笑みを浮かべた。その表情には感心の色も含まれているようだったが、同時にどこか挑発的でもあった。

「違いが分かるか?」彼は静かに言った。「俺はそれを無意識でやっていたってことだ……まるで、何かに操られているみたいに。」


彼の顔に一瞬、苦悶の色が浮かぶ。その様子に、キアランと私は自然と目を合わせ、無言のまま考えた。この男には、私たちがまだ掴めていない“何か”がある――そう思わずにはいられなかった。


私は目の前の男をじっと見つめた。拘束されたままの姿、その苦痛は見るだけで容易に伝わってくる。それでも、その瞳の奥には、衰弱しきった身体を押しのけるような強い意志が宿っていた。


「ねえ、大丈夫?」

自然と口をついた声には、わずかに同情の色が混じっていた。


彼の返事は驚くほど即座だった。短く、冷ややかで、刺さるような一言。

「俺のことは心配するな。」

息を詰まらせながらも、毅然とした口調だった。「敵に優しくする癖は直したほうがいい。」


その言葉は、不意に平手打ちを受けたような衝撃をもたらした。尋問中の相手に忠告されるなんて、まったく予想外だった。痛みに耐え続ける彼の表情には、いささかの恐れも見えない。その瞬間、私は彼の言葉を真正面から受け止め、無意識に考え込んでいた。確かに、時折私は敵に対して甘すぎる……いや、もしかしたら必要以上に同情しているのかもしれない。


だが、そんな弱さに流されるわけにはいかない。私は心を切り替え、眉をひそめながら問いかけた。

「でも君だって同じじゃない? もし本当に敵なら、なぜ協力する? なぜ俺たちと普通に話す?冗談を言うのはなぜ?」


彼は長い間黙ったままだった。その沈黙には、自分自身の答えを吟味するような気配があった。そして、やがて口元にかすかな笑みが浮かぶ。それはほんの一瞬で、見逃しそうになるほど微細なものだったが、深い意味が込められているように思えた。


もしかしたら、俺たちは想像以上に似た者同士なのかもしれない――そう感じつつも、それを認めるにはまだ早すぎた。話題を変える必要があった。


「まあ、いい。」

私はわずかに息を整え、彼の表情を見据えた。「このアパートについて話そう。ここで何を計画しているんだ?」


間を置かずに続ける。

「それに、部屋で見つけたパソコンのこともだ。市警察署長の退職イベント会場のCCTVシステムに接続されていたぞ。」


その瞬間、彼の表情が微妙に揺れた。口を固く閉ざしているにもかかわらず、苛立ちがわずかに滲み出る。その反応を見て、俺の疑念はさらに深まる。ここはただの隠れ家ではない。もっと大きな計画の一部に違いない。


「君たちは、レイヴンブルックの警察署長をそのイベントで暗殺するつもりなんだろう?」

彼の反応を探るように、言葉に力を込めて問い詰めた。


しかし、彼は口を開かない。沈黙を守るその姿勢に、苛立ちが込み上げてくる。忍耐は尽きかけていたが、深呼吸をして冷静さを保つ。


「なかなかの我慢強さだな。」

皮肉を込めた言葉とともに、私はキアランに無言の合図を送った。


キアランは短く頷き、一歩前へ進む。迷いのない拳が、男の左頬を鋭く撃ち抜いた。鈍い音が響き、男の口から血が滴り落ちる。頬には真っ赤な跡がくっきりと刻まれていた。彼は咳き込みながら床に血を吐き、それでもその瞳の鋭さを失わない。


「すごいもんだな。」

歪んだ笑みを浮かべながら、彼は息を切らしつつ呟いた。「認めざるを得ない……君のパンチ、効いたよ。」


キアランは一切動じることなく、冷徹な眼差しを向け続ける。私は同情の感情を押し殺し、声を冷たく放つ。

「協力するなら、これ以上の痛みは必要ない。」


だが、彼の沈黙は崩れない。鋭い息を吐き、苦悶の中でもなお、その瞳には強固な意志が燃えている。


再びキアランに目で合図を送ると、彼は迷わず男の腹を蹴り上げた。鋭い一撃が、男の肺から空気を絞り出す。咳き込みながら血を吐く彼の姿に、一瞬だけ胸の奥がざわつく。しかし、その感覚を振り払い、私は再び言葉を紡いだ。

「頼む。真実を話せば、これで終わりだ。」


彼は顔を歪めながらも、揺るぎない目で私を睨み返した。

「俺たちの秘密……絶対に裏切らない。」


その言葉には鋼のような意志が込められていた。壁のように立ちはだかるその忠誠心が、俺たちの疑念をさらに深める。この男はただの駒ではない。何かもっと深い計画の中核にいる。


「いいだろう。」

私は静かに息を吸い込む。諦めるつもりはない。この尋問は、まだ始まったばかりだ。


私はさらに身を乗り出し、男の反応の一つ一つを見逃さないように目を凝らした。隠そうとしているのは明らかだったが、その目は真実を語っていた。何かがある――彼がまだ口にしていない、あるいは必死に隠そうとしている何かが。

「誰かに罪をなすりつけるつもりなんだろう?」

探るように低く、挑発的な調子で問いかける。


男は一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに黙り込み、視線を床に落とした。その呼吸が微妙に乱れているのが分かる。本能的にキアランを見ると、彼は腕を組み、まるで獲物を狙う捕食者のように男を鋭い目つきで観察していた。その目には、どんな嘘も見逃さない計り知れない洞察力が宿っている。

キアランが小さく頷く。合図だ――この男は嘘をついている。私はそれを確認すると、さらに挑発を強めることにした。


「奇妙な点が多すぎる。ただのアパートとは思えない。廊下で見つけたパソコンが警察署長の退職パーティー会場のCCTVシステムに繋がっていたなんて、『たまたま』なんて言い訳が通じると思うか?」


その言葉に男の呼吸がさらに乱れたが、彼は必死に平静を装おうとしていた。

「それだけじゃない。」

視線を彼の目にロックオンさせ、静かだが揺るぎない声で続ける。

「レイヴンブルック市警察署長――お前たちは来週の退職パーティーで彼を殺すつもりだろう?」


その瞬間、男の動きが一瞬止まった。呼吸が詰まる音が聞こえ、その目に驚きが浮かぶ。しかし、それはすぐに冷たい仮面のような平静で覆い隠された。

「何のことだか分からないな。」

少し焦った口調で言い返す。「引退間近の人間を狙う理由なんてないだろ。無意味だ。」その言葉は一見安定していたが、その目は彼を裏切っていた。


私はため息をついた。キアランは黙ったままだったが、突然体を乗り出し、私に小さなジェスチャーを送る。それは、次の行動に移るべき合図だった。

私は頷き、彼に許可を与える。


次の瞬間、キアランの膝が男の顔面を直撃した。鈍い音が響き、鼻が歪み、血が勢いよく溢れる。男は苦痛の叫びを上げ、その目には怒りと涙が入り混じっていた。

「正気かよ!」

彼が荒々しく叫ぶが、キアランは冷たい笑みを浮かべ、無言で煙草に火をつける。男の抗議など、取るに足らないものとでも言いたげだった。


「お前が隠そうとしていることは、すでにいくつも掴んでいる。」

その隙を逃さず、冷静だが鋭い声で言う。「港の下水道で見つけたノートパソコン、署内に潜む裏切り者、そしてこのアパート……お前たちの『計画』は、俺たちにはもう透けて見えている。」


男は口を硬く結び、キアランと私を交互に睨みつけた。その目には怒りと恐怖が混ざり、どう動くべきか迷っている様子だった。しかし、彼は沈黙を破らず、頑なに口を閉ざしたままだ。


私はさらに彼に近づき、声を低めて囁いた。

「これが最後のチャンスだ。話せ。さもなくば、この『会話』はお前の希望をすべて打ち砕く形で終わるぞ。」


男はわずかに唇を歪ませ、侮蔑的な笑みを浮かべたが、その笑いには震えが混じっていた。

「分かったつもりか? 俺たちの計画の表面すら掠めていないくせに。くだらねぇ茶番だな。」


その挑発的な態度に胸の奥が燃えるようだったが、私は冷静を保ち、キアランに視線を送る。それは、行動に移るべきだという無言の指示だった。


キアランは動きを止めることなく、煙草の最後の一吸いを終えると、火のついた先端をゆっくりと男の頬に近づけた。漂う煙が二人の間を満たし、空気は一瞬で張り詰めた。


男の目が見開き、その平静を装った仮面がついに崩れる。

「おい! やめろ!そんなこと……するな!」

震える声に、恐怖がはっきりと滲み出ていた。


キアランは冷淡に彼を見つめるだけだった。そのまま、ためらうことなく煙草の熱い先端を男の頬に押し当てる。悲鳴が夜空に響き、焼け焦げた皮膚の臭いが鼻を突く。

「くそっ、お前ら二人とも狂ってやがる!」

苦痛に身をよじらせる男の叫びにも、キアランは何の感情も示さなかった。その目は、ただ目の前の男を追い詰められた獲物として見ているに過ぎない。


やがてキアランは、男の座る椅子を無造作に掴むと、屋上の端まで力強く引きずった。冷たい夜風が私たちの肌を刺し、音もなく吹き荒れている。椅子の半分以上が屋上から突き出し、男の身体はキアランの手によって辛うじて支えられていた。この高さから落ちれば、生き残る可能性はゼロだ。


男の顔には恐怖がありありと浮かんでいるが、その目にはまだ、頑なな意志の光がかすかに残っていた。私はそれを見て、呆れたように冷笑を浮かべる。

「それでもまだ、奴らのために命を投げ出すつもりか?」

言葉には冷ややかな鋭さが宿っていた。問いかけは核心を突き、男の心を揺さぶる狙いだった。


一瞬、男の表情が揺れる。その迷いを見逃さず、私は最後の提案を突きつけるように言葉を続けた。

「ここで死ぬか、話すか――選べ。」


沈黙が私たちの間に重くのしかかった。私はそっとカウントダウンを始める。「……5……4……3……」

男の顔に不安の色が浮かび、それまでの虚勢が崩れ始めた。そして、私が「1」に達する直前、ついに観念したように声を上げた。

「分かった! 話す!」

声には切羽詰まった必死さがにじみ出ており、その抵抗は完全に崩れ去っていた。


キアランと私は視線を交わした。彼は「真実を話している」という合図を私に送った。私は軽くうなずき、彼に椅子を元の位置に戻すよう示す。

私は男に一歩近づいた。鋭い視線を重ね、じっと睨みつける。私の眼差しには警告が込められていた——「次はない」ということを悟らせるために。


「さて」と私は冷静な声で問いかける。「本当にレイヴンブルック警察署長を暗殺する計画なのか? それとも、もっと別のことがあるのか? それから、さっきお前が言っていた『異常な力』というのはどういう意味だ?」


男は荒い息をつきながら、恐怖を振り払い、答える勇気を振り絞っているようだった。その目はキアランと私を行き来しながら、怯えで揺れている。

やがて、観念したように唇を震わせて口を開いた。

「俺たちの計画は……」

しかし、その瞬間——


突然、男の体が激しく痙攣し始めた。私は驚いて一歩後ずさる。彼の静脈が首筋にくっきりと浮き出し、目は驚愕に見開かれている。口を大きく開けたまま、内側から何かに引き裂かれているような苦悶の表情を浮かべていた。


「おい! 何が起きてるんだ!?」

私の声は焦りに満ちていた。心臓が早鐘のように鳴り響き、彼の叫びが空気を切り裂く。


キアランが素早く前に出て、男の肩を掴んだ。「どうした!? 聞こえるか!?」

必死に呼びかけるキアランの声にもかかわらず、男は喉を詰まらせ、何も答えられないままだった。


かすかな声で、彼はたった一言だけ搾り出した。

「……薬が……」


そして、静寂。

男の体は前のめりに崩れ落ちた。耳と鼻から血が流れ出し、その命が完全に尽きたことが明らかだった。私はその場に立ち尽くし、全身が凍りつく。男の顔からは血の気が失われ、目は虚ろな死の色を宿していた。


キアランが私を見た。その目には私と同じ恐怖が映し出されていた。


私は深く、不安定な息を吸い込みながら、目の前で起きたすべてを何とか理解しようとした。

「これは……一体……何なんだ……?」

声は震えていた。


その瞬間、私たちは自分たちがどれほど大きなものに巻き込まれているのかを痛感した。

これは、普通の敵ではない。

私たちは、手に負えない深淵に足を踏み入れてしまったのだ。

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法と混沌 シキシマ @noraiou

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