4.すべてを隠したまま



……窓の外に見える木々たちは、すべての葉を散らせた後、また春に向けて新芽をつけていた。それに合わせるかのように、俺の身体も次第に良くなっていった。


幻肢痛が起きても、前に比べたら痛みが和らいできたし、腕がない違和感も少しずつ慣れてきた。


そうして、事故に遭ってから4ヶ月ほどが経った、3月5日。この日、俺はついに退院することができた。


もちろん、まだ二週間に一回程度は通院する必要があるが、それでも退院できるというのは、俺にとって大きな一歩だった。


「長いこと、お世話になりました」


夕方の五時頃。病院の駐車場にて、父さんと母さん、そして俺の三人で、見送りに来てくれたお医者さんや看護師さんたちに頭を下げた。


父さんの車に乗って、病院を後にする。4ヶ月ぶりに、街の風景を車の窓の外から眺めることができた。いつも見ていたはずの光景なのに、今の俺は観ているだけで無性にワクワクした。


「礼仁郎、今日の夜は何が食いたい?お前の好きなものを晩飯にしよう」


運転席に座る父さんが、弾んだ声でそう言った。


退院できてテンションが上がっていた俺は、「じゃあフランス料理のフルコース!」と、冗談めかしく叫んだ。


それを聞いた父さんと母さんは、声を上げて笑っていた。


「ははは、いいぞ礼仁郎。フランス料理、予約するか?」


まさかその冗談を真に受けられるとは思っていなかったので、俺は「いやいや父さん、冗談だよ!」と答えた。


「俺、フランス料理とかよく分かんないし。あ、じゃあラーメンとか久しぶりに食べたいかな」


「ラーメンでいいのか?せっかくの退院なんだから、もっといいものにしたらどうだ?」


「そうよ礼仁郎、遠慮しなくていいのよ?ほら、お寿司とかは?あなたお寿司好きでしょう?」


「いや、何て言うか……その~、俺の入院費とかさ、結構かかっちゃってるじゃん?それにこれからも俺、金かかる人生だろうし、二人にも迷惑かけるだろうし……」


「バカ、変なところで気を使うんじゃない。お前が食べたいものを言ってくれ」


「………………」


「なーに、これは先行投資だ。お前が大人になったら、よぼよぼになった俺と母さんの世話をさせるためのな!」


「な、なんだよそれ~!無償の愛じゃないのー!?」


「ははは!残念だが、そんなもんはない!恩着せがましく奢ってやろう!」


「ちぇ、現実は厳しいなあ」


「そうだ!だからな礼仁郎、何も遠慮するな。好きなものを、好きなだけ食え」


「………………」


もちろん、俺には分かっている。これが父さんなりの、優しさであることを。


俺は自分の右腕の方へと目をやった。長袖の中には何も通っていなくて、だらんと垂れていた。


「……じゃあ、寿司、食いたいかな」


俺が小さな声でそう言うと、父さんは嬉しそうに「よし!」と答えた。


「お前が入院している間に、いい店を見つけてな。まだ食べたことはないんだが、めちゃくちゃ旨いって評判でさ」


「………………」


「退院したら、三人で一緒に食べに行きたいなって、母さんと話してたんだ」


「……そっか」


助手席の方を見ると、母さんはすんすんと、涙ぐんで鼻をすすっていた。


俺は掠れるほどに小さな声で、「ありがと」と呟いた。









……食事を終えた俺たち家族は、午後八時半過ぎに家へと帰りついた。


4ヶ月ぶりの我が家は、なんだかいつもより大きく見えた。二階建ての一軒家で、どこにでもある家だって思ってたけど、こうして帰ってくると、ちょっと胸にくるものがあった。


「ただいま」


玄関をあがって、ダイニングに向かう。そして、四角いテーブルの周りにある椅子に腰かけて、はあ~っと息を漏らす。


ああ、やっとここに帰ってきた。この空間に戻ってきた。


ようやくリラックスできた俺は、この瞬間に糸が切れたように身体が重くなり、目蓋が重くなってしまった。


「礼仁郎、ココア淹れるけど、飲む?」


母さんからそう言われて、俺は「うん、欲しい」と答えた。


「ふー……。おっ、もう八時半か。そろそろ“あの子”が来る時間じゃないか?」


父さんは俺の対面に座って、壁掛けの時計を見るなりそう呟いた。すると母さんは、「あら、ほんとね」と答えた。


「じゃあ、あの子の分のココアも用意しなきゃね」


「ああ、ありがとう」


「……あの子?父さん母さん、あの子って、誰の話?」


「ああ、礼仁郎にはまだ話してなかったか?実は今日からな、うちに住みたいって人が一人いるんだよ」


「ええ?な、なにそれ?急な話」


「本人からの強い要望でな。お前が退院する夜に来てくれって伝えてたんだよ」


「俺が退院する日……?」


ピンポーン


俺と父さんが話している最中に、玄関のインターホンが鳴り響いた。


「お、きっとあの子だぞ」


父さんは椅子から立ち上がり、玄関へと向かった。俺も誰か気になったため、父さんの後をついて行った。


ガチャッ、ギィ


玄関の扉を開けて外を見ると、キャリーバッグを持った一人の少女が立っていた。


それは、長谷川だった。


「え!?は、長谷川!?」


俺がそう叫ぶと、長谷川はぺこりとお辞儀した。






……四角テーブルの席に、俺たち家族三人と、長谷川が座っていた。


俺の右隣に長谷川が座り、俺の対面に父さん、そしてその隣に母さんといった配置だった。


それぞれの前には温かいココアが置かれており、白い湯気を立ち上らせていた。


「実はな、礼仁郎」


父さんは咳払いをひとつしてから、俺に経緯を話し始めた。


「この長谷川 ゆずさんがな、お前の介護をするために、この家に住まわせて欲しいって言ってきてな」


「俺の介護のため……?」


「ああ。これから24時間、付きっきりでいたいそうだ。お前の部屋に寝泊まりして、ずっと様子を見守りたいんだと」


「………………」


俺は顔を向けて、長谷川の横顔を見つめた。彼女はじっと顔をうつむかせて、ごくりと息を飲んだ後に、緊張した声色でこう言った。


「じ、自分勝手なお願いをして、ごめんなさい。ご飯とかは自分で用意しますし、電気代とか水道代とか、ちゃんとゆずが払いますから……」


「大丈夫よ、そこまでしなくても」


母さんは落ち着いた声でそう告げた。


「暮らしていく分の援助は、私の方もするから。それに、いくらかはあなたのお母さんが払って下さるって聞いてるわ」


「………………」


「だから、どうか礼仁郎のことをよろしくね」


「は、はい。精一杯、頑張ります」


長谷川はぎこちなく頭を下げていた。


(ま、まじかよ長谷川……。正直、ここまでやるとは思ってなかったな……)


「というわけでだ、今日からこの長谷川さんが家に住む。礼仁郎、何かあったらこの子を頼るといい」


「父さん……」


「正直に言うとな、礼仁郎。俺も母さんも、この長谷川さんって子に対して、あまりいい感情は持ってない」


「………………」


「この子は、お前の事故の原因になっている子だ。長谷川さんが不注意に道路へ出なければ、お前は事故に遭わずに済んだ。故意でないにしろ、そこは揺るがない事実だ」


「で、でも、一番悪いのは車の運転手だろう?酒飲んで運転してたんだし、道路の真ん中にいた長谷川に気がつかなかったんだし」


「確かにお前の言うとおり、その運転手が一番悪い。事実この人には、多額の賠償金を支払うよう要求するつもりだ」


「それなら長谷川は……」


「だがな、礼仁郎。こればっかりは理屈じゃない」


「………………」


「もちろん、長谷川さんが毎日毎日、お前のところへお見舞いに来てくれたのを知ってる。礼仁郎が命がけで助けようとした子なんだから、決して悪い子ではないんだろうと、俺も母さんもそんな風に思いたい。だが普段の彼女は、先輩であるお前のことを、いつもいじって笑っていたという話も……こっそりと聞いている」


「………………」


「端から見ると、ハラハラする行動や言動もしていたらしいな。お前を「ダサいダサい」って笑ったりはしょっちゅうだったとか。お前が許してくれてたからよかったものの、あの行動はいじめだって言われても反論しようがないってな」


「……それは、その」


ここで上手く長谷川をフォローできないところが、俺の詰めの甘いところだった。確かに長谷川からのいじりはかなり激しかったし、生意気なことを言われるのもめちゃくちゃ多かった。その事実に対して、俺は嘘をつけなかった。


「そんな子を助けるために、お前は腕を失った。親としてはこれ以上ないくらいに、悔しいものだよ。「なんでこんな子のために?」って、どうしても思ってしまう」


「父さん……」


「寛容な大人の対応じゃないのは、俺も分かってる。俺も母さんも、長谷川さんのような子どものことを憎みたくなんかない。だけど……どうしても、ここで「全部許します」とは、言い切れない俺たちがいる。胸にしこりが残ってしまう。だから今回、長谷川さんの誠意をきちんと感じるために、この話を承諾したんだ」


「………………」


「もちろん、彼女のことを不用意に邪険に扱ったり、憂さ晴らしに八つ当たりをしたりとか、そういうことはしない。だが誠意を認められるまでは、彼女には頑張ってもらいたいと思っている」


父さんは長谷川の方へ顔を向けて、「それじゃあ、これからよろしくね」と言って、頭を下げた。


長谷川もあわただしく頭を下げて、「はい、死ぬ気で頑張ります」と答えていた。








「……えーっと、ここが俺の部屋だよ」


俺は長谷川を二階へと連れていき、自分の部屋の中に招き入れた。


勉強机に、漫画ばっかりが並んでる本棚。そしてウォークインクローゼットに、小さな四角いテーブルと座布団。ここが俺の城だった。


「……ごめんなさい、先輩。勝手にこんなことしてしまって」


「いや、まあ……びっくりはしたけど、長谷川は24時間付き添いたいって前から言ってたし、気持ちは無碍にしたくないからさ」


「………………」


「さて……と。じゃあ、今日からもよろしくな」


「はい」


「と言っても、もう今日は寝るだけだな。パジャマに着替えて寝ようか」


俺はクローゼットを開き、中にあるプラスチック製の棚の引き出しを開けて、そこに入っているパジャマを取り出した。


「あ、長谷川。悪いけど今から着替えるから、外に出ててもらえないか?」


「ううん、ゆず、します」


「え?」


「先輩の着替え、やります」


「え、ええ!?いやいやいや!大丈夫だって!着替えはできるよ!」


「お願いします、やらせてください……」


「う、うーん……」


長谷川は必死に懇願する瞳を、俺へと向けてくる。そのあまりにも真っ直ぐな目にやられて、俺は彼女に頼む他なかった。


「じゃあ、上のTシャツを脱がせますから、ばんざいしてください」


長谷川からそう指示されて、俺は腕と顎を上げた。


彼女は俺のTシャツをぐいっと脱がせて、それから上のパジャマを着せた。


ボタン式となっているため、首の下からお腹までのボタンを、長谷川はひとつずつ留めていく。


(な、なんか……人に着せてもらうって、小さい時以来かもな……)


幼稚園児の時とかは、母さんや幼稚園の先生から服を着せて貰うことはあった。まるでその時に戻ったかのような気がして、気恥ずかしかった。


「……よし、じゃあ次は下ですね。足を上げてください」


「え!?は、長谷川、下もやるのか!?」


「はい、もちろんです」


「………………」


彼女はベルトをカチャカチャと外してから、俺のズボンにあるチャックのつまみを指で挟み、じー……と下へおろした。


そして、ズボンがゆっくりとおろされていく。俺が履いていた黒のボクサーパンツが、完全に顕になる。


(やっべ~……!こ、後輩にパンツ見られんの、めちゃくちゃはずい……!)


ごくりと生唾を飲んで、右足を少し上げた。それによって、長谷川は俺のズボンを片方脱がすことができた。


「………………」


その作業をしている最中、長谷川はふと俺のパンツへ目を向けた。そして、頬を真っ赤にしながら、顔をうつむかせた。


「は、長谷川、その……無理しなくていいぞ?お前も……な?さすがに恥ずかしいだろう?」


「う、ううん。大丈夫……です」


長谷川は緊張した手付きで、俺からズボンを脱がさせていた。ベルトの金具がカチャカチャと鳴るのが、異様にエロく聞こえた。


「じゃあ、先輩。また足あげてください。パジャマ、履かせますから」


「お、おう」


そうして、俺がまた右足を上げて、長谷川がパジャマを着せようとしていた時……。


「う、うわっ!?」


俺は足が上手くパジャマに通らなくて、バランスを崩してしまった。


「きゃっ!」


勢いよく前に倒れ込んだことにより、長谷川を押し倒してしまった。


「い、いたた……。長谷川、ごめん、大丈夫か?」


「は、はい……」


目と鼻の先に、長谷川の顔がある。ばっちりと目があってしまい、お互いに気まずくなって目を逸らした。


「……ん?」


その時、俺は左手の手の平に、何か柔らかいものが触れていることに気がついた。


言葉にしがたい感触だった。柔らかくもあるけど、なにか板?のような固いものも当たっている。


自分が触れているものを確認するために、俺は手の平へと視線を移した。


「!?」


そこは、長谷川の胸の上だった。固いと思っていたのは、ブラジャーの感触だった。


「うわわわっ!!わりぃ!!」


俺はすぐに手をどかして、彼女に謝った。


「ま、まさか触っちまうとは思わなかった!」


「………………」


「ごめんな、今、ちょっとどくから……」


と、そう言って起き上がろうとしたその時。


長谷川が、俺の左手の手首を、両手で掴んだ。まるで起き上がなきでくれと、そう言わんばかりに。


「え?は、長谷川……?」


「……先輩は、え、えっちな気持ち、溜まってませんか?」


「え……?」


「病院生活も長かったですし、そ、そういう……欲求とか、溜まってませんか?」


長谷川は頬から耳まで赤く染めながら、俺の手を……自分の胸の上に置いた。そして、震える声で彼女は言った。



「もし、よかったら……ゆずの身体、使いますか?」



「………………」


その瞬間、ばくんっ!と俺の心臓がはね上がった。


全身の血液が凄まじいスピードで循環し、身体中が熱を帯びていた。


彼女は濡れた瞳で、じーっと俺のことを見つめていた。


「ゆず、胸おっきいし……先輩のこと、満足させてあげられるかなと思います」


長谷川の左手が伸びて、俺のパンツに触れていた。


そして、ゆっくりと彼女は、俺へ顔を近づけてきた。目を細めて、唇の先を少し尖らせていた。


「い、いや……ちょ、ちょっと、ちょっと待って」


「先輩の命令なら、ゆずはなんでも聞きますから、さ、“最後まで”しても……いいですよ?でも、ゆず初めてなんで、優しくしてもらえると……嬉しいです」


「ま、待ってって」


「もし妊娠したとしても、ゆずは先輩の責任にしませんから。ゆずが一人で……どうにかしますから。だから……いくらでもゆずのこと都合よく……」


「長谷川!頼む!待ってくれ!」


俺は彼女の肩を掴んで、そう叫んだ。長谷川はハッとした顔で、俺のことを見つめていた。


「長谷川……そういうことは俺じゃなくて、本当に好きな人としてくれ。な?」


「………………」


「自分のことを、蔑ろにしないで欲しい。俺のことを支えてくれるのは嬉しいけど、それでお前が傷つくのは、嫌だからさ……」


「………………」


「手を、離してくれるかい?」


「………………」


長谷川はその時、ようやく俺の左手を離してくれた。俺はゆっくりと立ち上がり、息をふうと吐いた。


長谷川も同じように立ち上がって、もじもじとうつむいていた。


「せ、先輩……。ごめんなさい。変なこと言っちゃって」


「ははは、いいよ。状況がちょっと特殊だし、混乱しちゃうよな」


「………………」


「さてと、もうパジャマのズボンは自分で履くよ。そして、もう眠ろうか」


「……はい」


「お前もパジャマあるだろ?俺、一旦部屋から出ておくから、その間に着替えなよ」


「はい」


そうして、俺と長谷川はパジャマに着替えて、この慌ただしい1日を終えようとしていた。











……先輩の暗い部屋の中で、ゆずは先輩と背中合わせになって、一緒のベッドに寝ていた。


最初はゆずが床で寝るって言ったんだけど、先輩はさすがに申し訳ないって言って、ベッドの半分を貸してくれた。


そう言えば、病院でこうしてベッドを分けあったことがあったっけ。


「………………」


明日から先輩は、ようやく学校に復帰する。ゆずも一緒に登校して、先輩のサポートをしなきゃ。


学年が違うからクラスは別々になるけど、お昼休みとかは先輩のクラスに行って、お箸を代わりにゆずが使おう。


放課後の生徒会の活動も、ゆずが隣に座って、代筆したりしようかな。左手で字を書くのが慣れるまで、そういうのをした方がいいよね。


大変かも知れないけど、ゆずに弱音を吐く権利はない。


先輩は、ゆずの命を助けてくれた。その代償として、人生を歪めてしまった。


腕がなくなるというのは、人生が歪むのと同義。だからゆずは、この一生をかけて、先輩にお礼をしないといけない。


「………………」


ゆずは身体を起こして、後ろにいる先輩のことを見下ろした。


先輩はすーすーと寝息を立てて、穏やかに眠っていた。



『長谷川……そういうことは俺じゃなくて、本当に好きな人としてくれ。な?』



さっきの先輩の言葉が、ぼんやりと思い返される。


「…………先輩はやっぱり、先輩ですね」


口を薄く開いて、眠っている先輩の顔をじっと見つめた。


「………………」


ゆずは、ずっと独りぼっちだった。


シングルマザーだったママからは、全然構ってもらえなかった。いつも仕事が忙しいから、家にはいつもゆずだけだった。


ゆずが小さい頃、一人で家の近所を散歩していた時、道端で綺麗な石を拾ったことがあった。今にして思えばただの白い石なんだけど、当時はあまりにも綺麗だから、「きっとなんおく円もするすごい石なんだ!」と思った。


「きっとこれがあれば、ママはおしごとしなくてよくなる!ずっとおうちにいられる!」


そう考えたゆずは、ウキウキでその石を家に持って帰った。そして、寝室にいるママのところへ向かった。


その日はママはお休みの日で、朝からずっと寝ていた。そんなママの肩を揺らして、「ママ!みて!すっごいきれいな石だよ!」って話しかけた。


「きっと、なんおく円もするよ!もうママ、おしごとしなくていいんだよ!」


「………………」


「ねえ、ママ、おきて!ゆずのことみて!この石、きれいだよ!すごいんだよ!」


「………………」


堪忍袋の緒が切れたママは、ゆずのことを睨み付けて、すごい剣幕で怒鳴った。


「このバカ!なんで私が寝てるところを邪魔するの!?ママが疲れてることがわかんないの!?たかが石ごときで、私を起こさないでよ!」


そうして、ママはゆずが持っていた石を奪って、思い切り壁に投げつけた。


かんっ!と音を立てて、その石は欠けてしまった。


「さっさとあっち行って!もう入って来ないで!」


「………………」


「次入ってきたら、殴るからね!」


「………………」


そうして、ゆずは割れた石を持って、寝室から出ていった。


ゆずはお庭に一人で行って、泣きながら石のお墓を作った。その時は、石も生きていると思っていたから。


「………………」


ゆずは、ママから構ってもらえない。そういう不安が、小さい頃からずっとまとわりついてた。


ママから石の話を聞いてもらえなかったことが、当時は凄く哀しかった。だけど、その時にふっと、気がついたことがあった。


『ママは、ゆずから嫌なことをされたら、反応してくれる』


綺麗な石のお話は無視されるけど、起こされることには応えてくれる。


だから方法はなんでもいい。とにかくゆずが悪いことをすれば、またママは叱ってくれるんじゃないか。こっちを見てくれるんじゃないか。


それからはママの気を引くために、たくさんいたずらをするようになった。汚すなと言われた服を泥んこにしたり、わざとお皿を割ったりした。


「またゆずはそんなことして!なんで手のかかるようなことするの!」


そうして毎日毎日、ママから怒られた。でも、叱ってもらえるのが、ゆずには嬉しかった。


だってその間は、ママはお仕事に行かずに、ゆずのそばにいてくれるから。ゆずのことを見てくれるから。


そのコミュニケーションの取り方は、ママ以外にもやっていた。友だちの気を引くために、服の中に虫を入れたり、突然頭を叩いてみたりした。


「なんでまたそんなことするの!人様に迷惑をかけるなって、何回も言ってるでしょう!?」


もちろん、それでママからはこっぴどく叱られた。


「長谷川さん!どうしてそんなことするの!?」


「ゆずちゃんひどいよ~!わ~ん!」


先生からも友だちからも、そうやって怒られたり泣かれたりした。ゆずが何かをすることで、みんなが関わってくれた気がした。だからどんどん、エスカレートしてしまった。


でも、そんなことし続けたら、どんどん孤立していくのは明白だった。ゆずはどこにいても仲間はずれにされたし、声をかけても無視された。


そしていつしか、どんないたずらをしても、何も反応してもらえなくなった。ママからも、叱ってもらえなくなった。


もういよいよ、自分の居場所はどこにもないんだって、そう思った。



『こんのやろ~!今度と言う今度は怒ったぞー!』



……でも。


中村先輩だけは、ずっとゆずのことを、無視しないでいてくれた。


ゆずがやったいたずらに、いつも怒ってくれた。ゆずはそれが嬉しくて、ついつい、いつも先輩のことをからかったりしていた。ゆずのために困って欲しかったし、ゆずのために時間を使って欲しかった。


どんなことをしても、先輩はちゃんと叱ってくれた。突然口を聞かなくなったりしないし、無視しないでいてくれた。いつまでもゆずと……関係を持ってくれた。


そんな先輩の優しさに、ゆずは……ずっと甘えてしまった。


本当の気持ちを打ち明けようって、何回も思った。でもその度に恥ずかしくなって、いつものように先輩をからかうだけで終わってしまった。今までママや友だちに、『寂しいから構って』と素直に言えなかった逃げ癖が、身体に染み付いてしまっていた。


そのせいで……先輩は、人生が歪むほどの傷を負ってしまった。


「………………」


実は、ゆずにはひとつ、決めていることがある。


それは、先輩に好きな人ができたら、この付き添いを止めようということ。


だって、もし先輩に好きな人ができたら、絶対ゆずは邪魔になる。デートの最中とかにもゆずがいたら、おかしいことこの上ない。


だから、先輩にそういう人ができた時に、ようやくゆずはお役御免となる。




──そしてその後、ゆずは一人で死ぬんだ。




もちろん、自分の気持ちを先輩へ話すつもりは一切ない。だって、ゆずがこんな気持ちを持っちゃいけないから。こんな気持ちを先輩に抱くこと自体が、許されないことだから。


ゆずはこの先輩への気持ちを抱えたまま、死のうと思う。すべてを隠したまま、この世を去りたい。去らなきゃいけない。


「………………」


ゆずはベッドに横になって、先輩の背中に身体を向けた。ギシッっとベッドが軋む音がした。


「……ねえ、先輩」


眠っている先輩の背中に、ゆずは小さな声で語りかける。


「先輩だったら、きっと……ゆずが綺麗な石を持ってきたら、『綺麗だね、よかったね』って、言ってくれるんでしょうね……」


ゆずは先輩の背中にすっと鼻を近づけて、先輩の香りを少しだけ嗅いだ。


先輩らしい優しい匂いが、ゆずの鼻をくすぐって、思わず泣きそうになった。


その香りに包まれながら、ゆずはすっと目を閉じて、深い眠りの谷へと落ちていった。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る