3.真夜中の病院
……俺が事故ったのは、10月31日の、ちょうどハロウィンの日だった。
それから長い入院生活を過ごし、秋から冬へ……季節が移ろいでいった。
長谷川は自分で宣言したとおり、俺のことを誠心誠意支えてくれていた。それはもう、痛々しいほどに。
毎日毎日、本当に休むことなく病院へ来る。お見舞いの果物やお菓子を持ってきて、それを俺に食べさせる。そして面会時間ぎりぎりまで、ずっと俺のそばを離れない。
しかも最初のうちは、学校を休んでまで俺と四六時中居ようとしていたし、面会時間を過ぎても帰ろうとしなかった。
「だって、24時間いるって、約束したから……」
長谷川は俺の目を見つめながら、そう言った。
もちろん、さすがにそれは俺が止めた。学校へは行って欲しいし、家へ帰ってくれないと俺も心配になるからと。彼女は泣きそうな顔になっていたが、なんとかそれは納得してくれた。
危なっかしい俺と彼女の関係が、そうやって繋がれていった。
……12月15日。
夕方の四時を少し過ぎた頃、窓の外では、小雪がちらちらと降っていた。
その日もいつもどおり、長谷川は学校帰りに俺の見舞いに来てくれていた。
「先輩、あーんしてください」
長谷川はベッドの脇にある丸椅子に座って、手にみかんを取り、俺の口へと運んでいた。
「あ、あーん……」
俺は照れ臭く感じながらも、口を開けて、長谷川からのみかんを雛鳥のように貰っていた。
この場面のせいで、たまに看護師さんからカップルと誤解されるけど、実情は全然そんな甘いものじゃなかった。
正直言うと、こうして食べ物を食べさせられるのは、恥ずかしくてあまりしたくなかった。だけどそれを断ると、長谷川は物凄く悲しそうな顔をするのだ。
彼女の罪悪感を晴らすためにも、ある程度俺が彼女へ甘えた方がいい。そう思って、照れ臭いながらも、こうして食べさせて貰っていた。
「そう言えば、母さんが昨日教えてくれたんだけどさ、俺を轢いた運転手のおっさん、やっと警察に捕まったみたいだ」
俺がそう言うと、長谷川は「ほんとですか?」と返した。
「母さんによると、酒に酔った勢いでバンバン車をとばしてたらしい。それで、長谷川が道路にいるのにも気がつかなかったんだと。そして、俺を轢いた瞬間怖くなって、慌ててその場から逃げたってさ」
「お酒を……?あの時、まだお昼だったのに?」
「昼間っから酒飲んでるのが、なんというか……救いようのない大人って感じだよな」
「……そうですね」
「だからさ、その……なんだ」
俺は左手の人さし指で鼻の頭を掻きながら、彼女へ告げた。
「長谷川に全部、責任があるわけじゃないってことだよ」
「………………」
「つまり……何て言うか」
「……大丈夫ですよ、先輩。慰めなくても」
「え?」
「ゆずが悪いのは、間違いないんだから」
「………………」
「ゆずは、道路に出ちゃった。そんなことさえしなきゃ、先輩の腕は……」
「いや、そりゃまあ……そうかも知れないけどさ、一番悪いのは暴走してた車の方なわけで。長谷川が全部背負うことは……」
「………………」
長谷川は、何も言わずにうつむいていた。
俺はそれ以上言葉にするのも憚られて、窓の外に見える雪を眺めていた。
「………………」
「………………」
長谷川と俺の間に、ほとんど会話はない。もう以前のようには話せない。
前の長谷川は、確かに生意気で図々しい奴だったけど、今の長谷川を見ていると……あの時の元気な彼女に戻って欲しいと思っている自分がいる。
今となっては、あの小憎らしい生意気さも、彼女の愛嬌の一部だったように思う。
「………………」
しばらくの間、静粛が続いたところで、俺の身体に……変化が起きた。
“右腕”が、とてつもなく痛み始めた。
今度のは、腕がねじ切れるような痛みだった。雑巾絞りをとてつもない力でされているような、そんな痛みだった。
「ぐう……!ぐっ……!」
俺は歯を食い縛って、目を閉じた。
「ど、どうしたんですか?先輩……」
「ま、また幻肢痛が……!」
「え……!?」
「う、うがああああああ!!痛い痛い痛い痛い!!」
「せ、先輩!大丈夫ですか!?」
「うぐあああああ!!あああああ!!」
長谷川のいる横で、俺は額に脂汗を滲ませながら絶叫していた。
その声を聞き付けて、お医者さんや看護師さんたちが来てくれた。
「はーい!中村さん、鎮静剤打ちますよー!」
「あああああ!!もう!もう止めてくれよ!!なんで俺ばっかり!!俺ばっかりこんな目に!!」
途方もない痛みに耐え切れなくなって、俺は目から大量に涙を流した。
ぎりぎりと歯を軋ませて、呼吸が乱れていく。
心の底から、恐ろしくて堪らなかった。もう何もかもが嫌だった。今ここで叫ばなければ、死んでしまう気がした。
「痛い痛い痛い痛い!!くそっ!!死ね!!ふざけんな!!死ね!!」
「中村さん!息を吸って、深呼吸してみてくださーい!」
「あーーーーーもう!!泣いてんじゃねえよ!!だりいよバカ野郎!!頭おかしいんだよ!!」
心がぐちゃぐちゃになって、支離滅裂な言葉が口から溢れ出た。涙によって視界は遮られ、周りにいる人たちの顔すらも分からなくなった。
胸の中にある理性が、バラバラに引き裂かれている感覚だった。もう自分の奥底に眠っている黒いマグマが、身を焦がすようにして噴火する。
「もう嫌だ!!誰か助けてくれよ!!こおっ!!ねえ!!お願いだから助けてよぉ!!」
……結局俺が落ち着いたのは、それから何時間も経ってからだった。
「はあっ……はあっ……はあっ……」
ベッドに横たわる俺を、看護師さんが上から覗いている。
「中村さん、もう大丈夫ですよ。お薬が効いてきますからね」
「はあっ……はあっ……」
目の端から溢れていた涙は、耳を濡らしてベッドへと染みた。
鼻をすすり、震える呼吸をなんとか整えていく。
「………………」
次第に冷静さを取り戻してくると、今度は罪悪感に襲われた。
窓の外は、もうかなり暗くなっている。こんな夜遅くまで、俺はお医者さんや看護師さんたちに迷惑をかけてしまったんだと。
「……すみませんでした。取り乱してしまって」
泣き疲れた声で俺がそう言うと、女性の看護師さんが「いいんですよ」と答えてくれた。
「何か困ったことがあったら、いつでもお申し付けください」
「………………」
俺はふと、病室の周りを眺めてみた。病室には俺と看護師さんが三人しかおらず、長谷川の姿がどこにもなかった。
「あの、長谷川はどこに……?」
「長谷川?ああ、あのお見舞いに来られてた方は、二時間ほど前にお帰りになっていただきました」
「………………」
「閉院時間もとっくに過ぎていましたし、後は私どもの方で対応しますのでと、そう伝えてお帰りいただいたんです」
「……えっと、今は……何時ですか?」
「ちょうど夜の十一時になります」
「………………」
そっか……。いや、まあ、そうだよな。
二時間前ってことは、その時は九時頃だったわけか。いや、仕方ない。閉院時間という病院のルールがあるんだし、夜遅くに帰すわけにもいかない。
だけど、見知った奴がいなくなるというのが……少しだけ、俺の孤独感を煽った。
それから俺は水を飲ませてもらって、眠ることにした。病室から看護師さんたちが出ていくと、部屋の電気が消えて、真っ暗になった。
「……はあ」
明かりの消えた部屋の中で、俺は重いため息をついた。
いつまでこんな日々が続くんだろう。俺が一体、何をしたって言うんだ。
何かめちゃくちゃ悪いことをしたっていうのなら、この苦しみも甘んじて受ける。だけど、この苦しみを受けるほど、俺は……俺は……。
「………………」
コンコン
その時、俺の病室の扉がノックされた。俺は看護師さんかな?と思い、「はい」と言って答えた。
「……うう、ううう」
だが、病室の中に入ってきたのは……泣きくじゃってる長谷川だった。
「は、長谷川?」
俺は上半身を起こして、そう告げた。
「な、なんで?帰ったんじゃなかったのか?」
「……ぐすっ、ぐすっ……。トイレに……隠れてました。せ、先輩が……心配で……」
「………………」
「ごめんなさい……。先輩、ごめんなさい……。ゆずのせいで、ゆずのせいで……」
「………………」
「先輩のこと、助けてあげられなくて、ごめんなさい……!“こんな目”に遭わせて、ごめんなさいぃ……!!」
長谷川はスカートをぎゅーっと握り締めて、「ひっく、ひっく」としゃくりあげていた。
俺は何も言うことができず、ただ黙って、彼女が泣いているところを見ているしかなかった。
かつん、かつん
ふとその時、廊下の方で誰かの足音が聞こえていた。たぶん、看護師さんのものだと思う。
(長谷川がここにいたら、怒られるんじゃないか……!?)
咄嗟にそう思った俺は、長谷川に手招きして、小声で彼女を呼んだ。
「長谷川、こっち来い。い、今はもう閉院時間だ、見つかったら怒られる……」
「………………」
長谷川は目をごしごしと擦った後、音を立てずにこっちへやって来た。
そして俺が使っているかけ布団の中に潜り、自分の身体を隠した。
長谷川は壁側の方に身体を向けて、こっちに背を向ける形になった。
ガララッ
それと同時に、病室の扉が開いて、懐中電灯を持った看護師さんが顔を覗かせた。
「中村さん、大丈夫ですか?どうかしましたか?」
「あ、いえ……大丈夫です」
「そうですか?何かありましたら、遠慮なくナースコールを押して呼んでくださいね」
「は、はい……ありがとうございます」
ガララッ、ピシャッ
看護師さんは扉を閉めて、また廊下を歩いていった。
かつん、かつん、かつん、かつん……。
足音が遠ざかっていくのを確認して、俺はほっと安堵のため息をついた。
「も、もう看護師さん……行きましたか?」
長谷川はこちらに身体を向けて、布団の中から顔を出してから、俺に尋ねた。
「ああ、どうやら行ったみたいだ……」
「ほっ、よかったです。でもどうしよう、今日は帰れないですよね……」
「え?なんでだ?」
「だって、表の鍵はもう閉まってるはずですし、たとえ出れたとしても、こんな時間じゃバスもなくなってますよ。ゆず、定期券しか持ってないですから、他に帰りようがなくて」
「あ、そうか。うーん……困ったな」
「トイレで眠ろうかな……。多目的トイレなら、きっと広いですし」
「いやいや、止めとけよ。トイレじゃろくに寝られないしさ、もし万が一看護師さんに見つかったら、大目玉食らうぞ」
「それはそうですけど……」
「いいよ、このまま俺のベッド、半分使うといい」
「え?せ、先輩のベッドをですか?」
「うん」
「い、いいんですか……?」
「おう、もちろん」
「………………」
「俺、壁側にはよらないようにするしさ。身体を横にすればさ、二人で一緒に寝ても、身体には当たんないくらいの広さはあるし」
「……分かりました。今日は、そうします」
「うん」
「ベッド狭くして、ごめんなさい」
「いいっていいって、気にすんな。むしろ……ありがとな、長谷川」
「え?」
不思議そうに俺を見つめてくる長谷川の眼差しを受けつつ、俺ははにかみながらこう答えた。
「だって、俺が心配で、病院に残ってくれたんだろ?」
「………………」
「ちょうど俺……寂しかったところだからさ。長谷川がいてくれてよかったよ。お前のお陰で、救われた」
「………………」
長谷川は、目にいっぱい涙を浮かべていた。その涙は横へと垂れていき、ベッドのシーツにぽたりと落ちた。
「……ごめんなさい、先輩」
「………………」
「こんなことしかできなくて、ごめんなさい……」
「………………」
「あの、先輩……。ほんとに、ゆずになんでも言っていいですから。なんでも、なんでも、命令してくれて……いいですから」
「……いいんだ、いいんだよ。今の俺には、お前がそばにいてくれるだけで、十分だから」
「……うう、ううう…………」
息を漏らすようにして嗚咽する彼女の頭を、俺は左手で優しく撫でた。
そうして俺たちは、その日、背中合わせになって眠った。
彼女が微かにしている寝息の音を聞いて、俺は少しだけ嬉しくなった。
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