5.クラスメイト(1/2)
……翌日の、朝の8時。俺は長谷川とともに学校へと向かっていた。
20分ほどバスに乗って、バス停から5分ちょっと歩くと、俺たちの学校がある。
空を見上げると、清々しいほどに晴れ渡っていた。雲が点々と浮かんでいて、ゆったりと風に乗って動いていた。
「ふー、なんか登校するだけなのに、疲れちったなあ」
俺は息を吐きながら、そう呟いた。長い入院生活のせいで、体力がだいぶ落ちているんだろう。いつも平気で担いでた肩掛けの鞄さえも、今はずっしりと重く感じてしまう。
「ご、ごめんなさい先輩、気が利かなくて。先輩の鞄、ゆずが持ちます」
「あ、ごめんごめん、そんなつもりで言ったわけじゃなかったんだ」
「でも……」
「えーと、ほら、あんまり長谷川に頼ってばっかだとさ、体力も戻しにくくなるだろ?むしろ持ってた方がトレーニングになるから、持たせてくれないか?」
「……分かりました。先輩がそう言うのなら」
「うん、ありがとな」
ほっ、納得してくれてよかった。いやはや、これじゃ下手な独り言も言えないなあ……。何かと長谷川に気を遣わせちまう。
もう十分過ぎるほど、長谷川は罪悪感を抱えているんだ。これ以上、当て付けだと思われるようなことはしたくない。
「おっ、学校が見えてきた。ほんとに久々だなあ」
俺は長谷川とともに正門をくぐり、校内へと足を踏み入れた。
下駄箱に行き、靴と上履きを履き替えから、廊下を渡り階段を登る。
そして、二階についた辺りで、俺と長谷川は一旦足を止めた。俺のクラスである二年一組は二階に、長谷川のクラスの一年四組は、さらにその上の三階にあるからだ。
「それじゃあ先輩、またお昼休みにそっち行きますから」
「ああ、分かった」
「ごめんなさい先輩、ずっとそばに居れなくて」
「何言ってるんだよ、教室が別々なのはお前のせいじゃないだろ?大丈夫だよ、俺だって自分のことは自分でできるって」
「……でも」
長谷川は眉をひそませて、俺の足元を見た。なんだろう?と思って、俺もそこに視線を向けてみた。
なんと俺は、上履きを左右逆に履いていた。
「あちゃー!やっべ恥ずかしっ!なんか足に違和感あるなと思ったら!」
俺は慌てて上履きを脱いで、左右を入れ替えて、再度履き直そうとした。
「うわっ!?」
だがその時、足が滑って体勢を崩してしまい、床にどすんっ!と尻餅をついてしまった。
「せ、先輩!大丈夫ですか!?」
長谷川はすぐにしゃがみこんで、俺のことを心配そうに見つめていた。
「い、いてて~!いやー、相変わらず俺ダサいなあ~!」
「………………」
「こんなんじゃ、心配するなって言っても全然説得力ないな!ははは!」
俺はなんとかシリアスな雰囲気を壊そうの思って、無理やり笑いながら長谷川の方へ顔を向けた。
彼女は本当に、今にも泣き出しそうな顔でうつむいていた。唇を噛み締めて、何度も瞬きをしていた。
……昔の長谷川だったら、ここで「ほんとですよ!先輩ってば世界一ダサいんですから!」って、煽ってきてたところだったんだけどな。
まあでも、そうか。俺がバカだったな。こんなところで笑えるわけないか。
「んしょっと……」
俺は腰を起こして立ち上がり、尻についた埃を手で払った。
「おっと、そろそろ行かないと、遅刻しちまうな」
「………………」
「じゃあ……そうだな。またお昼休みにな、長谷川」
「……はい」
そうして、俺と長谷川は、一旦ここで別れることになった。長谷川はさらに階段を登って行って、自分の教室へと向かって行った。
俺はそれを見届けてから、二階にある自分の教室まで歩いていく。廊下には元気な同級生たちで溢れていて、四方八方から喧騒が聞こえてきた。
「あー!やっべー!数学の宿題忘れたー!」
「なあなあ、今日って体育なんだっけ?サッカー?」
「ちょっとミカー!あんた寝癖ついてるよ~!」
人混みに紛れて歩く感覚も久しぶりだったので、なんだか妙に緊張してしまった。
(さて、これまた久しぶりの教室……か)
俺は教室の扉の前に立ち、緊張感を解すために呼吸を整えていた。
実は、俺が入院している間は、基本的に家族や長谷川以外との面会はしないようにしてた。その理由は、シンプルに俺のメンタルが不安定で、あまり人と会いたくなかったからだ。
いろいろと心がぐちゃぐちゃになっている時に、大勢の人と接する気になんかなれない。だから退院するまでは、家族と長谷川以外には会わないようにしたのだった。
もちろんみんなには、先生を通じてお見舞いには来なくていいと話していた。腕がなくなったという事情も、その時に一緒に説明してもらっていた。
「……よし」
心の準備ができた俺は、ついに左手で扉を開けた。
ガラガラッ
「おーすっ、おはよ~」
俺は教室の中にいるクラスメイトたちに向かって、挨拶をした。
するとクラスメイトたちが、俺の方へ視線をやった。友だちとケタケタ笑っていた男子たちも、アイドルの話で盛り上がっていた女子たちも、みんなこっちに顔を向けた。
──その瞬間、教室の中が、しんと静まり返った。
全員の顔が、強張っていた。さっきまで穏やかな朝の空気だったのに、いきなりピンッと張り詰めた雰囲気に変わってしまった。
「………………」
もちろん俺も、ある程度は予想していた。こんな雰囲気になることは。
だが、実際にこうしてクラスメイト全員の視線を受けると、やっぱりそわそわして落ち着かなくなる。
俺はそんな中、いそいそと教室の中に入り、自分の席へと向かった。
窓際の列の、前から三番目。そこが俺の席だった。
「よいしょっ」
俺は肩にかけてた鞄を、机の上に置いた。そしてその鞄を開けて、中に入ってる教科書やらノートやらを、机の中に仕舞い込む。
左手だけでやると、これがなかなか大変だった。両手だったら難なくできることなのに、片腕だけだと教科書とかって意外に重たい。四冊も持ったら、腕がぶるぶると震えてしまった。
「あっ」
無理をしたのがよくなかったんだろう。俺はその持っていた四冊の教科書を、床に落としてしまった。
(ちくしょう、めんどいなもう……)
心の中でそう毒づきながら、俺はその場にしゃがみ、教科書を拾おうとした。
その時、俺より先にしゃがみこんで、教科書を拾ってくれた人がいた。
その人はピンク色のロングヘアが特徴的で、小さな鼻に愛らしい瞳を持っており、誰が見ても美少女だと太鼓判を押すほどの容姿だった。
実はアイドルのセンターを張ってますと言われても、俺は全然、驚きもしないだろう。「そうですよね」と答える意外の回答ができない。
倉崎 桃香さん。それがこの人の名前だった。
「ありがとう、倉崎さん。助かるよ」
「ううん、全然気にしないで」
倉崎さんはその顔に似合う可愛らしい声で答えると、その場から立ち上がり、四冊の教科書を机の上に置いた。
「中村くん、ほんとに大変だったね……。私、何て言ったらいいのか……」
「ああ……いや、そんな」
俺は口ごもったまま、彼女と同じように腰を上げた。
「先生から事前に聞いてはいたけど……実際に目にすると、凄く……こう、言葉にできなくなっちゃうっていうか」
「ごめんよ倉崎さん、気を遣わせちゃって」
「ううん、違うの。私がただ、言葉に詰まっちゃってるだけ」
「………………」
「腕は、今は大丈夫?痛くない?」
「腕?えーと、そうだね……」
正直に言うと、希に幻肢痛が起きることもあるので、これはなんとも答えにくい質問だった。
幻肢痛は、長いと何年も治らずに続くことがあるらしい。気を揉んでくれてる倉崎さんにそのことを話すのは、なんだか申し訳ない気がした。
そんな俺の様子を察知したのか、倉崎さんが「ごめんね」と言って謝ってきた。
「まだ大丈夫なわけないよね。私、変なこと聞いちゃったね」
「いやいやそんな、気にしないでよ倉崎さん」
「でも……」
顔を曇らせている倉崎さんを見て、俺は少しだけ口元を緩めた。
「……ありがとね、倉崎さん」
「え?」
「いや、俺に気を遣って言葉を選らんでくれてるんでしょ?だから、優しいなって思って」
「そんな……私なんか全然。中村くんの方が、ずっとずっと優しいよ」
「俺が?」
「だって、後輩を助けるために、身を挺して庇ったんでしょ?普通できないよ、そんなこと」
「………………」
「何か困ったことがあったら、いつでも言ってね?私にできることがあれば、手伝うから」
「うん、ありがとう」
そうして、倉崎さんは俺から離れて、自分の席に戻っていった。
……久しぶりの学校生活は、思ってた以上に大変だった。
まず、ノートにメモを取るのが難しかった。入院中に左手で字を書く練習はたくさんしてきたけど、それでも利き手だった右手には、まだ全然敵わない。
ぐにゃぐにゃと子どものような字が、ノートに羅列されていく。苛立ちと虚しさを覚えながら、それでもなんとか書き進めていくしかなかった。
そして、その日は体育の授業がある日だった。種目はバスケだったが、当然隻腕の俺ができる競技じゃない。
先生から「見学してろ」と言われて、みんながバスケを楽しんでいるところを、俺は体育館の隅っこで眺めていた。
クラスメイトたちからは、腕のことについて触れられることはほとんどなかった。さすがにデリケート過ぎて、みんなも話題にしづらかったんだろう。
ただ、体操服から制服に着替える時に、友人から「大丈夫か?」って声をかけてもらったり、移動教室の時に教科書やノートを持っていると、近くにいた女子から「それ持つよ」と言ってもらえたりした。
みんなのさりげない優しさに救われながら、俺はなんとか1日を乗り切ろうとしていた。
……私、倉崎 桃香は、今日1日、クラスメイトの中村 礼仁郎くんのことを観察していた。
去年の秋に事故に遭って以来、4ヶ月近くの入院生活を経て、ようやく復帰してきた男の子。
中村くんと私は同じ保健委員ということもあって、時々話すことがある程度の仲だった。物凄く仲が良いかと言われるとそこまでじゃないけど、それでも顔を合わせれば挨拶するし、ちょっとした雑談もできる仲ではあった。
少しドジなところがあるけど、愛嬌と優しさが魅力的な人で、なんだか可愛らしい男の子だなって私は思ってた。
そんな彼が、右腕を切断するほどの大事故に巻き込まれたと聞いた時は、本当に耳を疑った。
中村くんは、間違いなく優しくていい人だと思う。事実、後輩を助けるために身を挺して守ったんだから。
そんな中村くんが、右腕を失うことになるなんて……。もし神様が本当にいるとしたら、私はずっと怒ると思う。どうして中村くんなんですか?お願いだから、中村くんのこといじめないでくださいって。
「おーすっ、おはよ~」
彼が教室に入ってきた時、私は正直言って、泣きそうになった。
話に聞くのと、実際に見るのはわけが違う。彼の右腕の袖がだらんと垂れているのを見て、胸が押し潰されるような感覚になった。
彼が教科書を落としてしまった時、考えるより先に身体が動いていた。すぐに助けなきゃって、反射的にそう思った。
「ありがとね、倉崎さん」
中村くんは、以前と変わらずに優しかった。私が上手く言葉を出せないことを、彼は優しいと言ってくれた。
こんなに優しい人が、辛い目に遭ってるところなんか見たくない。だから今日はもう1日中ずっと、中村くんを目で追ってた。
授業中も、体育の時も、移動教室の時も。
中村くんは何か困ったことがあっても、他のクラスメイトからフォローされていた。よかったと思いつつ、先を越されたのが少しだけ悔しかった。
(まあでも、これなら中村くんも、無事に学校生活を送れるかも)
そうして、私は心密かに、胸を撫で下ろしていた。お昼休み前の、四時間目の授業の時までは……。
「……それじゃあ、一回基本に立ち返って、円柱の体積と、円錐の体積の公式をそれぞれ答えてもらおうかしら」
四時間目は、数学だった。先生は黒板に円柱と円錐の図形を描いて、私たち生徒の誰かに体積の公式の答えを求めていた。
「えーと、今日は3月6日ね。ただ単に出席番号の3番と6番を選ぶのも芸がないから……3+6の9番!黒板に円柱の公式を書いてください」
出席番号9番は、私だった。てっきり3番と6番の人が呼ばれると思ってたから、数学の先生らしい選び方だなと思いながら、席を立って黒板の前までやって来た。
「それからもう一人は……3×6で18番!円錐の体積の公式を書いてください」
そうして選ばれたのは、出席番号18番の中村くんだった。
中村くんはガタッと席を立って、黒板の前まで来ると、先生は「あっ、そうだったわね」と言って中村くんに声をかけた。
「中村くん、文字は書けるかしら?難しければ、他の人に頼むけど」
中村くんは少し迷った顔をしていたけど、「とりあえずやってみます」と答えて、チョークを手にしていた。
私の方は、中村くんと先生がそのやり取りをしている間に、もう公式を書き終えていた。
このまま自分の席に帰ってもよかったけど、中村くんが書き終えるまでは見守ろうかなと思い、しばらくその場にいることにした。
カッ、カッカッカッ
中村くんは私の隣に立って、左手にチョークを持ち、たとたどしく公式を書いていた。
円錐の体積の求め方は、V=1/3πr²h。中村くんは、V=1/3のところまでは無事に書くことができた。
(よかった、なんとか書き終えられそう)
私がそう思っていた、次の瞬間……。
カキッ
中村くんはチョークを取りこぼして、床に落としてしまった。
慌てて彼はその場にしゃがみ、チョークを拾って、また書き始めた。
カッ、カッ、カッ……
彼の腕が、震えていた。額には脂汗が滲んでいて、唇も噛み締めていた。
もしかすると、πとかrとかの記号を書くのが難しいのかも知れない。
(中村くん……)
いつの間にか、私は手の平に汗をかいていた。
ごくりと生唾を飲んで、彼のことを見守っていた。
他のクラスメイトたちも、一切なにも話さず、黙って中村くんのことを見つめていた。
「………………」
カキンッ
また中村くんは、チョークを落としてしまった。
さっきと同じようにしゃがんで、もう一度立ち上がる。
「頑張って、中村くん」
私はその時、思わず声をかけていた。
「もう少しだよ、もう少しで終わるよ」
「………………」
中村くんはちらりと横目で私に視線を送った後、また黒板の方を見た。
そして、チョークを黒板に当て、続きの文字を書こうとして……そこで、彼は止まってしまった。
「………………」
中村くんは、泣いていた。
目からぽろぽろと涙が溢れていて、それが床へと落ちていた。
小さく鼻をすすって、顔を歪めて泣いていた。
「うう、ぐぅ……」
「………………」
「すん、すんすん……」
「………………」
辺りは、異様なほどに静かだった。彼のすすり泣く声だけが、この教室で唯一聞こえる音だった。
「………………」
気がつくと、私も泣いていた。右目からほろっと雫のように涙が垂れて……それが頬をつたっていく感覚があった。
そう、そうだよね。
確かに中村くんは、もう文字を書けるかも知れない。危なっかしくははあるけど、無事に1日を過ごせるかも知れない。
でも、腕を失った心の傷は、ずっと残り続けるよね。
辛くないはずが、ないんだよね。
「中村くん……」
私は彼のそばに近寄って、声をかけてみた。
中村くんは左手の甲で、何度も何度も涙を拭っていた。それでもずっと、止めどなく涙が溢れていた。濡れた頬が乾くことはなかった。
「……俺」
「………………」
「俺、恥ずかしい……」
「………………」
「満足に、文字も、書けないなんてさあ……」
「………………」
中村くんの絞り出すような声に、私は胸がズキズキと痛んだ。
そんなことない。
恥ずかしくなんかない。
中村くんは、人の命を救って、その結果こうなったんだから。何も恥じることなんてない。
むしろ、中村くんは立派だ。立派だよ。私はそう思うよ。絶対絶対、恥ずかしくなんかないよ。
「………………」
彼にそう伝えたかったけど、一言も言葉にはならなかった。
泣いている彼の横顔を、ただ見つめることしかできなかった。
……この時私は、自分の胸に誓ったことがあった。
中村くんのことを、支えたい。中村くんのために、尽くしたい。
優しい中村くんに、優しい出来事が返ってきて欲しいって、そう願った。
これが私にとっての、中村くんへの想いのスタートだったかも知れない。
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