第2話 約束

あの日から一月が経過し、また当番の日が巡ってきた。初夏の風が窓から吹き込み、空っぽの図書室のカーテンを、ふわりと揺らす。

私は先月と同じようにカウンターの前に座るソレの隣に居る気にもなれず、暇潰しに大して汚れてもいない床の上で箒を滑らせ続けていた。


図書委員の仕事は、主に生徒対応と、図書室内の掃除である。しかし、昼休みは兎も角、私たち一年生が当番の担当である放課後に、本館から離れた場所にある図書室をわざわざ訪れる生徒は極めて少ない。だから私の仕事は、実質図書室内の掃除だけなのだ。


もう手当たり次第掃いたし、そろそろ終わりにしよう。そう思った私は、箒を脇に抱え、カウンターの横にある掃除用ロッカーへと足を運んだ。そして運び次いでに、ソレの様子をちらりと伺ったそのとき。


箒は私の手から滑り落ち、床にぶつかった。

硬い音が薄暗い図書室に響く。しかし、私にはその落ちた箒を拾う余裕もなかった。

顔を上げて、不思議そうに私を見つめるソレの腕に、不穏な赤色を見つけてしまったからだ。

不自然な程白い肌に、赤く丸い痕がいくつも刻まれている。それが何かを悟るまでに、時間がかかるほど私は綺麗ではなかった。根性焼きだ。


「……ねえ。」


思わず話しかけると、ソレは私を見上げたままこてんと首を傾げて、微笑みを顔に浮かべた。そのどこか無邪気な見える微笑は、妙に癪に障るものであった。


胸がざわつく。もう永瀬 宙とは、関わらないと決めたはずだったのに。私の意志はなんと薄弱なのだろう。

しかし、困っている人が居るというのに、それを見過ごすのは私の性格が許さない。

ソレが例え、人ではなかったとしても。


私は深く息を吸い、心を決めた。


「その腕、どうしたの。」


「そんなこと聞くなんて、茜チャン、ワタシのことが好きなの?」

ふふっと笑って、答えをはぐらかすソレに、私は思わず声を荒げる。


「いいえ、好きじゃない!あなたのことは全然好きじゃない!でも、だからといって虐めは見逃せない!」


勢いよくそう口にすると、ソレは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに口元を緩めた。


「ねえ、ワタシ、前より、この星のヒトらしくなったと思わない?」


私の観察を楽しんでいるかのように浮かべたその笑みは確かに、以前よりもずっと自然だった。


「今は関係ないでしょう。いいから、怪我の理由を教えて。」


私は真っ直ぐ彼女の目を見つめた。逃げ道を塞ぐように。

するとソレは、腕を見せつけるようにして、ゆっくりと掲げた。


「これのこと?」


彼女は痕の一つを指でなぞるように触れ、柔らかく笑う。


「愛されている証拠でしょう?」


その言葉に、私は思わず息を呑んだ。


「……どういう意味?」


「恋人がつけてくれたの。煙草で。」


電撃のような驚愕が、私の心を支配した。


「コイビト?」


「うん、恋人。誰かは言えないのだけれど。」


ソレは腕を下ろし、先程と同じ笑みを浮かべながら言葉を続ける。


「ワタシ、もっとこの星のヒトみたいになりたくて。『恋愛』をしてみることにしたの。これはあのヒトがくれた、恋情の証。」


「違う!」


私の声が図書室に響く。冷静を保つことができなかった。


「そんなものは愛じゃない!人を傷つけることが恋情の証だなんて、間違ってる!恋情は……もっと、互いに思い遣るような、温かい感情なんじゃないの?!」


彼女はその言葉に少し驚いたようだったが、すぐにまた、あの癪に障る笑みを浮かべた。


「じゃあ、友情と恋情の違いってなあに?」


答えに詰まる私に、ソレは心底不思議そうに首を傾げながら畳み掛けた。


「茜チャンの言う、その互いに思い遣る感情は、『友情』のことじゃないの?少なくともワタシの星では、それは友情と呼ばれてた。


ワタシはね、互いに傷つけあうことが、この星独自の感情である『恋情』の特徴だと解釈したの。

例えば、日本の伝統芸能の歌舞伎だと、思いの叶わぬ男女が互いを殺し合ったりするのでしょう?確か、心中っていうんだっけ。

それに、人気のラブソングには、『好きすぎて痛い』といった趣旨の歌詞が多く含まれてた。


総合的に考えて、傷つけあうのが恋情の本質だと解釈するのが自然だと思ったのだけれど。

でも、違うの?じゃあ恋情ってなあに?」


「そ、それは……感情は、そんな簡単に言語化できるようなものじゃないし……」


口籠る私を、彼女はくすくすと笑う。


「なあんだ、茜チャンも、何が恋情なのかよく知らないのね。なら、コレが恋情の証ではないなんて、断言できる理由はどこにもないじゃない。

あのヒトは私のことを、愛してくれているんだよ、多分。」


その言葉に、私は衝動的に叫んでいた。


「別れなよ!」


静かな図書室に私の声が響く。


「もう、別れなよ!恋情なら、私が教えてあげるから!」


気づけばそんな言葉を口にしていた自分に、心の中で呆れる。

ただ、彼女をこのままにしておいてはいけないという思いだけが、私を突き動かしていた。


「でも、茜チャンも何が恋情なのかなんて……」

「そんなの永瀬さんと私で、これから一緒に答えを探していけばいい話でしょう!」


ソレの声を遮ってから、やってしまったと思った。

ああ、私の悪癖だ。言わない方がいいと分かりきっていることを衝動的に言ってしまって、結果的に自分を追い詰める。いつもそうだ。


彼女は少し目を細めて私を見つめると、意外なほど素直に頷いた。


「ふーん。分かったよ。じゃあ、茜チャンが教えてくれた恋情に納得がいったら、カレシとは別れることにする。」


ほっと胸を撫で下ろした私の手を掴んだソレは、私にこう言った。


「でも、茜チャンがくれた答えに納得がいかなかったら、この約束はナシだからね。


ねえ、茜チャンも私を名前で呼んでよ。これから恋情を教えようというのに、その相手をいつまでも名字で呼んでいるなんて、変でしょう?」


「……分かったよ、宙。」


ニコリと満足そうに笑う宙とは裏腹に、私は今更ながら不安を覚えていた。


私は物心ついたときから、恋愛なんて一度もしたことがない。

自分から言いだしたことではあるが、恋情を教えるだなんて、そんなこと本当にできるのだろうか?


それでも、もう引き返せない。

こうして、私と彼女の奇妙な関係が始まった。このときの私の選択が、どんな結果をもたらすのか、そのときの私には知る由もなかった。

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愛を知らない宇宙人と、恋を知らない地球人 松 悠香 @matsuharuka

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