北部、アヴィサルとゲルソールを東西に分けるノール川の岸辺には、樹海が広がっていなかった。寒さのために植物が北上しなかったからである。しかし、ノール川には樹海の代わりに、重厚な壁が一分の隙も無く並んでいた。これは、この地が二百年の長きに渡り、〈主戦場ゲルソール〉となっていた名残であった。

 奪っては壁を建て、奪われては取り返し、また壁を建て。その繰り返しで、ノール川の両岸は南の樹海から北の山岳部に至るまで壁で囲われ、長城と化していた。

 それぞれの時代、それぞれの為政者の思惑により建てられた壁は、場所によって材質も異なれば、構造も異なっていた。それらの壁どうしは無理やり繋げられ、その上から補修と改修が重ねられ、複雑な歴史と共に絡み合っていた。

 今は、両岸ともジュードヴェル王国の領地となっている。


 翌朝、ファーラル軍は日の昇らない時間から要塞を発ち、長城の橋を越えてアヴィサルの地に足を踏み入れた。

 アヴィサルは、真っ白な平地が広がっていたゲルソールとは異なり、ゴツゴツとした黒い岩場が多く点在していた。中には二十メートルに及ぶ岩が尖塔のように立ち並び、周囲は厚い巨岩で囲われ、ある種の要塞を形作っているものもあった。実際、数百年前の人々が岩に穴を掘って生活していた痕跡も残されていた。

 この地域は一年を通して降水量も少なく、ほとんどが晴天であったが、山から吹き降りてくる強烈な北風が常に吹き荒れていた。


 ファーラル軍は、黒い巨岩の間を縫うように走る灰色の道を突き進んでいた。岩は元からそこにあったものと、風よけのために持ってこられたものが入り混じり、道幅が真っすぐに整えられた道と、狭くなったり広くなったりを繰り返す屈曲した道、時には岩窟の内部を通り抜けながら進む道もあった。

 岩の壁が切れて無くなる場所では、一トンの車両をものともしないで引く剛腕のヨライバですら突風に煽られ、足止めを食らうことがあった。それでも、概ね順調な行軍を続けていた。


 ギルたちは車から降ろされ、周囲よりも一段高い、岩の寄せ集めのような高台を登らされていた。高台には古い急階段があり、長年風に晒されたせいか、角が削られて幅が狭く、また滑りやすくなっていた。

 階段の先、高台の頂点には真っ黒の円形の塔が立ち、岩以外何もない荒野を見下ろしていていた。塔の頂上では旗が強風に曝され、千切れんばかりに激しくはためいていた。

 真っ赤で金色のフリンジを持つ旗にはジュードヴェル王国の国章が描かれていた。中央に六つのひし形で形作られた白と黒の三神花さんじんか、それを囲うように下部の尖った三角盾──十字が引かれ、左上と右下は赤、左下と右上は白地に赤の薔薇模様──があり、さらにそれらを一枚の巨大な葉と月桂樹の輪が囲い、一対の杖──蔓が巻き付いている──が中央で交差し、最上部では金の王冠が輝いていた。


 ギルは塔を見上げ、その奥には何があるのだろうかと思った。

 ギルたちは目的地も何も聞かされず、ただ命令に従って車を降り、半数は高台の下に残され、高台を回り込むように先へ進み、半数は重い荷物を持たされ、階段を登らされていた。

 ギルはユーグと共に食糧の箱を運び、ミラはギルの隣で植物の種が詰まった麻袋を抱えていた。兵士の間からは当然不満の声が上がり、ここはどこなのかと話し合う声も少なくなかった。

 ギルは早々にそれを考えることを諦め、どこであろうが生き残ろうと自分に言い聞かせていた。


 階段の七合目辺りまで来たとき、どこからともなく、ジュメル遺跡という単語がギルの耳に飛び込んできた。遺跡と聞いてこれから戦になると分かっていながらも、ギルの胸は大きく高鳴った。


「ジュメル遺跡って聞いたことあるか?」

「ないな」

 ギルの問いに、ユーグは箱の重さに喘ぎながら答えた。

 ギルはミラに聞いたつもりだった。


「お前じゃない。ミラに聞いたんだ。なあ、ミラ」

 ギルは胸を反らして、背後にいるはずのミラに聞いた。

 ミラは全く話を聞いていなかったようで、ギルに何の話かと聞き返し、ギルはもう一度質問した。

 一方のユーグは「だろうな」と言ってうつむき、少し不貞腐れたようだった。


「どこかで聞いたことあるけど、ちょっと待ってね」

 ミラは記憶を辿るように上を見つめ、しばらくすると、「あっ」と何かを思い出し、話し始めた。


「たしか、まだ樹路ができる前の、三百年とか四百年くらい前に栄えた都市だったと思う。いつ滅んだのかとか詳しいことは全く知らないけど、一つ有名な伝説があったのを思い出した」


 ギルは話に気を取られ、足を滑らせた。ギルは何とかギリギリで踏みとどまり、箱を階段下に落として仲間たちを押しつぶさずに済んだ。

 ギルは冷や汗をぬぐい、ユーグの文句を甘んじて受け入れた。今は言い争いより、ミラの話に興味があった。


「それで、どんな伝説なんだ?」

 ギルは足元に気をつけながらも、耳だけはミラの話に集中していた。

 周囲にいた兵士たちも話すのを止め、会話に耳を傾けているようだった。


「百年くらい前の話なんだけどね、とある探検家の一団が調査のためにこの遺跡を訪れたらしいの。調査のことは公式記録に残っているんだけど、規模は文献によってまちまちで、十人とも五十人とも言われてる。だけど、二か月が経った時、帰ってきた探検家は一人だけになってた。彼は心身共に衰弱しきっていて、口もきけない状態だった。家族が親身に看病を続けたんけど、男は結局一度も口をきかずに、一か月後、自分の部屋で首を吊ってしまった」

「それじゃあ、探検家に何があったのか謎のままなのか?」

 ギルは興奮気味に尋ね、ミラは首を振った。


「男の部屋の机の上には一枚の手紙と絵が残されてた。手紙は家族への感謝と謝罪、そして仲間たちへの贖罪が書かれていたみたい」

「それで、絵にはなにが……?」


 今やギルだけでなく、他の兵士たちも固唾を飲んで話の続きを待っていた。その証拠に、その一帯だけ進みが遅く、前の集団から離され始めていた。


「描かれていたのはね、糸くずみたいなものが寄り集まった人型の何かだったの。鉛筆で何重にも線が引かれていたみたい。そして、その横に『おれ』っていう文字だけが殴り書きされていたそうよ」

 ギルはその怪物を頭の中で描いてみたはいいが、斜線が引かれた影みたいな男しか想像できなかった。


「俺ってどういう意味なんだ?」

 ユーグが尋ねる。


「わからない」

 ミラは肩をすくめた。


「ふうん。それで、そいつはどうなんだ? まさか、いないよな……」

 ユーグは高台の先に不安そうな視線を投げかけながら言った。


「たぶん、いないと思う。ちょうどその時期、大寒波が来てて北部はほとんど人が住めないくらいだったから、調査しようにもできなかったし、寒波が開けた後、訪れた人の話では、人型の植物はおろか生命の痕跡すらなかったって話よ。だから、もしかしたら、その怪物はいたかもしれないけど、大寒波には勝てなかったってことじゃないかな」

「だといいけどな」

 ギルは一抹の不安を覚えながらも、その怪物の姿を見てみたいという気持ちもあった。もし出会ったら勝てるだろうかと、妄想の中で戦闘を繰り返していると、ユーグが安堵の声を上げた。


「ようやく着いたぞ」


 ギルは我に返り、周囲を見渡した。高台の上は楕円形をしていて、地面は黒い石レンガで舗装されていたが、そのほとんどがひび割れ、隙間にはカラカラに乾燥した、くすんだ黄緑色の雑草がわずかに命を繋いでいた。しかし、その雑草も兵士たちに踏みつけられ、風に吹かれて散り散りとなって消え去った。


 高台の周囲には胸壁が建てられ、先に来た兵士たちが張りつめた様子で見張りをしていた。ギルたちの正面、胸壁の先にはもう一つ高台があり、そこにもこちら側と同じような塔が建っている。


 ギルは荷を下ろすと、真っ先に胸壁へ走って行った。背後からは、ユーグとミラが止めながらもギルを追いかける。それを見た他の兵士たちも後に続いた。

 ギルは胸壁に身を乗り出し、息を呑んだ。


 そこには、噂の通り遺跡があった。遺跡は塔が立つ高台と高台の細長い隙間を埋めるようにして建ち、双子の塔と同様に黒く、太陽光をヌラヌラと不気味に反射していた。その古代都市を上から見ると、さながら汚染されたどぶ川が流れているかのようだった。


「おいあれ」

 兵士の一人が反対側の塔の先を指さし、声を上げた。兵士たちは、一人また一人と塔の先を見つめ、思い思いの声を上げた。


 兵士たちの視線の先には旗があった。しかし、そこに翻る旗は、赤色でも金色にも光っていなかった。それは塔や眼下の都市と同じく漆黒の色をしていた。

 旗の中央には丸と、それを囲むように輪があり、真ん中で緩やかに折れ曲がった四つの線が、丸を中心に輪と重なるように輪の四方に配置され──下の二つの線は上に比べて長い──、全体像を見ると十字を描いていた。


「あれは俺でも分かるぞ。やつらの旗だ」

 ギルはその旗を睨みつけ、塔の上でこちらを窺っている敵兵を見つけると、眉根を寄せ、険しい顔つきでその兵士を眺めた。

 思わず、塔の上の兵士の姿にリックとアレッサの面影を重ねてしまったからだった。


「陰気な所ね……」

 ミラはあの伝説の植物を探すかのように、遺跡を隅々まで観察していた。


「俺たちはここで戦うのか?」

 ユーグは遠い目をして呟いた。その視線の先にはアレッサの姿があるのだろう。

 ギルはその横顔に何と声をかけるべきか分からず、ただひたすらに遺跡を見下ろした。ギルはこちら側の高台の麓、その遺跡の中で黒い影が建物の壁に沿ってジグザグに動いているのが目に留まった。

 例の怪物ではないかという期待と、そうであって欲しくないという恐怖を胸にその影を目で追った。影は向こう側の塔へ向けて移動している。ギルはそれがすぐに、兵士であることに気が付いた。

 ギルは唾を飲み込んだ。そして、怪物を見つけた方がまだましだったのではないかと強く思った。


「集まれ‼」

 背後から怒号が飛び、兵士たちは名残惜し気に胸壁の側を離れていった。


 その足元には、漆黒の廃都においてもなお暗い影が落ちていた。

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