第三章 悪魔
1
車窓の向こうでは赤一面の平野が広がっていた。例年、秋を迎えると、紅葉が火を付けたように燃え広がる。その景色を見た遥か昔の人間が、この地を〈
その未だ強く燃え盛る平野には、黒い一本道があった。その道は森林、池、低木、茨などを迂回し大きく蛇行しながら続いていた。
道の上には赤い旗に三角形の紋章を掲げた一団がいた。彼らは長年の研究により巨大化に成功させたヨライバという植物に十メートルの車両を引かせていた。
ヨライバは何本もの太い茨の集合体のような植物で、その長い体躯を回転させることで移動する。それぞれの茨は複雑に絡み合い、柔軟性に富んだ枝で接合されている。枝は接合部以外にも生え、それは硬く、三つに枝分かれし、先端が人の足のように平らになっており、その足で地面を蹴って前進する。
原種とは違い、改良種は節や屈曲がなく、三から四本の真っすぐな蔓が枝で繋がり、あみだくじのような形状をしている。そして、蔓の端と端が絡まり合うことで、一つの巨大な車輪が出来上がる。
車両を引くのは全て発情期のオスであり、それはこの時期のオスがメスのフェロモンを嗅ぎつけたときに発揮する力の強さにあった。
車両は全長十メートルで、イムルクリサーという広葉樹の厚い板材で覆われている。イムルクリサーは硬く、防水、防火、爆破耐性に優れ、鎧や盾、重要施設の建材として利用されている。
ただし、他の木材に比べてかなり重く、平均して四から五倍に及ぶ。そのため、車両は一トンを超え、さらにそこに兵士や兵器などが乗ることになるが、ヨライバは気に止めることなく、ただ頭上に掲げられた、メスのフェロモンを追いかけ続ける。
乳白色の車両は三両続き、三体のヨライバが引く。それが二十を超え、一列になって兵士と物資を運んでいる。
その中央やや前方、一両目には兵士が乗り込んでいた。ワインレッドの座席は二人掛けで二列あり、四人が対面するように座っており、座席の幅は膝がぶつかり合うほどに狭かった。兵士はそこに五十人ほどが詰め込まれ、狭苦しさに耐えながら、すでに二日間、車に揺られていた。
出発時には重苦しく張りつめ、汗のツンとする臭いの立ち込めていた車内も、起伏のない平穏な平野とゴトゴトと揺れる車、もわっとする生暖かい空気によって、兵士たちは深い眠りの世界に誘われていた。
そんな中、未だ眠りに誘われることなく、車窓の景色、平野のその先に広がる戦地に目を向けている兵士が一人いた。
彼は窓下に肘をつき、窓ガラスには彼のうねった黒い前髪が彼の意思とは無関係にくっついていた。彼の目にはあの八月の初戦前のような闘志や高揚感はなかった。初めての地へ赴く僅かな好奇心と、残りは迷いや不安といった彼らしくない感情でうめられているようだった。
ギルはおもむろに腕を上げて、体を伸ばし、うーっと声を上げた。ギルが腕を下ろすとき、肘が横に座っていたユーグの肩に当たった。
「──わりい」
ギルは当たった腕を引っ込めた後でユーグに謝った。
しかし、ユーグは顔色一つ変えず、前に座っているミラの頭上にある、何もない背もたれ部分を見つめ続け、「ああ」と短く答えた。
ギルはあからさまに顔を引きつらせた。そして、救いを求めるかのように前の座席に目を向ける。
ミラは背中を丸め、膝の上で小さくうずくまる両手をただ見つめていた。ユーグの視線があるからなのか一切顔を上げようとはしなかった。ミラの横にはシャルが座り、外の景色を上の空で眺めていた。
この二日間はずっとこの調子だった。互いにほとんど口を利かないのはおろか、視線さえほとんど交わしていなかった。ギルは人生で初めての気まずさを感じていた。何か言葉を発することがここまで躊躇われるのは初めての経験だった。これまで、自らの言動や考えに疑問を抱くことが無かっただけに、初めて生じた戸惑いにどう対処したらよいのか分からなかった。
四人は火祭りの日、シャルの部屋のバルコニーで起こった事件の後、ほとんど顔を合わせていなかった。シャルは父親の命令で兵舎から城の自室に戻されて謹慎を、シャルと同じく抵抗したユーグは三か月間、囚人たちと共に強制労働をさせられた。あの日抵抗しなかった、ギルとミラは緘口令を言い渡されただけで済んだが、二人は顔を合わせても話すことはせず、ギルは訓練所に、ミラは図書館に籠った。
アレッサがどうなったのかは誰も知らなかった。これはシャルにも教えられていないことだったが、どこからともなく広まった噂では地下牢に閉じ込められ、日夜拷問されているという話だった。夜中に女の悲鳴を聞いたという兵士もいて、しばらくはその話でもちきりだった。
ギルはアレッサの噂話を面白おかしく話す兵士たちのことを思い出し、怒りと嫌悪が湧いてきた。しかし、自分でもなぜそう感じているのか分からなかった。自分は悪魔に裏切られた被害者で、アレッサに怒るべきはずなのに、アレッサに対しては何の怒りも湧かなかった。リックに対しても同様だった。悪魔とは何なのか。その疑問が、ずっとギルの頭の中でグルグルと回り続けていた。
ギルは頭をかきむしった。
こんなんじゃだめだ。今から、その悪魔と戦いに行くのにこんなんじゃだめだと、自分に言い聞かせる。
「ギル……」
シャルがギルの腕に触れた。
ギルは頭をかくのを止め、顔を上げた。
三人の視線がギルに注がれていた。
ギルは口をきつく結び、何事もなかったかのように窓の外に目を逸らした。ギルの指は自らの唇を強くつねっていた。
ギルは腹立たしくて仕方がなかった。それは、三人の視線が自分のことを馬鹿にしているように感じられたからだった。
あの日、シャルとユーグはアレッサとリックを逃がそうと動いたにも関わらず、自分は全く動けなかった。シャルとユーグは罰を受け、自分は受けていない。あの時、自分が動いていたら何かが変わっていたかもしれない。ギルはそう自問自答し続け、負い目は深い傷となり、彼の純粋だった眼を曇らせ歪ませてしまったのだった。
「ギル」
シャルが再び呼びかけた。
「──なんだよ」
「いや、なんでも」
シャルは一度何かを言おうと口を開きかけたが、ギルの声を聞いた後、再び顔を伏せてしまった。
ギルは鼻から息を吐き出し、腕を組んだ。
「ギル」
シャルは三度、呼びかけた。ギルは頭を窓の方に傾け、シャルを睨みつけた。
「──俺を怒らせたいのか。なんのつもりなんだよ」
ギルの声はひどく低かった。
それを聞いたミラは小さく縮こまり、ユーグも少し通路側に体を寄せた。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど。言いたいことがあって」
シャルは顔を下げ、話しながらチラチラとギルの様子を盗み見た。シャルのその行動が余計にギルを苛立たせた。
それでも、ギルは何も言わなかった。
シャルはその態度を話してもいいと捉えたのか、ゆっくりと口を開いた。
「──話をしよう。みんなで」
ギルはまたふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
誰の顔を見れば、話をしたいと思えるのか。ユーグは抜け殻のようだし、ミラはこれまで以上に怯えている。誰が話なんかしたがるかと、ギルは思った。
「今の僕らに必要なのは話すことだと思う」
シャルはギルたちの顔を見ながら言った。
ギルはそんなことできるわけがないと鼻を鳴らし、外の赤い平野に視線を戻した。そのとき、ユーグの膝がギルの膝に当たった。
「なにを話す?」
ユーグは聞いた。
ギルは驚いた。
ユーグがシャルの戯言に乗っかってくるとは思わなかったからだ。
「何でもだよ。かつての僕らは何でも話してた。嬉しかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、そして、話す価値もないくだらないことも。
話は尽きなかった。永遠に話していられると思うほどに」
シャルを含めた全員が視線を落とし、そこに並んで揺れ動く、八本の足を眺めた。
ギルは六人で馬鹿みたいに騒いでいたときのことを思い出していた。
教室で、廊下で、食堂で、兵舎で、街で。
つい数か月前までは当たり前だったその光景が、もう何十年も昔の出来事にように思われた。一人は地下牢で、一人はどこかの彼方へ。もう二度と戻らない、その光景に思わず胸が一杯になった。
ギルだけではなかった、シャルもユーグもミラに至っては涙を堪え、かつての日々に思いを馳せているようだった。
「──そうだよな」
ユーグがこの沈黙を破った。そして、そうだよなと繰り返し呟いた。それは自分に言い聞かせるように、噛み締めるように繰り返していた。
「俺の、話をするよ。俺が罰をくらってる間、何があったのか」
ユーグの表情はまだ曇ったままだった。それでも、その声には僅かに精気があった。
「うん。ぜひ聞きたいな」
シャルは口元に笑みを浮かべていた。
ギルも不思議と嬉しさがこみあげてくるのを感じていた。何がそんなにも嬉しかったのかは分からない。それでも、ギルにとってはここ数か月で一番、心が満たされた瞬間だった。
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