25 シャルル
「ハア……。休もう、ギル。午前中からずっと歩きっぱなしだ」
僕は壁にもたれ掛かり、鞄から緑がかった半透明の巾着のような袋を取り出した。中には水が入っていて屋台で買ったものだった。
それを飲み干して一息つくと、暗闇に佇む大神殿を見上げた。神殿は巨大で、直径三メートル、高さは十五メートルほどの真っ白な大理石の柱に支えられていた。柱の中央部分が膨らむように作られていて、下から見上げた時に柱が真っすぐに見えるようになっているらしい。
柱は横に長い長方形の基盤の上に建てられ、今いる神殿の正面には柱が十二本ある。外周に並んでいる柱は全部で三十六本。その内部にはさらに多くの柱が立っている。その様子から純白の森とも呼ばれていて、森の最奥には炎を祀った祭壇があり、灯りが木々の隙間から漏れ出している。
言い伝えだと、この炎は千年以上もの間絶やされたことがないらしい。にわかには信じがたいけど、もしそうならあの炎は一千年の歴史をこの丘の上から見下ろしてきたことになる。そう考えると神秘的で、途方もなく、まさに神を祀っているんだなと思わされる。
ギルは巨大な大理石の森に足を一歩踏み入れ、天井を見上げていた。ギルが戻ってくるまでは休めるなと思い、その場に腰を降ろした。靴を脱いで蒸れた足に夜風を当て、つりそうになっている土踏まずをほぐす。
ギルは呆れるほど体力に限界がない。屋台で順番待ちしているときか、何かを食べているとき以外はずっと動きっぱなし。
その気力、もらえるならもらいたいよ。
しばらくは力なく、呆然と神殿前の様子を見ていた。神殿前には低めの壁と小さめの門があり、神殿と門の間には芝生が敷き詰められ、小さな公園のようになっていた。芝生はたくさんの水分を含んでいて柔らかく、座るとクッションの上でくつろいでいるようで気持ちがいい。
この時間は人が少ないので、座ったり寝転んだりしている人もまあまあいる。ほどよい暗さと疲労とが相まって眠りに落ちるのは時間の問題だった。
それでもなんとか頭を起こしていると、続々と人が集まってくるのが見えた。
もうそんな時間か。広場に戻らないとなあ。みんなと合流できなくなる。だけど、もうここから動きたくない……。
「シャル!」
その声で目が覚めた。
どうやら寝てしまっていたようだった。起きると、辺りには寝る前とは比較にならないほどの人が集まってきていた。
「そろそろ始まるみたいだぞ。前に行こう」
ギルは僕の立て膝をパシッと叩いた。
「行くぞ」
「あー、うん」
僕はぼんやりする頭を起こしながら、ギルが人を掻き分けて作った道に押しつぶされそうになりながら進んだ。
突然ギルが止まり、僕は思いきりギルの背中に衝突して、変な声を出してしまった。一瞬、恥ずかしい思いをしたけど、その声は誰も──ギルでさえも──聞いていなかったみたいなのでよかった。
「ほらシャル、来たみたいだぞ」
ギルが振り返った。
「俺はこれ、初めて見るから楽し──」
ギルの言葉は人々の歓声の声でかき消された。
ギルはすぐさま体を反転させ、首を伸ばす。
僕はギルの肩越しに顔を出した。目の前には神殿に続く大理石の道があり、その道にだけは人がいなかった。
神殿の方へ目を向けると、ちょうど神殿の正面、中央にある二つの巨大な柱の間から、巨大な蝋燭のようなものが現れた。それは普段は神殿の中央に安置されている祭壇で、今は車に乗せられ、三十人以上の屈強な男たちによって運ばれていた。
男たちは純白の法衣──ローブのように全身を覆い隠し、胸元には火の神フーの紋章である赤い三角形が刺繍されている──のを身に纏い、フードを深くかぶっていて顔は見せていない。腰には金のベルトを巻き、柄が金、鞘は白の剣を差している。彼らの他にも白銀の鎧を身に着けた男たちが祭壇を取り囲むようにして守っている。
祭壇は六本の柱が円形に並び、その上に六芒星の台座、さらにその上には黄金の器が乗っている。器の上からは巨大な炎が上がり、火の先端が神殿の柱の先に達するほどだった。祭壇は大理石で造られ、その表面は鏡のようになるまで磨かれ、炎を反射してヌラヌラと揺れ動いて見えた。
祭壇の中心部、柱の中央には、頭部大のガラス玉が固定され、その中では真っ黒で歪な球形の石が静かに鎮座しているはずだ。以前近くで見たときには、その石は影や闇よりも暗く、ひょっとするとあの暗室よりも暗いのではないかとさえ思えた。それほどまでにその石は光を反射しない。
祭壇が目の前を通り、柱の隙間からガラス玉の中を覗いて見た。しかし、そこにあったのは闇だった。まるで空間そのものにぽっかりと穴が開いてしまっているようだ。
僕は空間のその先を覗いているような気分になり背筋がゾッとした。そこには何かずっと根源的な恐怖があったように思う。昔の人たちも同じようなことを思ったに違いない。だからこそ、こんなにも巨大な神殿を建てて祀ったし、天から飛来してこの地に蔓延っていた植物を焼き尽くしたという伝説があるのも納得できた。
実際、神殿の下には降臨の証拠とされる巨大な穴が未だに当時のまま残されていて、この地で最も神聖な場所とされている。それ故に王や大司教ほどの地位の持ち主にしか踏み入ることを許されていない。僕でさえ入ったことがないし、この存在自体も一部の貴族にのみに明かされ、それ以外の人たちにとっては半ば都市伝説扱いである。何があるのか父さんに尋ねても、絶対に何も答えてくれなかったし、何かがあるという事実すら誰にも言うなと強引に約束させられた。あまりの権幕に僕はうなずくしかなかった。
そして、そこに眠っているのはただの跡地だけではないのだとすぐに理解した。きっと、常識の範囲外にある〝なにか〟なのだと思う。もはやここまで来ると知りたくなかった。知らない方が幸せなことはいくらでもある。これだってきっと知らない方がいい類のものなのだから。
あれこれと考えているうちに、祭壇は僕らの前を通り過ぎようとしていた。そして、祭壇の後ろには大司教の姿があった。
大司教様は少しお腹の出た初老の男性で、三角の赤橙色のミトラを被り、白の法衣に、ミトラと同じく赤橙色のストラを首から下げている。ミトラには三角の紋章が施され、外形は金色、内側は深紅色を呈していた。さらに、手には金色の杖を持ち、その先端にも小さな火が灯されていた。司教様の表情は、いつになく真剣そのもので、普段の人好きのする穏やかな笑顔とは遠くかけ離れていた。この人もこんな表情をするんだと妙に感心してしまった。
大司教様の周りでは、特に大柄な男たちが脇を固め、いつでも斬りかかれるよう、剣の柄に手をかけている。ファーラルでは大司教の行進を妨げた者は問答無用で死刑だし、いかなる理由があろうと行路に侵入した者も即座に切り捨てられる。だからこそ、ファーラルには、『悪魔でさえ火の道は避ける』という言葉があるくらいだ。火の道は大司教が通る道のことで、悪魔は太陽崇拝──同時に火も崇拝している──のオズノルド人のことを指し、これほど的を射ている言葉はないと思う。
現に、誰一人として片足のつま先でさえも道を踏んでいない。どんなに興奮して叫び声をあげようとも、きちんと道に沿って並んでいる。
ふと僕が出て行ったらどうなるかなと考えてみたが、きっとあの守護者たちは僕が誰かを考える間もなく剣を抜いて、僕の細い体なんか真っ二つにしてしまうだろうな。
「シャル、もういいかな。通り過ぎたよな」
ギルは待ちきれずにうずうずとしていた。
「ちょっと待って」
僕はギルの脇から顔を出して司教様たちの動向を窺った。大司教様はちょうど門を越えようとしているところだった。
「なあ、いいよな」
「まだ待って。門を越えるまでは我慢してよ」
「えー」
「周りの人たちも動いてないだろ」
僕は呆れながら、周囲を見るように促した。
ギルがその人混みを見ているうちに、一行は門を越えていて、ギルのように我慢強くない人たちが動き出した。
「お、もういいな」
ギルは僕が答えるよりも前に道に飛び出した。そして、僕に着いて来いという合図をした。
「行くぞ」
「どこに?」
「どこって、決まってるだろ」
ギルはあり得ないといった表情をして僕を見つめた。
「広場だよ。急ごう」
「急いでも無駄だよ。どこに行っても、あの行列を見ようとこの人だかりだ。ゆっくり行こう」
僕は道の真ん中で息巻いているギルをなだめた。 もうこれ以上は走りたくない。何としてでもギルを止めないと。
「あのデカいのは広場に行くんだろ?」
「そうだよ。広場に行った後、城に行って、また同じ道を戻ってくる」
嫌な予感がした。
ギルがまた何かとんでもないことを言い出そうとしている。
「どうせ戻ってくるんだからさ、ゆっくり歩いている内にもう一回見れるよ。ね?」
「知ってるか、広場が一番盛り上がるんだってさ」
「城から戻ってくる二度目の方を見ればいいよ」
「いや、そんなに盛り上がるもの、二度見ないと損だろ」
駄目だ。もうこうなったら言うことを聞かない。このワクワクを隠せてない笑顔が物語ってる。
僕はため息をついて額を押さえる。
すると、ギルに僕の手ごとおでこをグイっと押され、また無理やり前を向かされた。そして、いつものあの笑顔だ。
ずるいよギル。そんな顔されたら行かないわけにはいかないだろ。
「行くぞ、シャル」
はあ、分かったよ。行けばいいんだろ、もう。
「ほら」
ギルが僕の腕を引っ張った。
「分かったよ」
ギルは軽快に走り出し、僕は重たい脚で後を追いかけた。
人々の間をすり抜け、門を抜ける。数メートル先には、祭壇が炎を上げながらゆっくりと坂道を下っていた。その周りにはたくさんの人々が寄り集まり、一緒になって移動していた。その集団は道の端から端までを埋め尽くし、とても通り抜けられそうにはなかった。ギルもそれを見て立ち止まる。
「なんだよ。あれじゃあ通れないじゃんか」
「みんな火の粉を浴びに行ってるんだよ。移動中はずっとあのままだけど、どうする?」
僕はそう聞いたけど、答えはもう分かっていた。余計に疲れるけどそうすることになりそうだ。
「そりゃあ、シャル。裏道しかないだろ」
ギルは裏道に通じる狭い道を指さした。
「やっぱそうだよね」
この町の裏道は複雑に交差し合っていて、ほとんど迷宮のようだと言われている。この町自体が二つの丘──ファーラル城と大神殿が建っている──の斜面に作られていて、高低差が激しい場所がいくつもある。さらに歴史の古い町でもあって、人口が増えるに従って、新たな家が次々に建てられ、古い町と新しい町が重なり合うようにしてできていた。それが数百年分積み重なっている。運が悪かったら、一生出て来られないかもしれないな。
僕の心配をよそにギルは心の底から楽しそうで、少年のような目をキラキラと輝かせている。多分、冒険だとか思ってる。
「とりあえず向きは、あっちだな」
ギルはおおよその広場の方向である南東を指さした。
「リミットはあの炎が広場に着くまでだ。それまでに裏道を抜ける」
「オッケー。楽しい冒険になりそうだ」
「ホントだよな! やっぱお前も楽しみなんじゃないか、シャル」
皮肉で言ったつもりだったんだけど、ギルには通じなかった。でも、少し興奮している少年の部分が全く残っていないかと言えば嘘だった。
制限時間と迷宮。これに夢中にならない男の子はいないよ。
「行こう、ギル」
「おう。のって来たなシャル」
僕とギルは互いに目を合わせた。
まるであの頃に戻ったようだった。訓練兵時代のあの頃に。ギルもきっと思い出しているに違いない。そのことが何となく伝わってくる。
僕らは息を合わせるまでもなく、自然とうなずき合うと、同時に裏道の暗く狭い道に向けて全速力で駆け出した。さっきまで鎧をつけているように重かったはずの体が、空気のように軽く、風に乗ってどこまでも飛んでいけそうだった。
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