23 バルドリック

 鬱蒼とした地下牢の見張りを終え、俺は真っ先に図書館へ向かった。恐らくはそこにいるだろうと思ったからだ。

 アレッサのやつはユーグと、ギルはシャルを誘って街に繰り出したに違いない。だとすれば彼女はこんな時でも一人でそこにいるに違いなかった。

 誰かが連れ出さなければ。


 俺は図書館に着いて扉を押し開けた。扉が軋みながら重苦しく開く。夕方のせいか、人が少ないせいか、そのこだまする音にいつも以上の空虚さを感じて身震いした。

 こんな時に思い出すのは決まって、最も古い記憶だった。


 目に映るのは猛烈な吹雪とその背後で幽かに揺れる炎と建物の影。雪は膝下まで降り積もり、手はかじかんで真っ赤に染まり、耳や鼻にはもう感覚がなかった。そして泣いていた。

 なぜそんな所に立っていたのかも、その場所がどこなのかも、泣いていた理由も、何一つとしてその記憶が語ってくれることはなかった。だが、自分がその時感じていたのは、途方もない絶望感と激しい空虚感だったことは間違いなかった。


 俺ははっとして、自分が扉を開けたままそこに立ち尽くしていたことに気が付いた。扉の隙間から顔を覗かせ、中を窺った。図書館は薄暗かった。いつもなら無数の蝋燭があちこち動き回っているにも関わらず、今日はその灯りが一つしかなかった。扉の正面には、二十人は座れる大テーブルが三つ、奥の壁に向けて一列に並んでいた。その最奥のテーブルの、さらに一番右奥に、一つの小さな明かりがあった。


 俺はやはりなと思いながら、できるだけ音を立てないように近づいた。そして、黒色の丸い髪越しに本を覗き込んだ。

 読んでいたのは植物図鑑で、そのページではゲル状の体から無数の頭のような雫型の器官が生え、先端に開いた穴から火のようなものを吐き出している植物の絵があった。そして、地面に広がっているゲル状の体で焼け焦げたネズミを捕食していた。


 この手の図鑑でいつも疑問に思うのは、常に描かれる挿絵で捕食されるのはネズミであることだった。ネズミなんて実際お目にかかったことなんて一度もないし、とっくの昔に絶滅している。大昔にはネズミは実験に使われ、たくさんの命が犠牲になったという話を聞いたことがあるが、未だに図鑑の中で殺され続けていると思うと、流石に同情せずにはいられない。


「いつでもネズミが捕食される」

 俺は指を伸ばしてネズミの絵を指さした。

 ミラは声にならない悲鳴を上げ、俺の伸ばした腕とは反対側にのけぞった。そして、俺の顔を不安げに見上げると、息をついて安心したようだった。


「びっくりしたよ、リック」

「すまん。少しおどかそうかと思って」

「もう……」

 ミラは図鑑に視線を落としながら、不貞腐れたように言った。


「それで何っていったの? このネズミ?」

「ああ。いつも殺される。今回は丸焼きだ」

「そうだね……。こいつは最高で二千度まで出せるみたいだから、あっという間に丸焼きだね」


 俺はそう言うことを言いたかったわけじゃないけどなと思いながら、今度は炎の方を指さした。


「二千度ほどじゃないけど、街中が燃える火祭り。行かないのか?」

「──わたしはこの街で生まれたから。みんなみたいに祭りに参加したことがないわけじゃないの」

「でも、祭りは久しぶりだろ」

 ミラは小動物、ちょうどネズミのように小さくうなずいた。

 きっと誰にも誘ってもらえなかったことでいじけてるんだな。自分から誘えばよかったのに。


「みんなで行く祭りは初めてだろ。向こうで合流できるさ。行こう」

「──そう、だよね。みんなで行くのは初めてだもんね。うん」

 それでもミラの表情はまだ優れないようだった。何がそんなに不満なんだろう。

 何か心配事でもあるのか? 


「これ、しまってくるね」

 ミラは図鑑を閉じ、本棚の森に姿を消した。

 俺はその間、ミラのあの表情に頭を悩ませた。そして、ミラが戻ってくる直前にようやく一つの結論をひねり出した。きっとシャルだ。


「──ユーグだけどな、告白するらしいぞ」

 俺はミラが戻ってきたタイミングでそう言った。ミラは丸い目をさらに丸くさせて驚いた。


「こ、こくはく! それって、つまり、そういうこと、よね」


 俺は思わず吹き出しそうになった。ミラの狼狽えようが面白かったからだ。ミラはこういう恋愛話に極端に免疫がない。


「そういうことだろうな。ユーグも覚悟を決めたんだろうな」

「──そうなんだ」

 ミラの表情が少し陰っている。

 それを見て、俺は確信した。やはりシャルのことだ。


「ミラはいいのか?」

「なにが?」

 ミラは小首をかしげる。


「シャルへの告白だよ」

「っえ‼ あ、ちょっ、なにを‼ なにが‼ べつに、わたしは‼」

 俺は声を出して笑った。

 こんなに分かりやすい反応はないな。


 ミラは顔を赤くしてうつむき、厚い前髪が余計に目を覆い隠す。そして、手と体をもじもじさせている。


「し、しってたの?」

 ミラはか細い声で聞いてきた。その声は図書館の、それもいつもよりも静かな図書館でも、辛うじて聞き取れるくらい小さかった。


「他のみんながどうかは知らないが、俺は気づいてた。ちょうどここで、三人で過ごした時間はけっこう長い。君の熱い視線がシャルばかりとらえていることに気づくには十分すぎるほどね」

「い、いつから?」

「けっこう前から気づいてたよ」

 今やミラは、植物が乾燥から身を守るために種に籠るように、小さくなっていた。


「誰にも、言わないで。シャルにも」

「ああ、誰にも言わないけど……、いいのか? シャルに気持ちを伝えなくて」

「いいの。そんなんじゃないから」

 ミラは胸の前に手を出して、怯えているかのように小さく振った。声は少しずつ元の大きさに戻りつつあった。


「それに、身分が違いすぎる。シャルは貴族の綺麗な人と結婚するのよ。それに比べたら、わたしなんて……」


 俺はその言葉に強い不満を覚えた。

 みんなそうだ。この国の人間はいつでも、貴族や平民と、身分のことばかり気にしている。自分や他人のことを身分という、あってないような指標だけでしか見ることができていない。誰の腹から生まれようが、同じ大地に生まれた時点で上も下もないだろう。

 第一、シャルがそんなことを気にすると思うのか。本気でそう思っているのなら、それはシャルに対する侮辱だ。シャルは本質を理解している。いざとなれば、自分の地位も名誉も捨て去ることができる。

 それをまるで、シャルが貴族との結婚を望んでいるように言って、諦めようとしている。他人を言い訳の道具にするなよ。


「後悔するよ」

「──でも、失敗するのは目に見えてるし」

「違う。失敗したことをじゃない。行動できなかったことを後悔する」

 ミラはもじもじしていた手を止めた。


「そうかも……。でも、わたしは側にいられればそれでいいの」

「本当にそれだけでいいのか。シャルだっていつ貴族としての生活に戻ってもおかしくないし、誰がいつ死んだっておかしくない。いつ離れ離れになるか分からないんだぞ」

 俺はミラの瞳ごしに自分の姿を垣間見たとき、唐突にその姿に疑問を持った。

 俺はどうしてここまで熱くなってる。他人の色恋事なんてどうでもいいだろ。どうしてここまで突っかかる。それに、なぜまたあの光景がちらつくんだ。

 大吹雪とその奥の火影。今日はひどく胸が締め付けられる。寒い。何か叫んでる。何を叫んだ。誰に向かって叫んでる。

 俺にいったい何があった? 父さん、母さん?


 灰色の景色の上に、突然名前も知らない父と母の顔が浮かんだ。その顔も吹雪のせいではっきりしない。


「リック? だいじょうぶ?」

「あ、ああ。だいじょうぶ」

 俺はそう言いながら、真夏にも関わらず身震いをした。未だに雪の中にいるような心地だった。


「──私にとっては、シャルだけじゃない。リックやアレッサやギルやユーグと出会えて、仲良くなれただけでも奇跡なの。それなのに、これ以上を望むなんて傲慢すぎると思うの。わたしを見守ってくれていた神々もきっと呆れ果ててしまう」


 俺は「それは違う」という言葉が喉元にまで出かかって、また引っ込んでしまった。さっきまでの勢いは完全に吹雪にかき消されてしまったようだ。もう自分の言葉に自信を持てない。明確だったはずの言葉が、どんどんと瓦解し始め、吹雪と一緒に空の彼方に離散して、不明瞭な形で降り積もる。


 途端に偉そうな顔して御高説を垂れていた自分が、ひどく馬鹿馬鹿しく、滑稽に思えた。俺が他人を諭せるほどの人間か? 傲慢は俺だな。


「──ごめん。不躾だった。お前の気も知らないで勝手なことを言った」

 俺が謝ると、ミラは慌てたように胸の前で両手を振った。


「そんな。全然謝ることじゃないよ。リックの言ってることは何も間違ってないし、わたしのためを思って言ってくれたんだから、気にしてないよ。全く気にしてない。むしろ嬉しかった。少しだけ勇気をもらえた気がするの」

「そう……。ならよかった」

 俺はほんの少しだけ雪が解け始めた気がした。

 この雪を完全に解かすには、方法は一つしかない。もっと炎の燃え盛る場所に行かなくては。

 幸い、街では火が灯される頃間だ。俺はパンと手を叩いた。


「よし。今のは忘れて祭りに行こう。火の神がきっと俺たちを待ってる」

「うん」

 ミラは蝋燭の小さな明かりを吹き消した。

 そして、俺たちは静かで冷たい図書館を後に、騒がしく熱すぎる街へ向けて、歩みを進めた。

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