8月30日

18 ミラ

 わたしはずっと一人だった。徴兵される前も、された後も、わたしと関わろうとしてくれる人は一人もいなかった。

 わたしといても楽しくなかったからだと思う。当のわたしですらそう思う。わたしと過ごしていても何の面白みもない。頑張ろうと思っても、自分の考えを声に出すのが怖くてできなかった。その内、みんなのわたしを見る目が、奇妙な植物でも見るように変わっていく。そして、一人また一人と離れて行った。

 わたしは焦って余計何を言っていいか分からなくなって、誰でもできる簡単な質問にすら答えられなくなった。この人は自分に何と答えて欲しいのか、何と答えたら嫌われないのか、そればかり考えてしまって、結局うなずくことすらできなかった。


 だから私はすぐに一人になった。一人になって気づいたのは、他人に気を使わなくていいから楽ということだった。何をするにも誰かの同意を得る必要もないし、その行為が彼らの言葉でいう所のイケてるか、イケてないかを気にする必要もない。

 だから最初は一人を謳歌した。解放された気分だった。だけど、その自由も長くは続かなかった。一人になると、そうなる前よりも他人の目が気になったから。

 男子たちは獣みたいな大声をだしてわたしをからかったし、女子たちはキスするのではないかと思うほど顔を近づけて遠くから笑っていた。そうなると、もう道行く知らない人ですら、わたしのことを嘲笑っているように見えた。


 わたしは逃げた。そして、外に出なくなった。


 わたしは実家の宿屋に引き籠って、両親の手伝いをした。そのときも絶対に人前には出なかった。厨房で皿洗いや簡単な料理をし、客室の掃除やゴミ出しなんかをした。それ以外の時間はずっと自分の部屋で過ごした。

 優しい両親はそんなわたしを外に連れ出そうとはしなかった。代わりに、部屋の中で一人で遊べるおもちゃや本を買ってきてくれた。わたしにはそれだけで自分の部屋が楽園のように思えた。


 そうやって過ごしていた時、両親はわたしに植物図鑑を買ってきてくれた。本は古くて黴臭くて、所々破れてはいたけれど、これがわたしの運命の出会いになった。最初はあまり触りたくなくて、爪の先を使ってページをめくっていたのに、気づいたら手全体で本を掴んで読んでいた。

 植物の何がそれほどわたしを引き付けたのかはよく分からない。でも、世界には数えきれないほどの植物に溢れていて、一つとして同じ性質を持ったものがないことに感動したことは確かだった。


 わたしは両親に頼んで植物に関する本を買ってきてもらった。そうして、植物にのめり込むこと一年、もう、城下町で手に入るような図鑑に載っている植物については、書いてある文言を一言一句違えずに復唱できるほど明確に覚えてしまっていた。

 これ以上の知識を得ようと思ったら、それができる場所は一つしかなかった。


 城の図書館。


 だけど、そこに庶民が行くことはできなかった。許されるのは城に住んでいる人だけだった。つまり学者か兵士かのどちらかだった。

 学者になるには難関な試験を合格しなければならなかった。その試験には、塾の教師の元で丸一年を勉学だけに捧げてようやくスタートラインに立てて、三年以内に合格できれば優秀だと評されるほどの難易度だった。当然、塾にかかるお金は安くなかった。

 聞いた話だとわたしたち庶民が十年休まず働いて稼いだお金と、一番安い塾の値段が同じということだった。必然的に、学者にはほぼ貴族出身者しかいなかった。

 庶民の中にも貴族の支援を受けて学者になった人がいるという話を聞いたことがあるけれど、その人は超天才で、一歳の時には楽園イスタフェンの英雄譚全三百編を全て暗唱できたという噂だ。これは誇張された噂話だと思うけれど、それほどの天才でないと貴族以外が学者になるのは不可能ってことをよく示していると思う。


 だから私に残された道は一つしかなかった。


 わたしは悩みに悩んだ末に、変われるチャンスは今しかないと思うようになった。城に行けば友だちができるかもしれないし、植物について話し合える人もいるに違いないと、淡い期待に胸を膨らませた。そこで決心して、わたしは徴兵されて兵士として入城することになった。


 だけど、初日からわたしの希望は儚く消え去った。それは徴兵されたほとんどの子どもたちは最低でも一人は友達を連れていて、全くの知り合いがいないのはわたしくらいだったから。元々、人見知りで、さらにここ数年両親意外と話してこなかったわたしは、すぐにまた一人になった。今度は慰めてくれる両親もいない分、本当の一人だった。

 この日ほど強く自分を呪ったことはなかった。この日ほど泣きたい気持ちを噛み殺したこともなかった。だけどまだ、わたしの希望は辛うじて潰えていなかった。そもそも、来た目的は図書館にあって、くだらない馴れあい仲間を作るためじゃないと思うことで自分を保った。


 最初の週は慌ただしく、図書館に行けたのはその数日後だった。わたしは図書館に入ったとき、衝撃を受けた。まずはその本の量。五メートル近くある高い天井の上から下まで本が並び、その本棚が見えないほど先まで続いている。

 さらに驚いたのは、その静けさだった。ファーラルは炎の街と称されるほど賑やかで、活気のある街だった。観光客にとってみればそれは素晴らしいことに思えるかもしれないけれど、住んでみれば夜中でもうるさいし、気性は激しいしで、煩わしいことばかり。

 わたしの部屋は屋根裏にあったけど、下からは常に男たちの笑い声が絶えなかったし、いびきもうるさかった。だから、この町にも本をめくる音が聞こえるほど静かな場所が存在していることに驚いた。


 わたしがこの場所を好きになるまでに時間はかからなかった。ここにいる間、わたしは本当のわたしでいられたから。図書館にいる人は大抵一人だったし、誰かと話す必要もなかった。それに、わたしが大嫌いな馴れ合いでしか自分の価値を見出せない馬鹿な人たちがいないことも嬉しかった。とにかくここにいればわたしという存在は地に足をついていて、浮かなかった。


 わたしは毎日のように通いつめ、植物の本を漁った。そこには両親が買ってきてくれた図鑑に載っていなかった植物たちがたくさんあったし、内容も数十倍詳しく丁寧だった。図書館の外でどんな思いをしようと、ここで過ごせる時間があるだけで幸せだった。

 そうしている内にわたしはとある人のことが気になるようになった。その人はわたしと同じく毎日、図書館に来て本を読んでいた。彼は猫背で金色の髪で顔を隠すような恰好で本を覗き込んでいた。まるで本以外は何も見たくないかのようだった。

 彼に気づいたときから、今日も来ているかなと、彼の存在が気になるようになった。それは彼にシンパシーを感じたからだった。わたしと同じで孤独で周りの視線を恐れている。わたしは嬉しかった。図書館に来て彼を見るだけで、一人じゃないと思えた。


 しばらくして、彼が城主様の一人息子だと知った。わたしは彼と同じだと思っていたことを、とんでもないと思った。彼は一人になってしまったんじゃなくて、それを選んでいるだけなんだと思った。わたしたち下々の人間とは話したくないんだろうと思った。

 だけど、実際はそうじゃなかったことをすぐに知った。廊下で見た彼は、避けられるか、執拗に付きまとわれるかのどちらかで、わたしと同じ他人を恐れている目をしていた。わたしは彼に同情すると同時にまた嬉しくなった。城主様のご子息がわたしと同じ目をしていて、同じように人を嫌っていることに、特別感や優越感を感じた。逆にそれ以外に誇れることは何も無かった。


 この頃のわたしはどうかしていたと思う。シャルは誰からも名前と顔を知られていて、接してくる人間の全てを疑ってかかる必要があった。シャルに話しかけてくるほとんどの人間は、シャルのおこぼれに預かりたくて群がるような欲深い人間たちだったから。それに引き換えわたしは、誰にも顔と名前を知られていなかったし、持っていたのはみんなが避けていく方の魅力だった。

 だから、シャルが笑顔で話している姿を見たときは裏切られた気分で一杯だった。自分勝手だって分かっていた。それでも認めたくなかった。あなたとわたしだけは特別な人間で、そこらへんにいる群れることしか取り柄のない奴らとは違うんだと、そう思い込んでいたから。だからこそ、ギルとシャルが話している所を見たときは、その間を引き裂いてやりたくてたまらなかった。シャルをまたわたしと同じ場所に引きずり下ろしたかった。


 結局のところわたしは全てに嫉妬していた。シャルだけじゃない、他の普通のわたしが嫌っていた人たちに対してもそうだった。わたしが普通じゃなかったから。普通の人なら普通にできることができなかったから。

 だから男の子たちが神話の英雄のようになりたいと思うように、女の子たちが女神さまを夢見るように、わたしは普通の人に憧れた。だけど、普通にはなれなかった。何がいけなかったのか分からないし、どうしたらよかったのかは今でも分からない。

 わたしはただみんなと一緒にくだらない馴れあいをしたかっただけなのに。


 わたしは図書館に行かなくなった。


 全てがどうでもよく思えた。あんなに光り輝いて見えた図鑑も、色褪せて黴が生え、古本屋の一角で半ば忘れ去られたように置いてある本に様変わりしてしまった。


 わたしはまさに雑草だった。数ある植物の中でも雑草は何の役にも立たないし、美しくもなく見栄えもしない。かといって人に害があるわけでもなく、どこにでも生えている。誰にも気にかけられないし、たまに見つかっても邪険に思われるか、よくて何とも思われない。


 そんなときだった。一人の変わり者が現れた。彼は日陰で踏みつけられていた雑草に目を止めた。手を伸ばして葉に触れ、水を注いでくれた。

 彼との最初の会話はこうだった。


「ごめん。急に話しかけて……」

「──!」

「最近見かけないからどうしたのかなと思って……」

「──」

「ずっと話しかけたいと思ってたけど、勇気が出なくて。だけど最近、自分が勇気をもらえるようなことがあって、それで話しかけてみようと思っていたんだけど、そしたら君の姿を見なくなってしまったから……」

「──」

「君も本が好きなんだよね。本を読んでいるとき、すごく楽しそうにしていたから」

「──」

「迷惑、だったよね」

「──‼」

「ごめん。それじゃあ」

「──あの……。また行きます。図書館に。今日から。行こうと思ってました……」

「──ならその時にまた話しかけてもいいかな?」

「──はい」


 彼は雑草を日陰から優しく引き抜くと、全く新しい場所に植え替えてくれた。日のよく当たる、風通しのいい場所に。


 だから彼の為ならなんだってやる。たとえそれが、友情を壊すことになったとしても。


 わたしは部屋に誰もいないことをもう一度よく確かめ、ドアの外に人の気配がないことも確認すると、私の机ではないもう一つの机に向き直った。そして、机の引き出しを勢いよく開け放った。

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