7 バルドリック

 やはり図書館は落ち着く。人や物が雑多と行き交うこの町でも、ここではその全てが整然として均整がとれている。本は本棚のあるべき場所で、誰かの手に取られるまでそこで静かに待ち続ける。人は等間隔に並べられた机の上で、選び出した本を粛然と、それでいて内側から湧き出す情熱に突き動かされてページをめくる。指と紙が擦れる不定期なリズムが、この静謐な空間をさらに心地の良いものにしている。


 俺は読むともなく読んでいた本をそっと閉じると深呼吸した。古本の少しかび臭い匂いが鼻をかすめる。俺はこの、何と形容していいか分からない、まさに本の香りとしか表現できないこの匂いがたまらなく好きだ。

 この時間ともなると、図書館に人はほとんどいない。今日にいたっては俺一人だけだ。これだけの広々とした空間にたった一人だけとなるとうら寂しい。だが同時に、少年心をくすぐられる思いもある。意味もなく図書館を走り回ったり、入ることを禁じられている扉の先を覗いてみたり、当然そんなことはしないが、やってみたくもある。俺もギルのことをガキだと馬鹿にはできないな。


「ふっ」

 俺は鼻を鳴らして、本に手をかけた。


「リック」

 突然、耳元で女性の声がしてのけぞった。あと少しで椅子から転げ落ちてしまいそうな所だった。


 声のした方を見るとそこにはミラが立っていた。

 ミラは図鑑のような分厚い本を胸の前で抱えるようにして持っていた。なんだよ、脅かしやがって。いつからいたのかな。俺が感傷に浸っているときから居たのなら……、ニヤニヤはしていなかったはず。多分だけど。


「いつからそこに?」

「今来たところ」

「そうか」

 俺はひと先ずほっとした。

 何はともあれ見られてはいないはずだ。


 ミラは本を丁寧に机の上に置いた。

 本の装丁は赤茶色の樹皮で、四辺に金色の、多種多様な植物の蔓や葉、蕾、花をあしらった装飾がなされていた。中央にはでかでかとした文字で植物大図鑑と書かれ、その下には分冊版1の文字、そしてその横には小さく第7版と書いてあった。

 これはこの国の王立研究所が発刊している植物図鑑で十年に一度、改訂されるらしい。改訂される度に一冊ずつ増え続け、今では一冊千ページを上回る図鑑が三十巻。これはそれだけ多くの植物が存在することを如実に表している。図鑑になっているだけでおよそ六万種、なっていないものも含めると十万種以上、さらに未発見も含めると最低でも五十万種と推定されている。


 ここまで来るともはや想像がつかない。未発見の植物が八割以上を占めている現状を考えると、まだ人類が滅んでいないのは彼らの気まぐれに過ぎないように感じる。いつなんどき未知の物質を引っ提げて人類を滅ぼしに来るかなんて誰にも分からないのだから。


 ──バンッ!


 俺はその叩きつける音で思考から引き戻された。考えていたことが不吉なことであったがだけに、俺は必要以上に跳び上がった。

 落ち着いてよく見てみると、ミラが図鑑を開いたときに鳴った音だった。


「──ごめん。驚いたよね。重くって」

 ミラも驚いたのか、胸に手を当てながら言った。


 俺は開かれた植物図鑑を見た。そこにはオズノルド共和国原産種と書かれていた。


「これは?」

 俺はその字を指でなぞりながら聞いた。


「シャルが言ってたの、これからオズノルドと大きな戦争になるだろうって。だから、少しでも向こうの植物のことを知っておいた方がいいかなと思って。この前みたいに役に立つことがあるだろうから。これ分冊版でオズノルド原産の植物だけをまとめたものなの」

 ミラは図鑑に目をくぎ付けにしたまま言った。

 俺はその決意と好奇心に満ちた横顔を見て、胸が締め付けられる思いだった。


「シャルに言われてね……」

 俺は夕食時のシャルを思い出した。

 どうして今日になって突然あんなことを言い出したのだろうか。考えるだけ無駄だと言って、俺をかばってくれたのはシャル本人じゃないか。それを自ら撤回するようなことを……。


「夕食のこと──」

「えっ」

 俺は思わず頓狂な声を出してしまった。その後、急に恥ずかしくなって、咳払いをした。

 考えていたことが、他人の口から飛び出すのは意外と驚かされるものだな。


「なんか今日は、険しい顔しているから、夕食のときのこと気にしてるのかと思って」

 ミラの声はいつにもまして小さく、聞き取りづらかった。

 俺はまた強く胸を締め付けられた。


「──ああ、まあ、少しだけ。でも気にしてるのは過去のことじゃなくて、未来のこと」

「未来?」

「そう。図書館でこうやって本を読んでいられる時間はあとどれくらいあるんだろうかって」

 そう、あとどれくらいあるのだろうか。いつの日か六人がバラバラになる時は必ず来る。どんな別れ方をすることになるのか。仲の良い友達のまま、生き別れができればそれが一番良いのだろう。だけど、そんなうまい話はありっこない。死別をするか、それとも……。


「わたしも、最近そればかり考えてる。あの戦争で初めて知った。人ってあんなに簡単に死ぬんだね。ここに載ってる怪物たちに対して、わたしたちはなんて無力なんだろうね」

 ミラは図鑑の上に手の平を乗せた。その手は大きな図鑑に比べて途方もなくちっぽけだった。


「人同士で争っている場合じゃないのに……」

 ミラがポツリと言った。

 俺はそれにうなずきながら、しばらくたってミラの顔を凝視した。ミラも気が付いたのか、はっとした表情を浮かべ、周囲を確認した。首を勢いよく振った時に重たい毛の束が森の葉のように揺れ動いた。幸い図書館には俺たち以外には誰もいなかった。


「聞かなかったことにして」

 ミラは胸の前で手を丸め、懇願するような目つきで俺を見上げてきた。

 俺は熱いものがこみあげてくるのを感じながら、大きくうなずいて見せた。


「分かってる。俺は何も聞かなかった」

「ありがとう。あ、ギルにも絶対言わないでね」

「分かってるって。誰にも言わないさ」

「うん。ありがとう」

 ミラはようやく安心したのか、座り直して図鑑に向き直ると、静かにめくり始めた。

 俺も本を手にして、読んでいた所を探すでもなくペラペラとページを送る。


 人か、悪魔か。この国では敵を悪魔と称す。それもある意味間違っていない。思想の異なる人間は理解できないのだから悪に違いない。物事がそう単純だったらどれだけいいことか。不幸にも現実はそうはいかない。


 もし人間が悪魔のことを理解できたのなら、その人間を人と呼べるだろうか、それとも悪魔と呼ぶのだろうか。どちらにせよ明らかなことは一つだけある。悪魔のことを心の底から理解してしまった人間は、もう人の仲間に戻ることも、悪魔の仲間に加わることも、もう二度と、できやしないということだけだ。

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