5 シャルル
石造りの薄暗い廊下を歩いていた。
窓がないので二、三メートルおきに、壁の窪みの中で揺らめいている蝋燭の火だけが頼りだった。蝋燭と次の蝋燭との間には、細長く重い影が沈み込んでいた。そこを通るたびに、現実と幻との見えざる境界線を越えているような気がしてならなかった。影の中から何かがこちらを窺っているような、そんな気がして寒気がする。
子どもの頃は父の執務室へ行くのが怖くて嫌だった。もっとも、行くとしても母親か、姉の誰かと一緒に行くことがほとんどで、だいたいが手を固く繋いで、スカートの裾に顔をうずめていたのだけれど。
そんな怯える過去の自分を思い出して、少し自嘲的に笑いながら進むと、一つの重厚な扉の前に着いた。扉は上部が丸くなり、影が僕を見下ろしている。
僕は黒色の鈍く光るドアノッカーを一回叩いた。ゴンと金属質の重低音が響く。一回なのは家族であることを伝えるためで、通常は二回、緊急時は三回と決まっている。
「入っていいぞ」
中から父さんの声が聞こえてきた。
扉を押し開けて中に入ると、その眩しさに目を瞬かせる。父さんの執務室は廊下とは正反対に明るかった。窓が南に面し、さらに部屋が高所にあるので、遮るものが何もなく、日の光が差し込んでくる。
父さんはいつも光を背にして座っているから、まるで後光が差しているように見える。だけど、それを見た連絡係の兵士たちが、まるで神様のようだと話していたのを聞いたときから、この姿を見るのが嫌になった。特に理由らしい理由もないのだが、何となくムズムズとして気持ちが悪い。
「──シャルルか」
父さんは手元の黄色っぽい紙の束から目を上げて言った。
父さんの机の上はよく整頓されていて物がなく、羽ペンと鉛筆が一本ずつと、印章があるだけだった。部屋も同じ様にきちんと整えられていて、壁の両側にある本棚には種類別に区分けされた分厚い本たちが、持ち場を任された兵士のように整然と並んでいた。
僕は父さんの机の前にあるワインレッドのソファに座った。このソファは相変わらず硬い。子どものとき、硬いと文句を言ったら、柔らかい椅子で重要な話し合いができるわけがないだろうと、大真面目に言われたことを今でもよく覚えている。
ちょうど今座っている位置だった。目の前の本棚には真っ赤な背表紙の本が中央の三段を占め、父さんが机に片肘をついて乗り出し、光の影で暗くなった顔をこちらに向けている。あの頃から何一つ変わらない部屋の景色。
だけど、僕らは変わった。あの頃はソファに座ると、足をプラプラとさせていたのが、今では絨毯に足が着き、覗き込む父さんが何倍にも小さく見える。その姿を物寂しく、切なく感じた。
「立派な表彰式だったぞ。素晴らしかった。お前の友達もな。まあ、若干二人ほど気になりはしたが……、まあ、おおむねよかった」
それを聞いて、ギルとミラのことだとすぐに分かった。
ギルはともかくとして、ミラが礼儀知らずな奴と思われたままにしておくのはなんだか嫌だった。
「ミラはさ、ああいう注目される場が苦手なんだ」
「ミラというのは、あの黒髪の子かな」
「そう。だからガチガチになって、失礼に見えたかもしれないけど、普段は全然そんなことないよ。むしろ誰よりも丁寧だし、優しいし」
「──そうか」
父さんはじっと僕を見つめてきたので、思わず視線を逸らしてしまった。
なんだか嬉しそうにニヤニヤしているような気がする。絶対に何か勘違いをしているはずだ。そう思うと恥ずかしい。そんなつもりで言ったんじゃないんだけどな……。
「そうだ、父さん、怪我はどう? 治りそう?」
僕は咄嗟に話題を逸らした。
「あと二週間は杖が必要らしい」
父さんはそう言うと、机の端に立てかけてあった杖の柄の部分を忌々しそうに叩いた。
「だが、これだけの傷で済んでよかったのかもしれないな。友達のバルドリック君のおかげだな。改めて礼を伝えておいてくれないか」
「わかった、伝えておくよ」
「すまないな」
父さんは机から身を起こすと、ため息をつきながら椅子に深く座り込んだ。
父さんの顔は暗かった。逆光になっているからというだけでなく、眉間には皺が寄り、目の下にも隈ができて頬もこけ、一気に老け込んでしまったようだった。そんな父さんの姿は初めてだった。いつでも生き生きとしていて、息子である僕には険しい顔一つ見せたことのなかった父が今、疲労困憊とした顔で天井を見上げている。それは痛ましく、とても見ていられなかった。
仕方がなかったと言えばそれまでだけど、僕らはあの戦で大敗したんだ。見事に敵の策略に嵌められた。きっと長い間、準備をしていたに違いない。あんなことになるなんて誰が予測できたろうか。だけど、現地を見ていない人たちは、父さんと大公をこれでもかと非難した。遺族たちは城まで抗議に来たし、国王からも書簡が届いたそうだ。内容は聞いてないけど、おおよそ察しはつく。
そんな状況なら、父さんが天井を仰いでため息をつくのも無理はない。方々に釈明しなければならないし、軍の再配備や強化もしなければならない。父さんのことだからあの橋を取り返す方法を四六時中考えているに違いないし、それに、あの戦いで他の問題もでてきた。思えば違和感だらけだったけど、父さんたちもそれに気が付いているはずだ……。
「大変なことになったなあ」
父さんのその言葉からは尋常でないほどの重みを感じた。
領地を担う者として、民の命を守るものとしての重みがそこにはあった。いずれは自分もこの重みを背負うことになると思うと、すでに押しつぶされてしまいそうだった。吐き気もする。
城主とはこれほどまでに重いのか。
「あの戦についてなんだがな……」
父さんから発せられたその言葉に大きく唾を飲み込んだ。何が言われるのだろうか、それに何と答えたらいいのだろうか。
「もしかするとお前も……。いやいい。何でもない、忘れてくれ」
父さんの目は見たこともないほどに泳いでいた。
「そう……」
僕は父さんが何を言おうとして止めたのかが何となく分かった。
おそらく僕が感じたことと同じ違和感についてだと思う。答え合わせをしたいところだけど、とてもそれを聞くことはできなかった。くだらない問答をして、父さんにこれ以上負担はかけられない。父さんが話すべきか悩んでいるのだから、僕にできることは話すと決めるまで待つことだけだ。
「そうだ、シャルル。母さんたちに会いに行ってやってくれ。かなり心配していてな」
「これからそうしようと思ってたところ」
「ならよかった。はやく顔を見せてやれ」
僕は立ち上がった。
「じゃあまた。いつになるか分からないけど」
「ああ。頑張れよ」
父さんは足を痛めているにも関わらず、杖を片手に立ち上がった。
「父さんもね」
僕は父さんに笑いかけると、振り返って扉に手をかけた。
「そうだ、フーダーの奴がまたへそを曲げているらしい」
「またか。何とかするよ」
「ああ、頼んだ」
僕は父の部屋を後にし、再び薄暗い廊下にでた。そして来た道を駆け足で戻っていった。
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