第二章 火祭り
8月12日
1 シャルル
「ここからは悪魔について話していこうと思う」
そこは教室だった。長机が並び、まだ幼さの残る少年、少女たちが座っている。だいたい六十人くらいはいるだろうか。
正面には無駄に大きな教壇と、これでもかと真っすぐに書かれた白い文字で埋め尽くされている黒板、そしてその間に立つ中年の男。男は無精ひげを生やし、痩せ型で頬がこけている。背筋は常にピンと伸ばされ、歩くときも肘や膝の関節があまり曲がらなかった。
痩せていることも相まってかげでは棒と呼ばれることもあったが、温和で教え方も丁寧、何よりも試験が厳しくなかったので生徒からは人気だった。本人もそのように呼ばれていることに気づいているらしく、普段は生真面目だが、時々そのことを自虐的に語って、生徒から笑いをかっさらう。そのときの先生は目の端にたくさんのしわを作って、心底嬉しそうに笑っていたことを思い出す。
とても懐かしい。
「おいユーグ、起きろ。悪魔についてだってよ。これはちゃんと聞いとかないと」
「んん。うーん……」
斜め前の席に見慣れた二人の姿があった。ギルとユーグだ。これはおそらく僕らが知り合う前のことだろう。
ギルはこの頃、身だしなみのことはこれっぽっちも気にしていなかった。いつでも癖毛と寝癖の相乗効果で頭が爆発したようになっていた。ユーグは身だしなみを気にする方ではあったが、授業中はいつでも寝ていたので、起きると必ず前髪が跳ねた。なので、目覚めてから初めにやることは、前髪を手櫛でとかすことだった。今も隣にいるギルにつつかれて起こされ、前髪をいじっている。
「ギルバート、授業は全部真剣に聞いてほしいものだけどね。もちろんユーグも」
先生はチョークで二人を指しながら言った。周りの生徒たちはまたかよと笑っている。
そう、二人は問題児だった。
ギルは起きてはいるけど、授業は全く聞いておらず、ノートもとらなければ鉛筆すら持たなかった。じゃあ何しているかと言えば、ぼーっとしているか、机の下で何かをいじったり、ノートに落書きをしたりしていた。ユーグはもちろん寝ていた。そんなに寝ていて飽きないのかというほどいつでも寝ていた。
なので、当然二人は常に座学の成績で最下位争いをしていた。一方で、戦闘訓練の成績は上位だったので、辛うじて全体評価を保つことができていた。
僕らは後に出会い、試験前になると二人がノートを見せてくれとせがみに来るのが恒例行事となった。僕は毎回またかよと言いながらも、二人が分かりやすいようにノートをまとめ、分からないところを教えてあげた。
それを面倒とも思わなかった。たぶん、誰かに何かを求められるのが嬉しかったんだと思う。それに二人と一緒にいられる口実もできた。僕は勉強を教える代わりに、二人からは体術や剣術なんかを教わった。
僕はお世辞にも運動神経がいい方ではなかったから、二人につきっきりで鍛えてもらってようやく、真ん中くらいの成績にはなれた。ユーグは意外と教えるのが上手く、言われた通りにすれば目に見えて上達できた。反対にギルはイメージ通りというか、説明の全てが感覚的で言葉よりも体を使うことが多かった。なので、僕はいつでも首を傾げ、ギルも頭を掻き、互いに困惑した顔を突き合わせることが何度もあった。
「はーい。すいませーん」
「ふぁあ……。すいません……」
ユーグは全く気にもせず欠伸をした。先生は苦笑いしながら、手元の資料をペラッとめくる。
「みんなは悪魔についてどれだけ知っているかな? 神々について話した時に少しだけふれたと思いますが……」
先生が資料から目線を上げて僕らの方を見ると、みんなは一斉に話し始めた。
「植物のことだろ」
「樹海に住んでる化け物さ」
「ユザインって言うんだぜ。植物の神は」
「人を食べるんでしょ」
「食べないさ! 種を植え付けるんだよ」
「オズノルドの奴らも悪魔だって父ちゃんが言ってたぜ」
「やつらをやっつけろ!」
先生は生徒たちが静かになるまでしばらく待った。
「そう。みんなが言ってくれたように、悪魔には大きく分けて二種類ある。植物と、東の地オズノルドに住む人間。いや、人間と言ってはいけないな。私たちと同じ格好をしているだけで、中身は別物だからね」
先生は黒板に向き直り、そこに書いてあった文字を綺麗に消すと、左上の隅から文字を書き始めた。
口で説明したことを文字として書き起こしている。先生が振り返って書くように促すと、一斉にシャカシャカと板書する音が聞こえ始める。音が止むと先生はさらに話を進めた。
「そもそもこの二つはなぜ悪魔と呼ばれているか分かるかな?」
先生は黒板の『植物』と『人型(オズノルド共和国人)』と書かれたところを二本指で指した。
これには誰も答えなかった。
「いいかい、これは重要だからよく覚えておくんだよ」
先生はそう言って赤いチョークに持ち変えると、再び黒板に文字を書き始める。チョークがカツカツと鳴らす音だけが教室中に響き渡った。先生が書き終わり、少し横に逸れると『原初三神から与えられた試練』と書いてあるのが見えた。
「以前神話の授業で話した通り、原初三神、つまり太陽神ソレイル、月神リューン、大地神ソルテルの三柱の神々が天地の神々を産み、その神々が今私たちのいる世界の全てを創造した。全てをです。つまり、悪魔も我々と同じく神の創造物なのです。
ただし悪魔の存在は他とは少し異なる。悪魔は原初三神から、私たち人類に与えられた最も困難な試練の一つなのです」
先生は黒板の赤文字をコツコツと指した。
「これも以前話しましたが、神々は我々に試練を与えて下さります。それは私たちが不完全で未熟な存在だからです。試練によって私たちをより素晴らしい存在へと導いてくださる。私たち人類はその試練の全てに打ち勝ったとき、神々に認められ、完全となり、東の果てにある〈
先生は再び振り返り、今度は書きながら話す。
「植物は私たちに知恵を身に着けさせる試練です。多種多様な植物たちを研究することで、私たちの生活はどんどん豊かになる。
人型の方は私たちに勇気と正義を教えるための試練です。あえて私たちに似た生物を作ることで、正しき人間とは何か、また間違った者たちにどう立ち向かうべきかを知ることができる。
これら二つの悪魔が東に位置するのは、楽園に至るまでに最も重要な試練だという、神々からのメッセージに他なりません」
僕は黒板の文字を必死にノートに書き写す。早めに写し終わり、ふと横を見ると隣に座っていた子が震えているように見えた。顔は見えているはずなのに、それが誰なのか分からない。
どうしよう、声をかけるべきだろうか。僕が悩んでいる内に先生は授業を再開した。
「君たちが兵士として鍛えているのはもちろん──」
「悪魔をぶっ殺すためだ!」
ギルが先生の話を遮って発言した。
普段滅多に発言しないギルの言葉に、周りの生徒や先生も驚いた様子でギルのことを見ている。隣にいたユーグは恥ずかしそうに顔を下げ、首の後ろをさすっている。
「そう、その通り。普段もそれくらい積極的だと嬉しいんだけどね、ギルバート」
その言葉に何人かの生徒がクスクスと笑った。
「だって、悪魔は親のかたきだ。だからやつらを殺したい。だから兵士になりたい」
「──良い心がけだね」
先生は言葉とは裏腹に難しそうな、複雑そうな顔をした。心からは喜んでいないようだった。
ギルの言葉に他の生徒、特に男子たちが次々に呼応した。
「ぼくもだ」
「ぼくも」
「ぼくだってお母さんがころされた」
「私も大好きだったお姉ちゃんがころされたの」
「あくまどもが!」
「やっつけろ!」
「ころせ!」
興奮した生徒たちが「やっつけろ」、「ころせ」と連呼する。
僕はそれには参加しなかった。これに参加すると何か人ではない何かになってしまうかのようで恐ろしかったことを覚えている。それに、隣の子が心配だった。先程にもましてその子の震えが大きくなり、今は耳を塞いでいる。でも、そのことに誰も気づいていない。
「だいじょうぶ……?」
僕はその子に尋ねた。それでもその子には言葉が届いていないようだった。先生は必死になって生徒たちをなだめている。
僕はもう一度その子に声をかけようと、肩に触れようとした。その時──。
「やめて‼ もうやめてよ‼」
その子は顔をガバッと上げると、そう叫び、椅子から崩れ落ちた。僕は突然のことで体が動かなかった。頭にはただその子の悲鳴が鳴り響く。ぼうっとする視界の中で先生が駆け付け、その子を抱き上げた。
なおも頭の中で悲鳴がこだまする。あまりの大きさに僕も耳を覆う。誰かが体を揺する。声をかけてくる。
「──ル。シャル。おいシャル」
僕ははっとして勢いよく体を起こした。
目の前にはユーグの、青年に成長したユーグの顔があった。
「お、やっと起きたな。今日は表彰式の日だぞ、遅刻なんかしたら恥ずかしいことになる」
ユーグはそう言いながら二段ベッド上からシャツを引っ張って着始めた。
「──ああ、うん。ありがとう」
僕は欠伸をし、そしてベッドにもう一度倒れるように横になった。
上には二段ベッドの上の段の床が見えている。足の方にある窓から光が差し込み、部屋の中を薄明るく照らしている。朝の光が生み出す特有の静謐な空間。神聖というほどではないが、どこか神秘的なものが感じられて、僕はこのひと時がたまらなく好きだった。頭が働きすぎていないのもいいのかもしれない。
「また寝るなよ」
ユーグは寝癖のついた前髪を、鏡を見ながら入念に直している。
あの頃から何も変わってないな。そう思うと自然と口角が上がった。
それにしてもどうしてあんな夢を見たのだろう。先生のことなんかすっかり忘れていたし、あんな授業があったことも、隣に座っていた子が突然倒れたことも忘れていた。ギルもあの頃から何一つ変わっていない。悪魔をひどく憎んでいる。あの時の先生の表情。当時の僕にはどうして先生があんな複雑そうな顔をしたのか分からなかったけど、今なら分かる。先生も僕たちにあんなことは教えたくなかったんだろうな……。
それにしても、隣にいた子は誰だったかな。ギルとユーグははっきりと見えたのに、隣の子のことはぼやけてはっきりしない。
「ねえ、ユーグ」
「ん?」
「僕らがまだ訓練兵だった頃にさ、座学で誰かが倒れたことなかったっけ?」
ユーグは髪のセットを終え、僕の方を向くと顎に指を当ててしばらく考えた。
「──なんかあったような気がするけど」
「それ誰だったか覚えてる?」
「いいや、まったく。なんでそんなこと聞くんだ」
「いや、ちょっとね。夢を見て」
「ふーん……。そんなことより、早く準備しないと置いてくぞ」
ユーグは部屋の扉を開けて外に出て行った。トイレにでも行ったのだろう。
「あれは誰だったかな……?」
僕はさらに少しだけ思い出そうとしてみたがすぐに諦めた。
もうやめだ。ユーグの言ったように、表彰式に遅れでもしたら恥ずかしいことになる。父さんにも怒られるだろうし、なんなら母さんと姉ちゃんたちにもぐちぐち言われそうだ。
『やはり兵舎になんて住むべきじゃないのよ。本来住むべき部屋に戻ってきなさい』
これは面倒くさい。早く仕度をしないと。
僕はまた欠伸をしながら立ち上がると、引き出しから綺麗にたたまれた真っ白なシャツを取り出した。
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