8
「誰がバカだよユーグ。俺が道になんか迷うか」
ギルが上からできるだけ大きな声でめいっぱい囁いた。
元からいた兵士を含め、シャルたちは驚いて口をポカンと開けたまま見上げた。
「どうやってそこまで?」
アレッサが思わず聞いた。
「塔のこっち側の壁の一部がはげかかってたから、そこから登った」
ギルはそう言いながら、塔の側面、川の流れる方向に面している壁を指さした。
その壁を見ると、確かにその一部の石が剥がれかかり、僅かな足場ができてはいた。しかし、橋から川まではかなりの高さがあり、川には当然、水生植物がうじゃうじゃといる。さらに、一度落ちてしまえば安全な岸辺などもうどこにもないのだ。
それを考えたとき、ここを登れる人間はいったいどれだけいるのだろうかと、シャルは良くも悪くも感心した。それと同時にチャンスかもしれないと思った。
敵は外から登って来られることを想定していないはずだ。なぜなら、今ファーラル軍が城を攻める時のような梯子や縄を持ち合わせていないことを、上から見て確認しているはず。そもそも、このような想定をしていないのだから持っていなくて当然だ。それに、壁は植物が蔦を這わせられないように加工が施してある。ギルがそうしたように、壁の一部が剥がれてでもいない限り、登るのは不可能だ。
「ギル。中の様子は見えるかい?」
「ああ、ちょっと待って」
ギルは態勢を整えてゆっくりと立ち合がり、こっそりと窓から内部を覗き込んだ。
「うおっ」
ギルは何かに驚き、それと同時に飛び上がって、建物の内部に転がり込んだ。
「どうした⁉ おい、ギル!」
ユーグが聞くも、返事は返ってこなかった。
「中に敵がいたのかも……」
ミラが手を祈るように胸の前で握りしめながら言った。
「あのバカ、何やってんだか。こうなったら、俺も……」
ユーグが橋壁から身を乗り出し、塔の側面を見上げる。
「ダメよ、ユーグ! 危なすぎる!」
アレッサが即座に止めに入り、ユーグを肩の上から押さえつける。
「あいつに行けたんだ。俺にだって行ける!」
「ギルは運が良かっただけよ! 足を滑らせでもしたら、川に真っ逆さまよ。もう二度と生きて戻れない」
「分かってる。でも、今、あいつがどうなってるか──」
その時、上から何かが落ちてきて、ガシャンッと激しく音を立てた。見ると、それは、兜はしていなかったがファーラル兵の鎧を着た男が仰向けに倒れていた。
男の首の真ん中には穴が開いており、そこから血が大量に噴き出して血の海を作り出していた。
下にいた兵士たちは、それを囲んで茫然と眺める。
「おい、大丈夫だったか、お前ら。敵を下に落としちまったけどよ」
上から声が聞こえ、見上げると、窓からギルが顔を出して笑っていた。手は血まみれになり、顔にも血しぶきが飛んでいた。
これをギルがやったのか……。
シャルは死んだ敵兵をもう一度見る。そして、笑みを浮かべているギルを見る。シャルはその精神力に感嘆すると同時に恐ろしかった。危機的状況だったとはいえ、初めて人を殺して、どうして笑っていられるのだろうか。
「これ、お前がやったのか……?」
ユーグも顔をしかめて、ギルを見上げていた。
「おう、そうだぜ。顔出したら、すぐそこにいてよ。取っ組み合いになって、俺があいつを投げ飛ばして壁にぶつけて、すぐに剣を抜いてあいつの首に一突きよ」
ギルは自らの戦果を嬉々として語っているように見える。しかし、シャルには窓の桟に乗せてある手が小刻みに揺れているのが目に入った。それが、極度の緊張から解放されたためによるものか、実は言葉とは裏腹にショックを受けているのかは分からなかった。シャルは後者だと信じたかった。
が、しかし、今はそんなことを気にしてる場合ではない。ギルが塔に入りこんだ。こんな千載一遇のチャンスはない。
「ギル、上の様子は?」
ギルはちょっと待ってろと言うと、しばらく窓辺からいなくなり、ほどなくしてまた戻ってきた。
「あの入口んとこにやっぱり敵がいる。三人だ」
ギルはすぐに顔を下に向けるとそう言った。
「俺がやってくる。そしたら、下通れるようになるだろ」
「待ってギル」
シャルはギルを止めた。
「止めたって無駄だぞ」
「分かってる。僕も行くから少し待ってて」
シャルのその言葉に、アレッサたちは抗議の声を上げる。
「だめよシャル! 危険すぎるわ」
「そうだ。お前がやるべきことじゃない」
「うん。絶対にだめ」
さらにはその場にいた兵士たちは、アレッサがシャルと呼んだことで、公爵の息子であることに気づき、一歩退いて会釈してから話し始めた。
「シャルル様いけません。それは危険すぎます。もし行くならば我々が向かいます故、ここに留まっていてください」
下にいる全員が慌てる中、ギル一人だけは嬉しそうな笑みを浮かべてシャルを見つめていた。
「いや、行きます。ギルを止められるのは僕だけですから。中に入って、父と他に生き残りがいないか確かめてきます。そしたら、あの上から狙っている兵士と、あと、橋の向こう側にも多分いるでしょうから、そいつらを倒して、橋を通れるようにしてきます」
「無理だ。たった二人だけでそんなことできっこない。あんな狭い場所でどうやってばれずに捜索するっていうんだ」
ユーグが必死に訴え、他の兵士たちもうなずく。
「あいつらの変装を逆手に取るんだよ」
シャルはギルに突き落とされた兵士を指さした。
「あの中にはたぶんだけど、百人近くいてもおかしくない。その全員が全員の顔を覚えてはいないはずだ。しかも、今は誰もが目の前の任務に夢中になっている。そんな中で同じ恰好をした人間と一度すれ違ったくらいで、すぐに敵と分かるとは考えにくい」
シャルの説明にその場にいた全員が口を結んで難しい顔をする。
「なら、なおさらシャルが行くことないじゃない。そもそもどうやって登るの? ギルみたいにこんなところを登っていけるとは思えないわ」
アレッサが言った。アレッサはいつの間にか兜を外して胸の前に抱き、兜の頭頂部にある出っ張りを指でいじっていた。
「だからこそ僕でなければいけないんだ。この中でも小さい低い僕が」
それを聞いた全員が首を傾げた。
「どういう、こと?」
ミラが消え入るような声で尋ねた。
「ユーグ。僕を肩車できるかい?」
「お。ああ、たぶんできると思うが……。ああ、そう言うことか」
ユーグは話しながら途中から納得したように塔を見上げ、次に地面まで視線を動かした。
「僕を肩車してくれれば、ギルの手を取れるくらいの高さにはなると思う。そしたら、そこから僕を引き上げてもらう。できるかい? ギル」
「とうぜんっ」
ギルは自信満々に言った。
「それなら私も行きましょう。この中では私も軽い方でしょうから」
一人の女性が一歩踏み出し、声を上げた。
女性の声は低めで、シャルよりも背は低く、黒い髪が兜の隙間から垂れ下がり、細く鋭い目つきだった。
「ファーラル公のご子息に護衛が一人では心元ありません。私が命を懸けてお守りいたします」
「そこまでしてくれなくても……、でも、一緒に来てもらえるのは心強いです。よろしくお願いします」
「はい。必ずやお守りします」
女性はきっぱりと言い、深くお辞儀をした。
シャルは苦笑いしながらも、ありがたく思った。
「しかしシャルル様。もし順調に進んだとして、あの上げ蓋の所にいる兵士を殺せたとします。それでも、気づいた新たな仲間が戻ってきてしまったら意味がないのではありませんか」
兵士の男が恭しく尋ねた。
「そうですね。このままなら意味はありません」
「このままってことは、何か策があるの?」
アレッサが不安そうに聞く。
「うん。ミラ、あの死体の首のところ。あれが何の植物の毒か分かるかい?」
ミラは塔の入り口まで近づくと、いまや人の顔にまで膨らんだ腫れものを観察し始めた。
「これは多分フーゼンガだと思う。オズノルドが原産の植物だから文献でしか読んだことないけど、こんな膨張率はこの植物くらい。こいつは動物の皮膚に付着すると血を吸い上げてタールみたいな粘性の液体を作り出す。その液体はガスを放出するんだけど、そのガス中には大量の胞子が含まれてる。限界まで膨らむと爆発して半径一メートルくらいに胞子をまき散らす。こいつは液体からガスから胞子まで全部に即効性の麻痺毒を含んでいるから、ほんの少しでも触れたら動けなくなってしまう」
ミラは目の前の植物を食い入るように観察しながら、口早に説明した。
「一つだけ聞きたいんだけど、このガス、空気より軽いよね」
「うん。胞子ができるだけ広範囲に散れるようにガスは空気の十分の一くらいの比重になってる。でも胞子は空気より重いから、しばらくすれば降下してくるよ」
「わかった。ありがとう」
シャルはそれを聞いて確信を得ると、小さく笑みを浮かべた。
「おいシャル、まだかよ。早くしないと」
「もう行くよ。みんなにはやっておいてもらいたいことがある」
シャルは手短に作戦を話して聞かせた。
「気がかりなのはあれが取れるのかなんだけど、どうかな?」
「大丈夫だと思う。直接触れなければ心配はないわ」
「よし。じゃあ頼んだよ」
シャルは塔を見上げ、大きく息を吐いた。
「本当に行くの?」
アレッサが震える声で聞いたが、その顔は病的なまでに白かった。
「行くよ」
「そう……」
アレッサは爪を噛みながら、斜め下に視線を下ろした。
「シャルがこうなったらギル以上に厄介だからな」
ユーグが神経質になっているアレッサの肩を優しく抱き寄せ、頭を撫でた。そのおかげかアレッサの顔には少しだけ生気が戻ってきたようだった。
「ごめんよ」
シャルは微笑みながら謝った。
「気をつけてね。待ってるから」
ミラがシャルの手を握った。その手は汗で湿っていた。それでもシャルは少しだけ勇気をもらえた。
「もちろん、絶対に戻ってくる」
シャルたちは塔の真下に移動すると、ユーグが屈んでシャルを肩車した。他の仲間たちはそれを支える。シャルは壁に手をつきながら肩の上でゆっくりとバランスを取りながら立ち上がる。ユーグは重みに耐えて、小刻みに膝を震わせている。
「おいユーグ。大丈夫か?」
ギルが上からその様子を眺めながら、茶化すように聞いた。
「っだいっじょうぶに、きまってんだろうが。っかるすぎて、っなんっともないわ」
声を絞り出すユーグをギルは愉しそうに眺めていた。
「ごめん、ユーグあともう少しだから」
シャルは完全に立ち上がると、ギルの伸ばした腕に掴まった。
「引き上げるぞ、シャル」
「ああ、頼む」
シャルは足をユーグの肩から離し、ツルツルと滑る、引っ掛かりのない壁に足をつけた。ギルの顔はすぐに真っ赤になり、上腕に太い血管が浮き出す。
「おいおいギル。大丈夫か?」
今度はユーグが下からギルをからかった。
「っこんなん、とーぜん、っなんっともないわ」
ギルは唸り声を上げながらシャルを引き上げ、シャルは窓の所に手をかけてよじ登った。
「ありがとう」
「おお。なんともなかったぜ」
ギルは激しく息切れしながらそう言った。
「次は私もよろしく頼む」
護衛に立候補した女兵士が壁にもたれかかるユーグの元に来て言った。
ユーグは息を切らしながら、見上げるとギルの方を見た。ギルもユーグを見ている。
「いけるか、ギル? 休まなくてもいいか」
「おれは、へいきさ。お前が休みたいなら、それでも、いいぞ」
「おれは元気だ。ぴんぴんしてら」
ユーグはふっと強く息を吐くと、シャルにそうしたように屈みこんだ。シャルは二人のやり取りを聞いて呆れつつも、少しの間だけ戦場にいることを忘れることができた。
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