第一章 予兆

 辺りはむせ返るような土埃と、じわじわと心を急き立てるような喧騒に包まれていた。城壁で四角く切り取られた青空の上では、太陽が燦燦と輝いていると言うのに、広場の兵士たちの表情は暗く曇ったままだった。まるでこの世の終わりが来ること信じて疑っていないようだった。


 シャルルも大勢の兵士たちと同じく表情を強張らせ、執拗に心を蝕む恐怖と格闘していた。城の倉庫から武器や食糧を運び出し、荷台に乗せる。それを繰り返すうちに視線はおのずと下がり、乾ききった土気色の地面に落ちた無数の影に、言い知れぬ絶望と虚無を感じていた。


 自分の人生は何だったのだろうと思う。たった十七年生きてきた中で、いったいどれだけのことができたろうか。公爵の息子として生まれ、優しい母と三人の姉にも恵まれ、何不自由なく暮らすことができた。やろうと思えば何でもできたし、どこにでも行くことができた。それだけの地位と権力はあった。それでも何かをしたかと言われれば、何もしていない。


 十七年は余りにも短すぎたのだという考えと、それだけあればできただろうという考えが、倉庫と荷台を往復するたびに入れ替わり立ち替わり主張してくる。


 銀白色の兜の隙間から汗がにじみ出し、こめかみを伝って地面に落ちる。汗は地面の小さな一点を黒く染め、シャルルはなぜだかその一点を引き込まれるように無心で見つめていた。


「まあた暗い顔してるな」


 突然、聞き慣れた男の声がして、黒茶のブーツが黒点を踏みつぶして消し去った。そして、シャルルが構える隙も無く、兜と両目の間の僅かな隙間に二本指を突っ込んで持ち上げてきた。兜の後ろ側がうなじに引っ掛かり、首が兜に合わせて上を向く。目の前には人懐っこい嫌味のない笑みを浮かべたギルバートが立っていた。肌は小麦色に焼け、黒髪のくせ毛が兜の隙間から飛び出してカールしている。


 シャルルはため息をつきながら、ギルバートの腕をどけて兜を脱ぎ、ぼさぼさになったブロンドの髪をよくとかしてから被り直した。


「だから、これやめてくれっていつも言ってるだろ。髪がずれて気持ち悪くなる」

 シャルルは咎めるように言った。それでもギルバートは飄々とし、気に留めている様子はない。


「今回はちゃんと持ち上げた後止めたぞ。ドスンってやるなって言われたからな」

 ギルバートはニヤリと笑いながら言った。


「確かにそれはそうだけど、そういう問題じゃなくて……。まあいいや」

 シャルルは肩を落としてギルバートのしわの寄った目じりを見た。そして、シャルルも諦め、小さく弱弱しく笑みを浮かべた。


「まったくギルには緊張感ってものがないのかな……。僕らはこれから戦場に行くんだよ。ほんとに分かってる?」

 シャルルはまるで母親がそうするように聞いた。


「分かってるよ。俺もそこまでバカじゃないし、こう見えても緊張してるんだぜ」

 なぜだか少し誇らしげに、白色の鎧の下で胸を張ったのが分かった。


「ほんとかなあ」

「ほんとさ」

 シャルルはギルバートの目を覗き込んだ。シャルルはその眼に不安の一欠けらさえも見つけられなかった。あったのは意外にも奈落の底で燃え続けるような黒々とした炎だった。


 シャルルは思わずゾッとしてのけぞった。それは普段のギルバートとは無縁の、異彩の光を放っていた。


「なんだよ、急にびくついて。そんなに怖がるなよ」

 ギルバートはシャルルの肩に腕をまわして激しく揺すった。


「──怖いに決まってる。戦争だよ、戦争。命の奪い合いをするんだ。これが怖がらずにはいられない」

「それはまあ、そうだな」

「ギルは怖くないの?」

 シャルルは再びギルバートの瞳を見上げた。今度はおそるおそる盗み見るようにした。


「怖くないって言ったら嘘になるなあ。でもよ、ようやくこの時が来たんだ。このために長い間、特訓してきた。あの悪魔どもをこの手で殺せる時がきたんだ。びびってなんかいられねえよ」


 その眼には再び、あのどす黒い炎がバチバチと音を立てて燃え上がっていた。

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