きらめく星と青い鳥

月野志麻

第1話

 私は、バカで、グズで、この人がいないと、『まともに』生きられない。


「もう一回、言ってくれる?」


 とおるさんの目が変わると、心が途端にザワついて、さっきまで頭にあった言葉が白いキャンバスで上書きされてしまったように消えてなくなる。


「あの……だから……えっと、パートに出たくて……。はるかの、習い事の、お金もかかるし……あ、もう面接の応募は済んでて、近くのスーパーなんだけど、」

「今だって生活できてるだろ? それなのにどうして、お前が働きに出なくちゃいけないんだよ」

「えっと、これから、遙がもっと大きくなったら、お金、必要になると思って……。今のうちに、貯められたらいいなって……」

「俺の稼ぎだけじゃ、足りないって言いたいのか?」

「そんなこと、言ってないよ」


 頬に痺れるような強い痛みを感じる。左の耳の奥でキーンと高い音が鳴って、視界が揺れて、自分の体が傾いたのを、食卓に倒れ込んでようやく気付いた。


「言ってるだろう! お前は、そう言った!」

「そういう意味じゃ、なくて……」

「中学しかまともに卒業してないお前が、偉そうなこと言いやがって! バカが! 偉そうにするな! 家計もまともに理解してないくせに!」


 何度も何度も頭を叩かれる。「痛い」「やめて」は「俺を加害者にしたいんだろう」と言われたことがあって、言うのをやめた。悪いのは、ろくに考えることもできず、思い付きで行動し、言葉を吐く私に原因があるから。被害者は、こんな出来損ないを拾ってくれた、徹さんのほうだから。


 悪いのは、いつだって、私。



「遙、早くご飯、食べちゃって。みのるくん、半には迎えに来てくれるよ」

「はぁい。あ、岡島おかじまが、夏休みプール行こうって言ってた!」

「そう、いいね」と頷く。十六歳のときに産んだ息子の遙は、小学一年生になった。


 初めのうちにあった行き渋りも抜けてきて、今は数週間後に迫る夏休みに心弾ませている。


奈都なつ、俺の靴下は?」


 徹さんの声が寝室から聞こえてくる。


「あっ、えっと、ワイシャツと一緒に置いてなかった……?」

「ないから、ないって言ってんだけど」


 徹さんの声が一段低くなる。空気が重くなるのを感じて、遙にはそれが悟られないようにしなければと焦る。


「遙、ご飯食べててね。お母さん、お父さんの靴下出し忘れてたみたいだから」


 遙が食卓から少し顔を仰け反らせるようにして、リビングの続きにある寝室を覗き見る。すると、「あ!」と声を上げた。


「お父さんの足元に落ちてる」

「え?」徹さんを見る。徹さんにも遙の声が聞こえていたようで、徹さんも自分の足元を見てから「あ……」と小さく声を上げた。


「見つかって良かったね、お父さん。シャツを持ち上げたときに落ちちゃったんじゃない?」

「……どうせお母さんがシャツの下に置いてたんだろうな」

「うん、そうだったかも。ごめんなさい」

「それじゃあ、お父さんは先に出るから。遙も気を付けて学校行けよ」

「はぁい、いってらっしゃい」


 ソファーに置いてあった通勤バッグを持って、玄関へと向かう徹さんの後を追う。

 黒の革靴に足を通しながら、徹さんは「昨日のことなんだけど」と口を開いた。


「あ……今日、やっぱり、スーパーにお断りの電話を入れようと思ってる。私が、間違ってたから……」

「ふぅん」


 徹さんが打った相槌のその声色に、機嫌は損ねていないようだと胸を撫でおろした。


「まぁ、どうせ面接に行ったところで、中卒のお前を雇ってなんてくれなかっただろうけどな」

「うん、そうだね。……恥をかく前で、良かったと思う」


 私を振り向き見た徹さんの表情は、とても満足そうだった。これが正解だったと、もう間違えないようにしようと心にメモを残す。いつだったか、「俺だって怒りたくて怒ってるんじゃない」と言った徹さんを、もう怒らせてしまうことのないように。



 十七時。十六時にスイミングスクールに送った遙を迎えに行く。夏になり陽が高いとはいえ、もう夕暮れになろうというのに、まだ蝉が鳴いている。


「お腹へったー」


 握った手を激しく振りながら遙が言う。


「帰ったらすぐ夜ご飯食べよう」

「今日はなに?」

「カレー」

「今日、給食もカレーだった」

「えっ、本当? ごめん、献立表見間違えてたかも」

「いいよ、オレ、カレー好き。何杯でもいける」


 幼稚園までは「ぼく」だったのに、小学校に入って数週間もしないうちに、遙の一人称は「オレ」になった。まだそれが聞き慣れず、くすぐったい。どうやら、今、一番仲良しの岡島稔おかじまみのるくんの影響らしい。

 彼の家は男四人兄弟で、上にお兄ちゃんが三人いるそうだ。何度か遙は彼の家に遊びに行かせてもらっていて、遙も稔くんのお兄ちゃんたちに弟のように可愛がってもらっているようだった。

 ふと、稔くんのお母さんに、「手繋いでくれるのも今のうちよ」と言われたことを思い出した。同じスイミングスクールにも稔くんは通っていて、彼は今日、お母さんと手を繋いで帰っていた。けれど、稔くんが手を繋がなくなったら、きっと遙も真似して繋いでくれなくなるのだろうな。


 遙の手を握る手に少しだけ力を込める。それに応えるように、遙もキュッと握り返してくれた。赤ちゃんのときは、私の人差し指を握るだけでいっぱいだった手が、今は私の掌を包めるくらいに大きくなっていることに感動する。手を繋ぐからこそ分かる感覚も、いつか感じられなくなる日が来るのか。成長が愛しいと思うとともに、寂しさも胸に広がった。

 目の前の信号が赤色に点灯する。私たちは横断歩道の前で足を止めた。住んでいるマンションももう見えてきている。


「お母さん」


 遙に呼びかけられて、「うん?」と返事をする。


「オレは、お父さんと離れてもいいよ」


 マンションの三階の部屋にまでうっすらと響きわたってくるくらい、いつもは大きいと感じる信号機の「パッポー」という音よりも、遙の声のほうが私には大きく、響いて聞こえた。


「……どうしたの? 急に」

「お父さんと、離れてもいいよ。お母さんがいれば、オレは、それでいいよ。夏休み、岡島とプールに行けなくてもいい」


 遙の手がギュッと私の手を強く握る。私を見上げて、左上の前歯が抜けた歯を見せて、ニッと笑った遙は、「眩しいー」と夕日に目を細めた。


「遙、なに言って……」

「奈都!」


 信号機の音が変わる。信号が、青に変わったのだ。

 もう、その声で呼ばれることは二度とないと思っていた。私を「奈都」と呼んでくれるのは、徹さんだけになってしまったと思っていた。結婚とは、そういうものなのだと。


「……おかあさん」


 いつの間に私はお母さんよりも背が高くなっていたのだろうと、もう何年も会っていなかったお母さんが、横断歩道の向こうから走ってきて、私を抱き締めてくれてから気付く。「奈都、大きい」とお母さんが笑うから、私もつられて笑ってしまった。


 徹さんが帰ってくるまで、あと二時間。

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きらめく星と青い鳥 月野志麻 @koyoi1230

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