同棲の耳かき

「つ か れ た……!!」


 玄関扉をガチャリと閉めた余韻も消え去らないうちに、私の口は叫んでいた。もう深夜と呼べる時間帯に、もしもお隣まで聞こえていたら本当に申し訳ない。ウチのマンションが歌う『防音性抜群』の言葉を信頼する。


 邪魔なショルダーバッグをかなぐり捨てて、ジャケットもタイツも脱ぎやらないままに、私の脚はリビングへ向う。目指すはただ一点、私が身を投げだせる場所。


「おかえり~~」


 いつも通りの、どこか暢気な声を聞けば、頭の中で幸せ物質が溢れてきた。私は返事するより先に、リビングドアの敷居を早足に越え、飛び込む先は中央ソファ。そこに座す、愛しき人の懐の中。

 亜里沙は私を見るなり、スマホを横において膝の上を開けてくれた。どうぞ、と言わんばかりに。


 ばふ、と体をソファに倒れ込むように横たわらせ、挨拶もなく重い頭を亜里沙の太ももに任せる。受けとめてくれるのは温かな柔らかさ。頭の中にこびりついた疲れも溶かされるみたいだった。

 ゆっくり息を吸えば、湯上りの柑橘系の香りが体の中に充満する。

 亜里沙は風呂上がりの寝巻き姿だった。柔らかなハーフパンツの肌触りが私の頬を包んでくれる。私は思う存分頬擦りしてから、遅れに遅れた義務をようやく果たした。


「ただいまー……」

「はい、おかえり~」


 2度目のお迎えでも、優しさは変わらずだ。なんなら頭を撫でてくれるサービスもついてきた。ほうと息をついた私を微笑しながら、亜里沙は一つ苦言を呈した。


「私に飛び込んでくるよりまず、上脱ぎな~?」

「あと五分、こうさせて……」

「映奈、そう言ってから寝るじゃん~~……」


 半分呆れたような声にも、残りの半分は砂糖がたっぷりである。私の髪を手櫛でほぐしながら、あやすように撫で始めてくれる。私はゆっくりと息を吐き出す。それは帰宅してからここにつくまで、吐きだす場所のなかった息だ。一刻でも早くたどり着くまで、会社から駅まで早歩きした甲斐があったというものだ。


 私はさっき言った通り、本当に五分だけの我儘な微睡に身をゆだねる前に、帰りの電車の吊革に掴まりながらずっと考えていたお願いを亜里沙に伝える。

 そのお願いだけが、忙しかった今日の一縷の望みであった。

 もし断られたら、私の人生はもうおしまいだ。


「亜里沙……」

「なぁに?」

「五分したら、お風呂いってくるから。そのあとで、みみかき……して……」

「いいよ〜」

「あ゛りがとう〜……!」


 私は亜里沙のお腹に抱き着く。「あはは、くすぐったい」といいながら亜里沙もされるがままでいてくれた。良い匂いと、受け入れてもらえる幸福を存分に堪能する。

 良かった。これで明日もなんとか社会人でいられる。

 意味の分からないクレーム、二転三転する上司の指揮棒、はち切れるタスク!

 亜里沙の耳かきを頼りに、一日を乗り切った甲斐があるというものだ。



 亜里沙の心配をよそに、私は宣言通りちゃんと寝なかった。

 きっちり五分、膝枕の微睡を堪能してから、すっくと立ち上がって洗面所へ向かい、飛びそうになる意識をなんとか繋ぎながらお風呂を済ました。保湿もドライヤーも(亜里沙が手伝ってくれたおかげもあって)万全。シャワーのおかげで少し眠気も飛び、完璧な状態で私は約束の地、ソファへと戻った。

 そこには、私の女神──じゃなくて亜里沙が、だっこする前の母親みたいに手を広げて待ってくれていた。


「はい。お疲れさま。おいで?」


 私はなんだか泣きそうになりながら一度たっぷりとハグを味わう。「ええ、膝枕じゃないのかよ」と亜里沙は笑いながらも、ぎゅうと抱きしめ返してくれる。髪の匂い、くっつけあう頬、預け合う体の重さ。愛しき人が腕の中にいてくれると、心臓が溶けるみたいに心地よい。そして言葉も必要なく、私はそのままずりおちるみたいに膝の上へとご案内された。仰向けに見上げれば、柔らかな二つの壮観越しに、母性たっぷりの眼差しを落とす亜里沙と目が合う。髪を撫でられながら。

 天井の照明が後光みたいになるのも相まって、やっぱり女神様だ、なんて思った。


「ご飯、軽く食べてきたんだっけ。でもお腹減ってない?」

「ん~……ちょっと減ってるかも……」

「じゃあ後でお酒飲む? おつまみあるよ」

「飲む〜……」


 うふふ、と微笑んでくれる亜里沙がもはや神々しくて、縋り付くようにまた私はお腹に抱きついた。私の肌も、一緒のボディソープの匂いになった。落ち着く……。


「じゃあ、耳かきの間寝てもいいけどその後ちゃんと起きるんだよ? ほら、横向いて」

「うん……」


 私はごろりと頭を180度転がした。最初にやる耳は必ずお腹と反対側と決めている。目を開いても目の前にお腹があるというのは、包み込まれている感が違うからだ。私はプリンを最後に食べる派なのだ。


「あれ、耳が冷たい気がする」


 亜里沙はまず、耳の外側をすり揉み始めた。小麦粉の生地を伸ばすように、ぐにぐにと溝に沿って指を押し付けてくれる。


「うわ、それもっと……」


 体温の高い亜里沙の指は、万年冷え性気味の私の耳にぽかぽかとして気持ちいい。


 ぐに……くに……すり……


「ちゃんとお風呂に浸かった? 体の芯から温まってないんじゃない?」

「う……ちゃんと入ったよ、一分くらい」

「ほらー」

「だって……耳かきが楽しみだったんだから。我慢できなくて。それに……今から亜里沙に温めて貰えることだし、ね?」

「そーいうことじゃなくて、深部体温を上げることが大事なの。表面が温まるだけじゃ体がリラックスできないんだよ? もー」


 あれ。ちょっとした口説き文句を混ぜたつもりだったのに、まるで亜里沙の芯は捉えられていなかった。図書館司書を生業とする亜里沙は何かと博識で、その分、お互いの感性はたまにずれているとこがある。そういうところも可愛い。


「おこんないでー」と太ももに抱きついて雑に甘えれば、亜里沙の方からも甘いため息が降りてくる。

 指はずっと私の耳を甘やかしてくれていた。耳の根本をぐにぐに、裏の付け根をくりくり、耳の穴の手前をくにくに……。凝りやすくて、普段自分でも触れないようなところを念入りにほぐす。

 耳殻の大きな溝の平たい部分も、親指の腹で生地を伸ばすように、すりすり……ぐむぐむ……。


「寝ちゃいそう……」

「寝ていいってば。そうなっても、ベッドまで連れてくし」

「やだ……。最後まで耳かきされたいから……」

「じゃあ、頑張って起きてなさいね」

「はい……」


 そんな内容のない会話も、ただ声を交わし合うことが重要だから、心がほぐれる。


「耳たぶちっちゃいねー、絵奈は」

「なによー、薄幸っていいたいわけ?」

「かわいいねっていいたいわけ。手触りも、グミみたいな感じで好き」

「へへ……」


 耳たぶの裏を親指でこするように撫でられる。ネイルなどに興味のない亜里沙の爪はいつもきっちり短く切り揃えられているから、その先端がすりすりあたるのも、またよい。

 すっかり耳は温まった。


「ん。マッサージはこんなもんかな。耳引っ張るよ?」

「ん……」


 いよいよ本番である。耳を軽く捲るように引っ張られ、空気の音がよく聞こえるようになる。「ふーむ……」。鼻息混じりの亜里沙の声が近づいてくる。耳穴を覗き込まれている。


「どーお?」

「前やったときとそんな変わんなく見えるかな。細かいのがポロポロついてるくらいかな。耳の中までちゃんと乾かしたんだよね?」

「うん。ドライヤーでぶぉーっと」

「んー……それはそれで耳に悪そうだけど。まぁいいか。今日も、耳の中が荒れないくらいにね」

「気持ちよく耳かきしてもらえるなら、荒れたっていいのに……」

「私が嫌なの。もっと年取ってから、亜里沙に難聴になってほしくないし」

「んー……そうなったら絵奈の腕に掴まりながら生きていこうかな」

「やだよー、老々介護は。健康でいなさい。ほら、動かないでね……」

「ん」


 カリッ。


「……んふっ」


 ぴくっと体が揺れる。耳かきが浅いところに入ってきた。慣れた手つきで、円を描くように入口の細かい垢をこそげとっていく。


 カサ…コソ。カリッ、かり。かきかき、かり…。


「うぁ、きもちよ……」

「ふん、ふんふーん……♪」


 亜里沙は小さく鼻唄を歌い始めた。この感じ、きっと無意識だ。上機嫌になったときの亜里沙の癖。表情はいつものんびりとして大きく変らないけど、声や体に感情が出やすいタイプなのである。亜里沙の気分に釣られ、音叉のように、私も鼻唄を歌い出してしまいたくなる。『こら、耳が動くからやめなさい』って言われるだろうから、やんないけどさ。


 かさ…こそ…かりかり。カリ…ぺりっ。


 小気味よく、何かが剥がれる音がした。


「あ……これ耳垢だったんだ。薄すぎてわかんなかった」

「んぇ?」

「んーん、独り言。でも、この触ってる感じ、絵奈にも分かんない?」


 カリッ。カリッ。かりかり……パリッ。


「うぉ……また、なんか剥がれた」

「そうそう。これ。なんていうか、うすーいかつお節みたい……? しかもなんか、根っこが張り付いてて剥がれないし……」


 かりっ。カリッ。がさっ…ごそっ…かきかき…。かき、かき、カリッカリッ……。


「わ、そこ、良……」

「あれっ。このっ……。取り切れないな……ちょっと強くするよ……?」

「んぅ……」


 カリ、カリッ、かり…。かきかきかき…こそっ、かりっ、ピ、リ。


「ふ、ぁ……」

「よし、取れたー……っとー……」


 ふるりと体が震えた。最後、しつこく張り付いた耳垢を取り切るときの集中攻撃が脳を甘く痺れさせたのだ。さっきまでの優しい耳かきともまた相乗効果である。


「すごーい、ほんとにかつお節みたいにパリパリ。くるって反りかえってる」


 一方の亜里沙は私の余韻も露知らず、手の甲に乗せた耳垢に熱心であった。私としてはちょっと恥ずかしいが、亜里沙は収穫品鑑賞が結構好きらしい。


「皮めくれ……ってやつ? 耳垢って言うより、剥がれた薄皮なのかなー」

「亜里沙、今取ったとこ、むずむずしてきたかも……。続きを……」

「はいはい。ちょっと待ってねー」


 亜里沙は用意していたティッシュで耳かきを拭ってから、すぐ要望通りに、耳垢が採れたばかりの地肌をかりっ…かり…と慰めてくれる。


 かり…かり…かりかり…。かき…かき…かきかき…。


「これくらいでどぉ?」

「あー。……そのくらいの力で、もっと……」

「ん」


 かさこそ…さり…かり…かきかき、かしかし……。


「うー……」

「そんなに気持ちいい? ここ」

「うん……。取れたあとのとこが、一番きもちいい……」

「ん。耳垢の下の地肌が敏感になるんだろうね」

「うあ、そこー……」

「ふふふ。じゃあこんな感じでー……もう少し大きめにー……」

「あふ……」


 かりっ…かりり…かりり…かき…かりー…。


 さっきより大きめのストロークで、撫でるほどの力加減で掻かれる。するともう堪らない。脳細胞が溶けるようだ。まるで私のもどかしさが手に取るように分かっているかのように、亜里沙の耳かきは絶妙である。私たちはよくお互いに耳かきし合うから、もうすっかりこういう感覚を共有してしまったのだろう。

 疼きは、弱すぎず強すぎずのさじ加減で完璧に宥められた。


「痒いの、おさまった?」

「うん。満足した……」

「よかった。よしよし…」


 手前側が一区切りついて、お疲れと言う風に頭を撫でられれば、体からより力が抜けていく。私はとろとろの意識で、膝枕にほとんど沈み込んでいるみたいだった。自然、呼吸も深く長くなる。すると、より濃く亜里沙の匂いを感じられる。深く呼吸を繰り返せば、体の外も内も満たされていく。まったく、底なし沼みたいだ。


「ん、じゃあ次は奥めやっていくね」

「お願いしまふ……」

「はぁい。いれるよー……」


 こりっ…かりり…コリ…。


「うぁ……」


 手始め、加減を確かめるように耳かきが奥の方に触れた。中腹より下らへん、耳道が一度曲がる当たりの奥まったところ。それは自分で上手く触れない上に、軟骨が近いから皮膚が薄くて敏感なところ。

 そんなとこをこりこり、かりかり……絶妙に触られると、重たいくらいに気持ちよい。

 私は気持ちよさに圧し潰されるように、亜里沙の太ももへ鼻を押し付けてしまう。


 かりっ。かりっ。かりり……。かり、かり。


 耳かきは小さな耳垢を探し回って、こりこりと、奥の方のいろんなところを少しずつ触ってはそうさくポイントを変えていく。


「細かいのは取れそうなんだけど、さっきみたいに見えにくいのも、ありそうなんだよなー……」


 そんな呟きもつかの間、亜里沙は「あ」と呟いて捜索範囲をある一か所に絞った。そこは私の感覚を信じるのならば、耳奥の窪みの、裏っかわの部分。


 こりりっ…! 


 大きな刺激に、私は小さく身をうずめた。そのために亜里沙も一度耳かきの手を止めてくれる。


「あら、痛かった?」

「ううん……全然痛くはなくて、音にびっくりしただけ……」

「おお。じゃあこの奥にありそうだね。続きやってくよ?」


 コリッ……。かりカリ。こりコリ、コリっ……。



「わ、なんか固い感じがする……」

「やっぱりそう? この裏に、溜まってそうなんだよねー。もう少し触ってみるよ? 痛かったら言ってね?」


 コツッ。コツッコツ。かり……。かりっ、カリッ。


「どう? ある感じする?」

「する……。こつこつ言ってる……。だから、むずむずしてきた……!」

「あらら。そりゃこんなに触ったら痒くもなるか……。どうしよ……。ちょっと力入れるよ? 痛かったらごめんね」

「望むところ……」


 耳かきは慎重に奥まで入れられて、さっきよりも深く引っ掛かるように角度を調整している。


 かり、カリ…かり…かき…かさ…。

 かつっ。


 耳の中で、釣り針が上手くかかったような感覚が起こった。てこの原理が指の中で使われるみたいに、匙の先端に慎重に力が込められていく。


「ここらへんかなー……。えい……えいっ……」


 かりっ…かつ…カリ、カリ…さり…。

 がりっ…!


「ひゃ」


 私は自分でも恥ずかしくなるような高い声を上げた。あんまりにも突然、耳の中に大きな異物感が生まれたからだ。

 剥がれ駆けた耳垢の端が、ぴらぴらと耳の肌に触れるのである。


「わっ、ごめん、痛かった?」

「違うの……痛くはなくて……絶対動いた……かゆい……!」

「わぁ大変。おっけ、じゃあもうちょっとだけ、我慢してねー…? すぐ取ったげるから…」


 私はごくりと唾を呑む。今響いた大きな音。耳の中で小石みたいなものが剥がれかけ、根っこの方だけまだ肌に張りついて、くらくらしている。もどかしさの極みだ。

 そして、生粋の耳かき好きとしては同時に、こんな状態でかりかりがりがりされたら、どんなに気持ちがよいのだろうかなんて、期待も膨れ上がっていく。


 かりっカリ、ガリガリ…ガサ…ゴソ…こりっ……ゴリッ…ぺり、パリっ…。


 悶えたい気持ちを一心に抑えながら、私はなんとか声を振り絞った。


「と、れ、そう……?」

「あと、もうちょっとー……!」


 がりっ……がり……。

 ぺきッ……!


「あっ…!」


 頭の中で、炭酸を開ける時みたいに、快感が流れ出した。


 ぱきり。パリっ。


 異物感が剥がれ落ちた。ごそ……と言う音とともに、耳道に耳垢が落ちたのだ。耳垢があった場所に当たる空気が冷たい。

 そして、剥がれてなお、耳垢は存在感を増して、耳は『早くそれ取り出して』と言わんばかりに、ひりひりと疼き出す。


 がり…かり…カリカリ、かりっカリっ。かり…かり…かり……。


「わー。でてきたでてきた。見えないところに、よく溜まってたねー……」


 かりっ……かりかりかり。かきかきっかき……かき……。

 かりっ、かりっ。かり、かり、かり……かりかり……。

 かしかし……。かきかき……。

 ズゾゾ……。


「うぁ……」

「よし、取れた、取れた……。動かないでね……」

 

 耳垢がゆっくり引きずり出されていく音。

 最後、ころっと耳の入口へ転がりだす。


「ふーっ、取れたー......! すごいねぇ、こんなのも窪みの裏にあったら見えないんだねー」

「そんなに、大物……?」

「んー、大きくはないけど、固そうというか。小指の爪の端……みたいな?」

「おー……」


 それくらいのものがぴったりと張り付いていたら、確かに気づかれるまで痒みもないのかもしれない。だからこそ嬉しい収穫であった。耳かきで一番気持ちいのは、こういう取りにくい耳垢を取り切れたときと決まっているからだ。

 亜里沙はといえば私の耳の外側の上で、採れたばかりの耳垢を耳かきで掬い上げ、まじまじと観察しているらしかった。


「あれ……よく見たらちょっとだけ黒っぽくなってる……? これ、瘡蓋も混じってるんじゃない……? 絵奈、最近一人で奥の方ぐりぐりやったんじゃないのー?」


 ……ぎく。

 私は口を静かにきゅっと結んだ。

 思い返せば、前にやってもらったとき、亜里沙が安全を期して触らなかったところを、その後一人で黙ってやった記憶はあった。

 最後に綿棒をいれたら、赤い点がつくくらいまで。

 

「えっと、心当たりは、ある……」

「もー……自分で血が出るまでやったってことでしょー……? 本当に絵奈は加減できないんだから……」

「むう……」


 私自身としてもバツが悪く、大人げなくしゅんと無言になってしまったら、『……むう』と亜里沙もまた口ごもってしまう。

 うっ、私のせいで……天国の空間に、翳りが……!居心地悪いとまで言わなくても、ぎこちない、変な空気が起ってしまった。

 

「……ごめん」


 私は素直に上を向き、亜里沙の顔を上目づかいに伺った。そこに映るのは叱った手前むくれているが、困ってもいるような表情。

 ああ、ほんと。こういう状況でも、頭の中に『可愛い』が浮かび上がってしまうから、私は単純すぎてよくないのだと思う。


「もう、やりすぎないようにするから、許して……」


 服従する犬みたいに、お腹を向け上目遣いで、顔の前に手を合わしてみれば、「もう……」と一言だけつぶやき、亜里沙の顔がぐいっと近づいてきた。


 そして、私の両耳を両手で掴み、すりすり、ぐみぐみと揉み始めた。


「わっ、えっ、なに……!?」

「……」


 急なことだから私は小さく身悶えした。

 いや、あったかくて、気持ちいいけど……!

 そんな亜里沙は無言ながら、じとーっとした目をずっと私に合わせ続けていた。心なし、ほんのりと顔が赤い。

 私も、キスかと思うくらい顔を近づけられたせいで、ほんのりと顔が熱い。


「我慢できずに一人でやるくらいなら、私に言ってよね……」

「え、いいの……?」

「良くないけど……」


 またじとーっとした目は、手のかかる子供を見るような母性に溢れていて、また良くないことに魅力を感じてしまう。


「自分でやりすぎるより、私がやったほうがいいもの……。傷にならない程度に、満足するまで」


 耳の穴の手前にまで、くにくに指が入れられる。もぞもぞと動く音が耳に充満する。そこに圧迫感はなくて、不思議と安らいだ。


「え、それは、勿論!満足できる。亜里沙が奥の奥までやってくれるなんて……!」

「もう……そんなに耳かき好きじゃ依存症になっちゃうよ……?」

「いいよ……。亜里沙がやってくれるんだから、もう依存症みたいなもんだし……」


『まったくこいつは……』という表情をしたいのだろうに、瞳にはどうしても私への優しさが隠せていない。だから私も愛されているという自信をもって、じっと見つめ返す。二人して無言のまま、瞳の奥で感情を交換し続けていると、ぞくぞくしてくる。亜里沙が私のことを大切にくれて、その上で絆されようとしてくれていることが分かる。


 うぅ、やばい。愛しさが溢れる。


 ハグもしたい、それ以上のこともしたい。

 けれど今は、亜里沙の膝に身を任せて、甘やかされるのを享受したい。そのまま依存症にだってされたいのだ。


 すりすりと仕上げみたいに私の両耳は撫でられた後、頭の後ろを優しく押される。『続きするよ、ごろんして』の合図だ。


「……ほら、さっきのところも、もっと奥も、まだ痒いんでしょう? 耳、上に向けて」

「ん……」


 甘く言いつけるような亜里沙の声に、わたしもごろっと頭を転がす。

 無防備な体を全て預ける。体にもう余分な力は入らない。


 耳かきが入ってきた。優しく、手探りに先ほどのポイントを探す。


 こり、こり……。かり、かり、かり……。


「気持ちいいところあったら、言ってね」

「うん……あっ、そこ……」

「ここ? 了解。かりかり、かりかり……」

「あっ、それ、囁くの、やば……」


 自然につぶやかれた亜里沙のオノマトペは、まるで子供をあやすような母性に溢れていた。亜里沙の綺麗な声も、余計に粒立つよう。


「そうなの? じゃあもっと……。奥の方を、かりかり……。こりこり……」

「ふぁぁ……」


 こり。コリッ。


 耳かきの匙が引っかかる窪みのところ。傷つけないギリギリの力で、くりくりと癒される。


「細かいのも、残って気持ち悪くならないようにね……。こりこり、こしこし……。かり……かり……かりっ……」


 もはや私には声を上げる力も残っていなくて、赤子みたいにぱっと口も開けっぱなしだった。

 太ももの柔らかさとぬくもり。亜里沙の匂いに沈み込む。雲の上で寝そべっているいるかのよう。


「かりかり……かいかい……。かきかき……かきかき……」


 もはや体のどこにも力が入らなくなって、浮かんでいるかのよう。ここが夢なのか、現実なのか覚束ない。

 

「ありさ……?」

「なぁに? 絵奈」

「うぅん、よんだだけ……」

「えー、なによ」

「ふふ……」

「もう……」

「……ありがと」

「……はいはい」


 亜里沙がそばにいるということを確かめたかった。少しだけあった不安も霧散して行った。ここが夢であろうと、天国であろうと、私は安心できた。



「むぅ……」


  明るい光が、何かによって陰されていた。それが部屋の灯りと、亜里沙の影であることに気付きながら、私はゆっくりと瞼を開いた。

 髪が撫でられていた。


「あ、起きた?」


 世界で一番好きな声が降りてくる。


「うぅ……。寝てた?」

「うん。ちょっとだけ」

「ごめん……」

「大丈夫。寝ちゃう前に、ちょうど綺麗になったから」


 そうなのか。朧げな記憶であるが、私の意識は一番気持ち良い瞬間に途切れた。きっと、亜里沙の耳かきを味わい損ねたということはないのだろう。


「ねぇ」


 亜里沙の手が、私の耳をあやすようにすりすりと撫でる。


「ん?」

「最後に、ふーーってしていい?」

「ふぇ、うん。いいよ……?」

「んふふ」


 亜里沙の声が嬉しそうだから私も嬉しい。それに、聞かれなくたって何をされてもいいのに、私は。と、寝ぼけ眼で思う。


「いくよ? すぅー……。ふぅーー…………」

「んぅ……!」


 私の瞼は、鼓膜が温かくぼわぼわと揺れるのに合わせ、閉じる。甘い息は目に見えないくらいの塵のような耳垢を飛ばして、撫でるように耳道を温める。息を吹きかけるのが止まると、入れ替わりに入ってくる部屋の空気がひんやりと感じられる。私はとろんと瞼を開いた。 


「もういっかい。すぅー……ふぅーーー…………」

「うぅ……」



 そして亜里沙はもう一度してくれた。私はとてもゆっくりとした瞬きみたいに、また瞼を閉じてしまう。

 そしたら、くすりと亜里沙に笑われた。「んぇ?」と朧な意識のまま亜里沙の方を伺ったら、「ごめんごめん」とまだ微笑まれながら謝られた。


「絵奈のね、耳をふーってするとき、一緒に目を閉じちゃうとこ、好きなの。可愛くて」


 ぽかんと口を開けながら、恥ずかしいような、嬉しいような気持ちになる。


「そんなの、みんなそうなるでしょ……!」

「そうだよね。そうなの。そうなんだけど」


 亜里沙は上を剥いた私の頭を宥めるようになでながら、もう片方の手で顎の下をくりくりと撫でてくれる。私は思わず閉じてしまいそうな目を、変な反抗心で細めるだけに留めた。


「もっかい、横向いて?」


 頭を包む手に優しく促されるから、それには素直に従う。ごろんと、もう一度耳を上に向ける。


「ふぅーー…………」

「んん…………!」


 そして今度は耐えられなかった。目を閉じてしまうし、体もふるりと揺らしてしまう。

 ふふふと嬉しそうに笑われながら、亜里沙の手は『ごめんね?』とご機嫌を取るように髪も顎も、すりすりと撫でてくれる。

 困った。私で遊ぶ彼女への溢れる愛しさに、怒る気持ちがまるで湧いてこない。


 それから、少しの間私たちはじゃれ合った。弄ばれていた、ともいえるかもしれないけど。

 亜里沙の指が撫でる場所は首筋から、耳の裏側、ほっぺたとくるくる変わった。

 その合間に、亜里沙は耳にも息を吹きかけてくる。私は目を閉じまいと頑張った。


「ふぅーーっ……」

「う……」

「ふっ……。ふっ……」

「わっ、あっ……」

「ふーー…………」

「くふ……」


 でもダメだった。鼓膜の奥にあるスイッチが亜里沙にだけ見えているかのように、楽しく私の瞼は弄ばれた。私の方も、弄ばれるのが嬉しくなかったかと言われれば嘘になるけど。


「……ね」


 ひとしきり亜里沙が満足したところで、私はまたお願いを切り出した。


「ん?」

「今日、一緒に寝て……」

「…………え。」


 亜里沙の撫で続けてくれていた手が、かっちりと止まった。


「それは……この後、スるってコト?」


 どこか熱っぽく、ぎこちなくなった亜里沙の声に、私も頬を赤くしながら、違う違うと膝枕の上で首をじれったく動かす。


「そうじゃなくて……いや、シたくないってことでもないけど……いや、そうじゃなくて……!」


 誤魔化すように、膝を手でさする。


「耳かきの後、お酒飲まずに、くっついて寝たい……」


 私はもう二つの限界に至っていた。

 眠たさと、亜里沙への愛しさ。天国のような耳かきの後、このまま亜里沙に触れながら眠る事ができたら、どんなに気持ちよいだろうかと、頭の中で囁く魅惑の誘いに抗えなかった。

 今日はもう甘え過ぎている。だから振り切るくらいに、甘え切ってしまいたい。

 底なし沼に、爪先からつむじまで浸かってしまいたいのだ。

 そんな私を、亜里沙は包むように受けとめてくれた。


「いいよ……。じゃあ耳かきの後、添い寝しようね」

「ありがと……だいすき……」

「私も。ほら、じゃあ、反対側もやろ? ごろんってして……」

「むふ……」


 私は全てが受け入れてもらえる天上の気分の中で、ごろんところがり、亜里沙のお腹へ鼻をうずめる。ゆっくり息を吸い込む。心まで全部君の匂いに満たされる。


「じゃあ、耳かき入れるよ……。かり…かりっ……」


 至福の夜は、そして猶も紡がれ続けていった。



 目覚めた私は、隣の健やかな寝顔を侵さないよう、ちらりとだけカーテンを開けて真っ青な空を仰ぎ見た。エアコンをつけずとも丁度良い肌寒さと秋晴れの、午前6時。


 ヤバい。


 頭に浮かんだその言葉に、私は心底同感だった。

 私の頭の中も、今仰ぎ見る空の鏡映しのように、曇り一つなく澄み切っていて、ヤバい。


 昨日仕事でため込んだストレスが、もうどこにもない。私は一周回ってビビっていた。『亜里沙に愛してもらえる』というその力に。

 目覚まし時計のセットは6時15分。

 もうすぐ、無粋にも隣の女神さまを起こしてしまいそうな目覚まし時計にオフを言い渡す。まだ熟睡を味わっていて欲しいから、布団を揺らさぬようベッドから這い出す。

 昨日、そういうコトはしないと決めていたのだけれど、結局より多く肌を触れあわせていたくなったから、ベッドから抜け出た私の下半身はパンツ一枚だった。足を絡ませながら、内ももを擦り付け合わせてくっつきあうのはのは至福だったのだ。

 ……ってことは、布団の中の亜里沙も下はそうなのか。

 ……。

 朝っぱらからふわりと煙った色欲の香りを、回復した理性で扇ぎ払い、私はキッチンへと向う。疲れを全部消してもらったのだから、昨夜のように飼い猫のような我儘一辺倒ではもういられない。


「体、軽っ……」


 歩くのと一緒に伸びをしながら、もう一度ビビる。頭、体、肌……全部調子いい。

 寝室を出る前、振り返って安らかな寝顔を眺めれば、どうしようもなく顔が綻んでしまった。両手で頬を揉んで、マッサージする。

 ヤバいな、亜里沙って。



「ほーら、コーヒー。熱いからね? 船漕がないよぉ」

「んーー……」

「あーもー、パンくず落ちちゃってる。お皿遠いってば」


 亜里沙は、朝が弱い。

 いつも、こめかみの横あたりにぽぽぽと小さなシャボン玉が一つ二つ浮かんでいるような感じなのだ。

 可愛い。

 寝つきはすこぶるいい上でそうなのだから、生れ切っての体質なのだろう。朝、どうしてもぽやぽやしてしまいがちな彼女の世話を焼く。二人で共に起きれる朝の、私の一番の楽しみである。

 ちょっとずれている眼鏡。緩くウェーブのかかった髪。スキンケア前の、野暮ったい質感。全て独り占めできることが、恋人の特権である。


「バター足す?」

「んん」もぐもぐして、こっくりと頷く。

「塗ってあげようか」

「んー」

「……よし。はい、どーぞ」

「んー……」ありがとう、とゆっくり頭を下げる。


 亜里沙はどんなに寝ぼけ眼でも、何かを食べながらは喋らない。それを知ったうえで、話しかけてしまうことは内緒である。


「今日早起きできたし、スキンケアゆっくりしてあげる」

「んん。……んぐっ」


 ぷは、と亜里沙の小さな口が開く。


「美味し」

「でしょー? スープはどう?」

「美味しい! あったまる……」

「ふふ」


 今日の朝は余裕があった分、いつもより野菜に味も染み込ませた。


「ありがと、いつも」


 微笑まれてから、なにはともなくスープに口をつける亜里沙。自分の言葉の威力に、自覚はないようだ。


「こちらこそー」


 昨日は、どうも。

 朝の冴えた頭で思い出せば、昨夜の自分の赤子ぶりには、頬が熱くなってくる気分だけど。そんな姿を晒せる幸福を、私は重々理解しているつもりで、それでもまだ足りないのだろうと思う。

 

 ふぅー……と亜里沙はスープの分ぬくまった息を吐き出した。まったりと目を細める。

 この後はいつも通りに朝のお化粧と、スキンケア。勿論、亜里沙自身が苦手な分、今日も私が大体手伝う。身を任せてもらう。

 今、木椅子の上で、肩の力が抜けて、微睡みの余韻を愉しんでいる君も、身を任せる気持ちよさを感じていてくれたらと、何より思う。


 朝八時前には、今日も二人、お互い一人で立って歩いて社会人を始めていける。

 だから、この家の中では互いに、寄りかかりたいときに、身を任せ合っていけたらと思うのです。

 

「昨日ね、いつもよりずっとよく眠れたの」

「私も」


 そうしてずっと、二人で生きていけたらと思うのです。

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百合耳かき @tukki_miri

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