夏の耳かき

「エアコン今何度?」

「26度」

「うっそだあ……」


 昼下がりの6畳間は、ゴーゴーと鳴くエアコンの声で満たされていた。蝉の無く声は窓の外へ締め出されている。窓の向こうには風鈴が似合いそうな田舎らしい景色が広がっているが、冷房のため閉め切られ、カーテンだって完全に閉じている。こんな暑い夏に、風情を楽しむ余裕はない。

 私は露出度など構わない上下白黒、半袖半パン姿で、畳の上で伸びていた。

 一方で美咲はエアコンの真下で壁にもたれかかり、涼しい顔をしながら片手にアイスバーを握り、もう片方の手で週刊少年誌を読むという器用なことをしていた。

 ちなみに、その漫画は私が買ったやつである。


 築何十年と言う我が家の二階、母もかつて使っていた子供部屋に、唯一似つかわしくないものがあるとすれば美咲であった。

 儚げな色白の容姿と、長い黒の髪。シンプルながら上品さを漂わせて隠さない眼鏡は、文庫サイズの純文学が似合いそうな感じ。その上で白のワンピースまで着ているから、麦わら帽をかぶせて若草色の波打つ田園風景にほっぽり出したら勝手に絵画になりそうな少女。それが美咲であった。

 人生に一度しかない十七歳の夏。勿体ないし、一枚ぐらいその姿を写真に納めておいた方が良い気もするが、36度もかくやというこの外気温でそんなことをしたら流石の美咲と言えど死んでしまうので、私は誘い出したりもせず、こうして室内で漫画を読み耽って二人の時間を過ごしている。


 そういうわけで、暑い。

 取り留めない思考が渦を巻いて溶けるほどに。

 中古のエアコンは、効きが悪い。


 私は漫画を読み終わって手持無沙汰だった。スマホも通信制限中であるので退屈から逃れる術はなく、首を伝う汗が存在感を訴えてくる。仕方なく寝返りを打ち続け、畳冷えた場所を転々とすることで、わずかでも涼を得ていた。畳目に頬を押し付けると、効率よく冷たさを奪い返せる気がする。そう美咲に話したら、涼やかに鼻で笑われた。『顔に跡がつくよ』と正論を言われたから、反骨精神でこの行為に没頭している。

 それでも、視覚的な退屈は免れえなかったから、仕方なく美咲のことを眺めていた。

 悔しいが、ピアノコンクールのためたまに東京へいったりする美咲に似合う『夏』とは、いわば久石譲的『Summer』であって、夏の負の面をいっとき忘れさせる力を持つのだ。

 すると、すらりと伸ばされた白い太ももの向こうに、レースの飾りがのぞいて見えた。

 ──パンツだ。

 私は探偵のように目を凝らした。

 色は……白? スカート部分が翳らせるせいで判然としない。私は退屈しのぎを見つけた。そしたら視線を感じた。目線をあげれば少年誌の上辺越しに目が合った。『軽蔑』の一歩手前の目の色だった。


「すけべ」

「白と見た」

「正解」

「さすがお嬢様。レース着きだなんて」

「変態」

「いや、足閉じな?」


 美咲はじとっという擬音を眼の形で表現した。けれど、わざわざアドバイスしてやったのに軽く鼻を鳴らすだけで、足を閉じやがらない。覗き見行為を糾弾するだけで、恥ずかしさというものはないらしかった。再び少年誌に視線を落とす。

 そうなってしまうと、途端にこちらにも醍醐味がなくなる。恥じらいがないパンツなんてつまり布だ。

 また退屈になった。

 私はごろんと、仰向けになった。

 暑い。



 今は夏休み。

 昔は華の女子高生ともなれば、海なり山なり都会なり、青春を満喫しようと出かけたがったことだろう。しかし令和となった現代の大前提として、こんな時節、人間が活動できるのは屋内限定であるというのはご存じの通り。

 学校まで百面ほど田んぼを通りすがるようなこの町。娯楽と言えばお互い買った漫画を共有することばかりだ。文化的生活の生命線である個人書店、そしてこの町最大の文明ともいえるチェーンコンビニを補給地点とし、漫画やお菓子を持ちよってはこの夏休み、私たちはほぼ日課のペースでお互いの家を行き来している。

 今日集合したのは1時間前くらい。私も日用品を補充したかったので、二人して日傘を並べてコンビニと本屋に行って帰ってきたわけだ。簡単にいえば灼熱地獄だったので、もう今日は二度と外に出ないことに決めた。

 日焼け止めと制汗剤は十分に使ったし、帰ったら二人恥じらいなく洗面室で下着になって、タオルで体を拭ったわけだが、まだ体にスリップダメージは残っていた。


 そんな私たちをかろうじて癒すのが、先ほど紹介に預かった中古エアコンである。

 私は親しみを込めてチュウコと呼んでいる。現在の設定温度は26℃。しかし、これを額面通りに受け取ってはいけない。十数年前のまだ夏が正常だった時代に買われた安物だから、力不足感は否めないのだ。

 具体的に言えば、表示温度と体感温度が3度違う。実質の温度は29度だ。命の危険がない点で生命線足り得ても、人間がくつろぐには暑すぎる。


「ねぇ、何か涼しくなることないですか」

「はるよ。わらひにらへ」

「ん?」


 変な口調を聞き、私が仰向けのまま後ろへと首を曲げれば、天地逆さまで美咲が見える。すると、小さな口にはアイスバーが、これ見よがしに咥えられていた。残り三口くらいの甘やかなソーダ色が、木の棒の中腹あたりで弾んでいる。

 私の口は物欲しそうに開いていた。無意識だった。涼に飢えた体には、もはや官能的ですらあった。


 アイスはコンビニに寄った際一つずつ買っていたというのに、私は衝動のまま、帰宅直後に食べきってしまっていた。一方美咲は体の火照りと喉の渇きを氷水一杯で癒して本能をやり過ごした。このアイスバーは、冷凍庫で一度冷やし直したものをさっき取ってきたものである。計画性に関する寓話か何かだろうか。

 キリギリスのように、私はパトスだけで言葉を発した。


「アイス食べたい……」

「らら、もうひっはいこんひにまれいからいとれ?(なら、もういっかいコンビニにいかないといけないね?)」


 悔しいことに、内容は完璧に聞き取れてしまった。発音に合わせ、甘い氷が蠱惑的に揺れやがる。


「はあ……。そんなことしたら死んでしまうでしょう」


 美咲はさもありなんと、訳知り顔で頷く。そんなのを見たら、八つ当たり的に腹が立ってきた。

 はぁ、冷凍庫の製氷を何個か、口に入れてこようかしら。

 なんて現実的手段を考えていたら、ふと美咲の方も何かを考えこむように黙り込んでいた。かと思えば、私がその表情を見つけた瞬間、ぷあ、と咥えていた木の棒を口から放した。


「じゃあこれ、いる?」


 美咲は至極普通の表情で、口から出したアイスバーを私に突き出した。

 うぐっ、と喉が鳴った。

 たった残り三口。美咲がゆっくり食べていたから、アイスの表面はじっとりと滲んでいた。先端から滴りそうな滴をみたら、心臓が弾んだような気がしたが……いやいやいや。

 それ以上私は考えるのをやめた。


「……いるね!」


 勇気をもって手を伸ばせば、ふわりと指は空をきる。


「あ!?」

「ふふっ、ウソ」


 アイスの棒はあっさりと美咲の小さな口へと戻り、しゃく、と、風鈴より涼しい音が鳴った。

 しゃりり、しゃりり、白い頬がぴったり三口で食べきる。唇で最後につつつとなぞられたのは綺麗な木の棒一つ。

 ふふん、と呟かれた声を聞き逃そうはずもなく、私は半月状になった眼で睨んでやった。


「弄びやがって……」

「弄びやがった」


 美咲は木の棒を口に咥えなおし微笑んでいた。スナフキン気取りである。

 そして、「はぁあ」と私をからかい尽くした満足げなため息をついてから、ようやく暑さにくたびれたのか、手に持っていた少年漫画誌を八の字にして床に置いた。壁にもたれかかってぼんやりと目を細める。

 その姿さえもなぜだか様になって、青々とした大樹の幹にもたれかかる絵本の中の少女にさえ見えた。


「ね」


 そしたら、美咲は私に声を掛けてきた。

 私が手を伸ばせば届くくらいにある、エアコンのリモコンを指したのである。


「エアコン、下げようよ。24度まで」

「ええ」


 私は渋い声を返した。それは理想的な提案だったが、私の体に染みついた長年の家訓が、アレルギー反応をしていた。


「そんなことしたらお母さまに殺されてしまいますもの。できませぬわ」


 今、一階には母がいるのだ。

 きっと、私たちが帰って来た時と変わらず、まだリビングにて中部ローカルのワイドショーでも見ていることだろう。当分二階に上がってくることは無いはず。

 それでも、実の娘として可能性があることに臆する。母は『エアコン26度まで』教の信者だから。

 しかし、ここに美咲が混ざると話が変わる。


「バレたら、私から口添えするから」


 自信を持った口調には、根拠が伴っていた。

「ああ。まあ、それなら……大丈夫か」

 私も不服ながら、認めざるを得なかった。

 母は美咲のファンなのだ。


 母は田舎育ちゆえか、年齢に似合わない昔気質の持ち主だった。だから、元号は二つも変ったというのに、エアコンは暑いくらいがもっとも経済的で健康的だと信じてやまない。

 その上で、昔気質と表裏一体なのか、やや思考も古めかしい乙女チックというか、何かと清楚なものが好きなのだ。簡単に言えば、古い小説に登場しそうな美少女像──深窓の令嬢。

 つまり、美咲だ。

 実際、美咲は御令嬢と言っていいような良家の子だ。なんたって家にグランドピアノがある。ヤバいだろ。それに、この町の中で一番麦わら帽とワンピースが似合うことにも疑いはない。この町どころか、全国でも有数だと母は信じてやまない。

 なので美咲の言うことなら母はだいたい聞いてしまうのである。

 『うーん、美咲ちゃんの体に悪いもんねぇ』。

 甘い声の脳内再生は余裕余裕。なんなら、私が人生で一番聞いた母の褒め言葉も『美咲ちゃん、可愛いわねぇ』だ。美咲が空気の良い(と思い込まれた)この町に越してきたここ数年で、実の娘は2位の座に甘んじたという驚異的ペース。一人っ子ながら、私は何故か友だちの姉妹コンプレックスによく共感できる。

 美咲がバックについたことで、諦めに似た決心がついた。


「うーむ……えいっ!」


 ピッピッ。

 背徳感を押しつぶしながら、私は下向き▼ボタンを二度押した。

 すると、チュウコは呻くように鳴いた。老体に鞭打っていることが分かる。頑張れ、チュウコ。おまえならやれる。

 24度表示をもってして、実質27度。健康的なラインだ。決して贅沢ではないのだから、せめてそこまで頑張ってくれ。

 思いは通じているのかいないのか、チュウコはごう!ごう!と大変そうに息を吐き出し始めた。

 冷風の塊が顔に当たる。

 中古らしい、埃っぽい香りももはや涼味であった。


「ほわ……」


 思わず声が出る、命の風。

 HPゲージがあれば、みるみる緑色が増えていくようなそれ。心地よさに身を任せ、猫みたいに目を細める。

 美咲も美咲で、満足そうに目を閉じた。それも、春の草原の上にいるみたいな顔で。う~ん、やっぱり涼しい顔しかできない女。嫉妬心からか、私は物申したくなった。


「ねえ美咲。口添えしてくれる気があるんなら、もっと早く言ってくれてもよかったじゃない」


 私の言い草に美咲は訳もないという風に、アルカイックな微笑みを崩さなかった。


「う~ん。暑そうに、気怠そうに、伸びてごろごろしているあなたを見ているの、面白かったから」

「……」


 ……?

 一瞬固まる。

 今こいつなんていった。

 私は口端をゆがめつつ、呆れた。一方で、すぐ納得もした。

 長い付き合いである。美咲のそういう暗黒面を私は知っている。さっきのアイスしかり、美咲にはタチの悪いサド気質があるのだ。

 虫も殺さない。花も摘まない。けれど蝶が止まった花を、笑いながら指でつつくような……そういう性格なのである。倫理のラインを越えることはないから厄介だ。


「お母さんにバラしてやる……」

「お母さん、私の肩を持つと思うな」

「そうなんだよな……」


 私は口惜しくも頷いた。『美咲ちゃんがそんなことするわけないでしょう』。このセリフ、私三回くらい聞いたことある気がする。

 そんな私のやるせなさも露知らず、美咲はスマホを眺めはじめていた。


「ねぇ、アザラシ幼稚園って知ってる?」

「えっ。なにそれ」


 聞きなじみのない、やたら可愛いワードが飛んできたから、つい私も興味を惹かれてしまった。上手い憎まれ口の一つでも叩いてやろうとしていた思考が、あっけなく霧散する。まぁ、思いつく気配もなかったけど。

 美咲は指を立てて教えてくれた。


「最近i tubeで流行ってるの。オランダにアザラシを保護する施設があってね、野生から保護された子アザラシたちが巣立てるようになるまで、一つのプールでお世話されてて、その様子がずっと動画配信されているの」

「え、見たい!」


 私はごろりと寝返り打って肘立ちになった。割れながらちょろいものである。美咲がスマホを私の方へ近づけるから、匍匐前進でお膝元へ寄る。美咲は無制限プランの使い手である。家にwifiもない私にとっては、縋るべくは一つだったのだ。

 値段も大きさも私のより二回りは大きいスマホをすいすいと操作する合間、アザラシを語る美咲の柔和な口調は、さっきのSっ気はどこへという可愛らしいものだった。


「その子たちがずっとね、ぷかぷか立ち泳ぎしたり、プールのヘリでごろごろ寝転がったりしてるの」

「え~~~」

 なんと、まあ。この世の楽園みたい。

 ローディングを終えプールの様子が映し出され、私は首を伸ばして覗き込む。

 それと同時に、思い出すのも面白いという風に、美咲は可憐に笑った。


「さっきのあなたもそれに似てて可愛かったから、ずっと見ていたかったの」

「誰がアザラシだ!?」


 私はアザラシにはない機敏さで、美咲に食って掛かっていた。


 その後、私としては『喧嘩のおっぱじめ』という認識で、美咲は『じゃれあい』という認識で、少々小競り合った。

 これはちなみにの話しであるが、ピアノで鍛えられた美咲の腕は私より細いのに力がある。

 二分後、私たちは休戦していた。申し入れは私の方からである。まだ部屋も冷え切っていないうちに、汗をかきそうな行為など馬鹿らしいではないか。決して、劣勢に甘んじたという訳ではない。

 その後、美咲は改めて配信を見せてくれるから、まぁ、アザラシに免じて先ほどの発言を許してやることもやぶさかではなかった。


「え、可愛い〜!」

「この立ち泳ぎ、茶柱って言うんだって」

「うわぁ、最初の人センスあるなぁ」


 アザラシもまた、いずれ鳩と並んで平和の象徴になるのかもしれない。無垢なるぷくぷくの塊が伸びたり縮んだりするのを見ると、人類みな癒されるらしい。世界各国の『かわいい』という内容の十人十色のコメントが、泡みたいに浮かび上がり続けていた。読めずとも、意味は分かる。

 それから私たちはしばらく、ひっつきあってアザラシたちを眺めていた。私は美咲のお膝元にもはやもたれかかるようにして、肩から腕はもうほとんど美咲の太ももに押し付けていた。

 さっきまでなら暑苦しい距離感だったろうが、十分チュウコが頑張ってくれたおかげだ。今となってはむしろ、人肌に触れているくらいが涼しすぎない。

 頬杖つけば、美咲の膝に髪が乗っかりそうになる。うちの家で使わなそうな質のいい柔軟剤の香りがした。

 人間の体は現金なもので、暑さも退屈も紛れると、今度は睡魔が訪れてきた。ぐっすり眠りたいというよりは、微睡みたいというような甘い睡魔だ。


 配信を見せてくれる前に、美咲はアイスの棒も捨てたし漫画も床に置いていた。美咲の膝の上はすっかり開いている。美咲は無表情ながらも、プールの縁にやってきたアオサギにアザラシの園児たちが集まる光景に夢中だった。


「……」

 睡魔が、私の悪戯心を誘った。

 私は美咲の膝枕にぽすと頭を寝かせた。

 美咲の脚は太すぎず、細すぎない。私の頭は低反発に受けとめられる。

 ワンピース生地の肌触りも、畳の固さと比べれば天と地であった。


 一瞬美咲の脚が動いた。驚かせたのかもしれないが、今日の美咲の蛮行ぶりからすれば、これくらいは丁度いい意趣返しなのではなかろうか? そんな気がする。私は『ゆるせ』という意味も込め、頬擦りするみたいにみじろいで、膝枕の高さを合わせる。

 思った以上に、睡魔はこの場所を気に入った。『いやいや、冗談』という顔をしてすぐ頭を上げることだってて来たのに、そんな気が無くなってしまうほどに。

 互いに数秒無言だった。アザラシ幼稚園の配信は環境音を流さない。だから沈黙は間延びする。少しだけおっかなびっくりと、見上げる。ちら。反応はどうだろうか。


「……」


 美咲はじと~……っと、物言わぬ視線を落としてきていた。

 とうとう私の方が無言の圧に負けてしまい、口を開いてしまう。


「膝枕、貸して」


 美咲は呆れたように目を細めた。


「事後承諾とは、大きく出たね」

「そこをなんとか」


 膝枕の上で頭を下げるように身じろげば、髪がくすぐったいからか、足がもじもじと揺れる。うわあ逆効果と私は動きを止めた。

 あとは美咲の裁量を待つ。黙考に充分な時間が過ぎてから、またちらと美咲を伺えば、ふむ、と小さく彼女は呟いた。そして、スマホの画面をカチリとロックした。

 画面を伏せ床において、両手も床につく。

 完全に膝の上を明け渡した状態である。

 ……あら、交渉成立?

『重い、やめて』くらいの返事だって想像していたのだが。

 こうもすんなりと美咲が受け入れてくれたことに一抹の不思議を覚えつつ、何はともあれ合意ということになれば、じゃあ遠慮せずと再び枕の高さを整え、私はふすーっと息を吐いた。ピアノで日々使っているからか、美咲の太ももは柔らかすぎず、固すぎず、なんというかしなやかなのだ。そして、肩幅なのか首のしなりなのかは分からないが、私の頭は少し身じろぐだけで、美咲の膝枕にぴったりとはまる。ようするに、美咲の膝枕はとても寝心地がいいのだ。だからつい、さっきも魔が指した。

 こうして頭から力を抜けるようになると、途端にぼんやりしてくる。人肌のぬくもりと、冷房の涼やかさに包まれ、私がとろんと目を閉じようとすると、しなやかなものが私の髪に触れた。

 私はぱちっと目を開いた。

 美咲の手が私の頭を撫でていたのだ。私は驚きはすれど声を出すことはなく、とりあえず大人しく撫でられることにした。美咲の手つきが、膝の上に猫を置かれたときのような、『おのずと』という感じだったからだ。喉を鳴らせるなら鳴らしそうなくらいに、悪い気がしなかったのだ。


「……眠いの?」


 降りてきた美咲の声はいつになく柔らかい。それに吊られ、私の蕩けた頭も言葉を纏めるより先に口から出してしまう。


「うーん……『眠くて眠くて眠い!』……ってわけじゃなくて、ごろーっとしたいって感じ。今、寝ようとしても寝れない」

「ふーん」


 そっけない相槌と反面、手つきはずっと甘やかだった。昼下がり、天蓋付きのベッドの上で、お嬢様に撫でられているペルシャ猫の気分。私の髪は美咲のように長くない分、撫でやすいようで、お気に召されたみたいである。美咲の細くてしなやかな指は櫛のように、頭の地肌に小さく爪をたてながら、さりり……さりり……と滑らせるように撫でる。私は目を細める。

 膝枕の対価が、髪を撫でられることなら儲けものだ。されるがまま、微睡の手前で意識を遊蕩させていた。

 そんな私へ、また声が降ってくる。内容はささやかな苦言であった。


「ねえ。このままずっとごろごろされたら、私、漫画も、スマホも、見れないのだけれど?」

「何卒……ご了承ください……」


 しかし、内容に反して全くの猫撫で声であったから、ならば私もと猫らしく、強気に振舞うことができた。

 ふうむ、と小さく鼻が鳴らされた。


「まったく……あなたは交渉が上手いね」


 いやあ、それほどでも。


「なので、あと五分、いや、あと十分……このまま……」


 私が寝ぼけ眼のシーツみたいにスカートを掴めば、手櫛が止まって、ぽふと髪の上に手を置かれる。

 あら、とうとう愛想をつかされたかしら?

 私はチクリとした不安を抱きながら顔をあげると、また美咲はじーっとした視線を落としていた。見間違いでなく、さっきより機嫌はよさそうだった。


[newpage]


「だったら、私も手持無沙汰で暇だからさ……してあげようか、耳掃除」

「えっ」


 私はごろんと勢いよく、美咲のお腹の方へ寝返りうった。


「いいの」

「ん。暇だから」

「やった」

 そう言った私の表情は、言葉に似合わずきょとんとした顔だったと思う。嬉しいけれど、珍しい。私が頼むのでなく、美咲の方から言うなんて。

 いや、美咲の耳かきは本当に気持ちよいから、『やった』でしかないわけであるが。


「ちょっと待って、そのままでいいから。耳かき取る」

「ん……」


 私はず変わらず愛猫扱いで、一度頭を上げる労力だって免除された。美咲は横に手を伸ばしてなんとか届く距離、壁沿いに置いた小箪笥の上からペン立てを掴み取り、その中から私が普段愛用している耳かきを取り出した。美咲ももう定位置を知っているのだ。

 一瞥見上げれば、手の中で耳かき棒をくるりと回して準備万端というふうに構える。


「はい。やるから、好きな方の耳を上に向けて」

「んっ」


 私は迷わず右耳を上に向けた。


「……絶対、最初は私のお腹と反対側にするよね」

「……え、そう?」


 バレてた。恥ずかしかったから適当に誤魔化した。


「まぁいいけどね。じゃあいつも通り、外側のマッサージからね」

「ん」


 いつもといった通り、私たちは耳かきを結構している。

 ……正確には、私がされてばっかりいる。仔細は省くとして、去年の春だから夏だか、やたら取りにくい耳垢に一人顔を顰めていた私が一か八か美咲にやってと頼んだら、意外にもokしてくれたのだ。それ以来、たまに頼むようになった。

 理由はなにより上手いからだ。八十八の鍵盤をミスタッチなく弾ける美咲の指使いは、初めてという耳かきにおいても遺憾無く発揮された。痛くない、強すぎない、心地いい。私は所謂耳かき中毒で、しょっちゅう自分で耳かきをやっていたわけだが、人にやってもらう心地よさは格別だった。

 美咲自身もまた凝り性で、何度かやってから自分の腕に不満を憶えたらしく、耳かきのやり方について自分で調べては、いつの間にか本格的な技術をみにつけていた。


「耳引っ張るよ。痛かったら言うように」

「はい」


 まずは耳の血行を良くするため、耳の外側の揉みほぐしから始まる。これもいつか私が耳かき屋さんの動画を見せたら、次やるときには美咲が体得していた技術。

 御猪口を持つようにそっと耳の付け根が包まれる。中指の腹で軟骨をぐーっと押される。そしてもう少し下、さらに下、最後は耳たぶの後ろのくぼみと、弧を描いて指圧される。エアコンの風に当たり続けたからか耳は冷えていて、指に熱を感じた。その後も、クッキー生地を捏ねるような力加減で耳全体をくにゃっと折り曲げたり、ぐーっ……と引っ張ったり、耳殻の血の巡りを促進する。


「はわー……」

「ん、とりあえず外側は桜色」



 耳殻のマッサージが終わって、最後に耳から首筋にまでかけてもぐっ、ぐっーー……と血を押し流すように揉まれていく。


「こんなもんかな」

 手始めのほぐしが終わった。 美咲がふっと小休止の息を吐いた。体を捻るから、膝枕の揺れる。衣擦れの音。耳かきを手に取っているのだと首を向けずともわかった。

 カチリと、耳かきに美咲の爪が当たる音がした。


「じゃあ、浅いところからやってくからね」

「ん……」


 呟きこそ眠たげに発したものの、内心私は逸っていた。早く耳かきをして欲しかった。桜色と言った通り耳は温まって小さな汗をかいて、今は耳垢が取りやすくなった状態なのだ。

 その分、痒みも増している。


「耳、引っ張るよ。……あー、なるほど」

「え。溜まってる?溜まってない?」

「カサカサしたのが、溜まってる」

「おー……」


 耳垢が溜まっているという乙女なら恥ずべき点も、今となっては期待に変換された。耳垢がないよりある方が気持ちいいのは自明。以前大きい耳垢を取ったときの、耳かきのひっかかる感触はクセになって忘れられない。

 そんな私はさておき、する方の美咲には弱冠の呆れが滲んでいる。


「この感じ、自分でいっぱいやって、耳が荒れたのが治りかけたって……とこでしょう?」

「わあ……ご明察」

 私は苦笑いで誤魔化した。

 耳かき中毒というのは耳にとって良いものではない。自分で一人では取りにくいものも無闇に取ろうとしてしまって、耳が荒れるきらいがある。最初にやってもらった時も美咲に心配された。


「ほどほどにね」

「はい。でも、手加減はなしでお願いしたく……」

「もう……」


 うわ、今度は十割の呆れ声だ。バツが悪く私は「へへ……」と小物っぽく笑っておいた。

 そして、拒否の言葉は続かなかった。『あなたも楽器をやってたなら、止めるけどね』とは前美咲が言っていた言葉。

 私たち二人とも、耳かきをリラクゼーションとしてやっていることに相違はない。耳の中がむずつくからやる。膝枕も好きだ。そして、治りかけの耳垢を取る気持ちよさが格別だという私の力説も、前美咲に引かれながら伝えたこと。

「とにかく、やるからね」

「はい」


 私は肩をゆすって、耳がきっちり真上に向くよう膝枕ポジションを整えた。

 くいと耳が引っ張られる。耳の中に風の冷たさが入り込んでくるよう。私は小さく唾を呑んだ。

「入れるよ」


 細くしなやかな煤竹耳かきの先端が、耳の入り口をひと掻き撫でた。


 かりっ。


「……!」

 ふるっ……と体が小さく揺れてしまう。美咲のスカートをきゅっと掴んだ。そしたら僅かに不満げな鼻息が聞こえた。


「ちょっと、あぶない。動かないで」

「ごめん……」


 スカートを乱されたことにご不満なのではない。耳かき中に動くというタブーを侵したからである。幸い、頭に添えられていた手で、軽く抑えられるだけで済んだ。私は安心し、さっきの快感の余韻に浸った。人にやってもらう耳かきの、最初のひと掻きというものは一生慣れることがない新鮮さがある。期待と緊張。それらが溶けて安堵となる心地よさ。


「手前、細かいのいっぱい。まずはそれを集めてくからね」

「うん……」


 言われるがまま、されるがまま。それが耳かきされる方の鉄則だ。

 甘受する。ただそれだけ。美咲の腕の前に、全てを任せる。


 かりかり。かりかり……。かりっ、かりっ。かりり……。かきかき、かきかき……。


「あふ……」


 声が漏れる。気持ちよいリズムが、耳の中で乾いた垢が動くこそっこそっという音と重なる。美咲の手つきに迷いはなければ、強引さもない。耳かきは入口周りを擦り取っていく。見ずとも、たくさん取れているのが分かった。何度も、耳かきが出たり入ったり、ティッシュで拭われたりを繰り返している。


 異物の取れた後の肌というのは、敏感に刺激を求める。

 私の眉が尺取り虫のように動いたのを、見抜かれていなかったのか、いなかったのか。


 かきかき、かき……。かりかり。かり、かり。かきかき、かしかしかし。


 耳を傷つけない程度に、耳垢が取れたばかりの地肌が、宥めるような手つきでかりかりとされた。気を付けていても、「あ」という声とともに口がぱかっと開いてしまう程の気持ちよさ。

 耳垢をとった後の地肌も、痒みを訴える。それももはや言わずとも、美咲は分かってくれている。

 至れり尽くせりの至極。

 その上で、私には喉の奥に潜ませたお願いがあった。もっと心地よさに浸れる方法を既に知ってしまっていたから。

 美咲の耳かきには、注文性の隠しオプションがある。つくかどうかは、その日の美咲の気分によって決まる。


「あの……」


 振り絞って声を出すと、ぴたりと美咲が手を止める。しゃべることでも耳道は揺れるから私は緊張する。実際どう思っているかはわからないが、沈黙は手を止めさせられた不満にも聞こえてくる。

 なので手短に、大胆に、要件を伝える。


「今日も、囁きながら、やってほしい……」

「……」


 沈黙。

 逡巡。

 静寂。


 彼女の思考時間がつぶさに窺える2秒間。

 耳を動かせないから、表情も動かせない。おそらくは涼しい顔で変わりないだろう。けれど、美咲にもパンツが大丈夫だとしても全く別のラインの尊厳というものがあって、私の要求は今その線上でが踊っている、らしい。

 結果は……。


「……いいよ」

「やっ……たー………(!)」

 私は語尾に小さく感嘆符をつけた。手をつき上げたいくらいだが、今度こそ愛想をつかされるので遠慮する。


 今日はよほど美咲の機嫌がよいらしい。オランダのアザラシの子供たちへ、半溶けの意識の中で私は感謝を送った。


「好きだよね……囁かれるの」

「気持ちいいんだよ……。えーえすえむあーるでも、普通なんだよ?」

「それは知らないけど。結構、めんどくさいんだからね? 手だけじゃなく、口も動かし続けるの」

「それはほんとに……ありがとざいます……」

「ん。じゃあ、やるよ?」


 美咲の手が再び、耳にかかる髪を払う。すぅー……と息を吸う音が聞こえた。


「えーーっと……。──これくらい……?」


 耳元で、ぽそぽそと囁かれる。お腹の下に変な力が入る。体が揺れないよう、代わりに手をぎゅっと握った。

「それくらいで……」

 面と向かって言えないが、こやつの声には魔性がある。

 顰めくように声を出すほど艶めいて聞こえる、魔性。

「ん……入れてくね。えー……っと。──かり……かり……。かりっ……」

「んっ……」


 囁きに合わせ、耳かきは耳道の中腹を大きめのストロークで掻いた。変な声を我慢するのに苦労した。


 ぺき……。ぺり……。ぺりっ……。


 耳の中で音が鳴る。おそらく、大きい耳垢の端っこに当たっている。肌にひっついた耳垢が揺れれば、神経も敏感に反応するものだ。私は気を付けながら、足の裏同士をすり合わせた。

「──かり、かり、かり……。うーん……どう取ろうかな……」


 その快感が、美咲の声の心地よさと重なる。共振効果……?脳細胞がぞわぞわする。これが私が囁きを頼み込む由縁だ。

 美咲の方も、『やる』となればめんどくさがるそぶりはなく、淡々と耳かきに没頭する。むしろ、その自然体な囁きもいいのだ……というこの感想も、また中々言えない言葉である。


「おっきめのあるから、削る感じで取ってくよ。痛かったら手、動かして」


「あい……」


「──かり……かりっ。かりかり……かき、かき。かり、かり、かりかり……。かき、かり……ん? あー……。ここで、ひっついてる。ここ……分かる? ここ」


 こつ。こつ。


 耳の少し深まったところを耳かきがこつこつと突っついた。確かに、壁のように張り付いている。


「うん……」

「根元の方で肌と固まっちゃってるね。ちょっとずつ剥がしていくよ。──こり……。こりっ。こり……」

「わ、それ、いい……」


 かりっ。かりっ。

 耳に響く、さっきよりも大きな刺激。痛みとかゆみは地続きだというが、まさしくそれなのだろう。張り付いた耳垢をこそげとろうとすると耳の肌も引っ張られて、痛みにならない程度にもどかしさが痺れる。


「そうなの?痛いかなって思ったけど……じゃあ、もう少し強くやっていいかな。──こりこり……こりっ、こりっ、こりこり……」

「う、んぅ……」


 オノマトペが鈴の音のように脳に響く。こりこり、かりかりされる度に脳細胞にぴりぴり電流が走るよう。その度、剥がれかけてゆく耳垢も下の地肌も、もどかしく疼いていく。耳垢が全部取り去られるまでその繰り返しなのだ。焼け石に水どころか、段々、石の熱は高まっていく。耳垢の取り切れなさに悶えるのにも、マゾっぽい気持ちよさがある。

 もはや手遅れではあるがこれ以上変な声をあげないよう、そして万が一にも涎が出ないよう、私は口をきゅっと閉じていた。いずれ、美咲が取り去ってくれる。それまでの辛抱。

 私はただこの時間に浸るだけしかできることがない。


「──こり、こり……こり。あっ、ちょっと剥がれた。なら匙を……こうやって……滑り込ませて……」

「……!」

「かりっ……かりっ。こりっ……こり」

「ん、ぅ……」

「かり……か、りっ……!」


 ぺきっ。


「んっ……!」


 大きな音と一緒に、びりっと、脳の奥にも高電圧が流れた。その次の瞬間には、開放感が耳を満たしていく。じんわりと、耳の奥が温かくなる。


「あ。今動いた。剥がれたかな……? 掻きだしていくよ。 ──かり……かり……。うん、取れそう……」


 ごそっ。ごそ。ごそそ……。


「う、音、すご……」

「わ、すごく乾いてる。崩れそうだから、慎重に……」

「なるべく、早めに……」

「わかってるから、焦らせないで。 ──かり、かり、かり……。かり……かり、かり……。……落とさないように気を付けて……。──かり、かり……かりりー……。ざざざー……っと」


 ずぞぞ……。


 ごくりと唾を呑んだ。出される途中さえ耳垢の輪郭が耳道を擦り、ひりひりと存在感を強めている。しかし、もう出口は近いことが分かっていた。


「すーーっ……とー……よし」


 ころっ。


 耳の入口から滑転がり出てきた異物感。匙がそれを持ち上げて言った後、入れ替わりに流れ込むのは爽やかな空気。やけに冷たい気がして、ふるりと体が揺れる。


「ふぅ……。取れた」

「あふー……」


 もう堪える必要はなかった。蕩けた息を吐いた。膝枕の上で寝ぼけ眼の猫みたいにぐーっと伸びをして、意味もなく身じろぐ。スカートに頬擦りしていたことに、はっとしてから気付いて、すぐやめた。

 美咲も気にしていなかったようで、安心した。関心は他のところにあるようだった。


「どう、これ」


 美咲が変な色の石を見つけた時のような具合で、手の甲に乗せた大物を一目見せてくれた。私は半目だけ開いて、「おわー……」と間抜けな歓声をあげた。

 摘めそうなくらいの大きさ。皮が捲れたような形をしたクリーム色。こんなものが耳の中で眠っていたことが信じられない。ほとんど毎日のように耳をいじっていたし、自分では全然取れなかったから。確かに、押し込んでいるのだろう自覚はあったけれど……。

 そして、冷静になって来れば親友にそんなものを羞恥も湧き上がってくる。が……今更ということで、今日も私はそのことについて考えないことにした。

 恥ずかしがっては心行くまで堪能できないというのが、始めてやってもらったときの反省点。もう一度膝枕の上で伸びをした。


「いやぁ、耳から出す時、すごい音したぁ……」

「ほんとに……あなたは気持ちよさそうに耳かきされるね。私、そんなに上手いのかな」

「悔しながら……認めざるを得ず……。丁寧だし、力加減上手いし、安心できるし……」

「ありがと。でも、私以外に耳かきされるなんて、お母さんくらいでしょう?」

「そのお母様がごりごりぐりぐりの人で、トラウマになったんだよね。だから自分でばっかりやっちゃう……」

「なるほど」


 急な家庭事情の吐露。母の耳かきは地面をえぐるかのように豪快だったのだ。そのせいで、私は幼少期から耳のかゆみを自分で解消しようとしてきた。そして、一人では取り切れない大物や、奥の方にもどかしさを憶え続けてきたのだ。

 だからこそ、この年になって知った美咲の耳かきは劇薬だった。

 膝枕、囁き。誰かに身を任せる甘味。


「ねぇ、それでさ……取り切れた後のところ、また痒くなってきた……ので……お願い……」


 ちらりと伺えば、こっちは恥かしさを偲んで頼んでいるというのに、美咲は全く、いつもの汗をかいたこともなさそうな平熱顔だ。耳かきってされる方も恥ずかしいけど、する方も恥ずかしいと思うのだけれどな。どうなのだろう。こ奴が何をもって恥ずかしがるか、いまだに掴みきれてはいない。


「ん、了解。ほら、あっちむいて」

「ん……」


 温度差に思うところはあっても、受け入れられている甘やかさに身を浸し、私はごろりと頭を転がす。

 すりと耳を二つの指で撫でられ、軽く引っ張られ、竹の耳かきが下調べのように入口をさわって、美咲の囁きが近づいてきた。覗き込まれている。


「──どこらへん? ここらへん? えーっと……かり、かり……」

「あ、そこ……らへん、なんだけど……もうちょっと、下かも……?」

「──ん。あ、この、ちょっと骨ばったところとか……? かり、かり、かり……」

「あっ、そこ……」

「──了解。奥まってるから、耳かきが引っ掛かる感じがする。こんな感じ? かり、かりっ、かり……。かりかりかりー……」

「うぅ……そこを……もっと、強めに……」

「──んー……。若干、赤くなってるけど。まぁいいか……。どうせ自分でやるんだろうし……荒れない程度にね。かき、かき……。かりっ、かり……かりっ」

「あ、ふ……」

「──かり……。かり、かり……。かり……。かりかりかりかりー……」

「は、わ……!」


 急にスピードを上げられれば、声も出るというもの。一番のかゆみのピンポイントを責められて、迷走神経が驚いている、というのに。


「ふふっ……」


 こやつ、楽しそうに笑っている。


「『ちいかわ』みたい……」

「なっ……」


 頬にかあっと血が昇った。

 普段なら食って掛かりそうなものを、今鼓膜を鋭利なものに晒している立場としては、物理的に動く勇気が持てない。悔しながら甘んじるしかない。


「──かりかりかりかりー……。かりかり、かり。かりー……」

「ふー……」

「──ね、これくらいで満足?」

「ん、大分、収まった……」


 終わったころには、お風呂から上がった後みたいに頬も火照っていた。疼きは充分にほぐされ、私は大満足だった。


「じゃ、最後に奥やってくね……」

「えっ」


 それは意外にも嬉しい言葉だった。


「まだ結構残ってるの?」


 私としては、充分に奥の方までやってもらっていた感触があった。すっきりとした感覚もあったのだ。すっかり耳は綺麗になっていたものだと。けれど美咲はなおも覗き込みながら言う。


「いやー……? 一番大きいのはさっき取れたやつだね。けれど細かいのが奥の方にも見えるの。鼓膜が近いから、怖いっていうならやめておくけど。自浄作用で充分な範囲だろうし。ただ、やってみた感じ取りきれそうだし、嫌じゃなければ綺麗にするよ」


 私はふるふる首をゆすった。私の髪がくすぐったかったのか、美咲の脚ももぞっと揺れた。


「めっそうもない、嫌なんてことござらんて……」

「あなた、照れ隠しで口調を変えるの好きだよね」

「う゛っ……!」


 いや、気付いても、指摘しなくていいじゃん。確かに、振り返ってみれば、自分でも露骨なのは分かるけど……。


「クラスで、漫研の子たちとはしゃいでるときもそう」

「う゛っ……!」


 指摘しなくてもいいじゃん……!?


「急に攻めるじゃん……」

「? 攻めてないよ。気付いているだけ」

「……」


 美咲相手に抗弁する気も起きず(というかこの体勢で何を言えたわけでもなく)、私は顔をうずめるようにまた耳を上へ向けなおした。


「じゃあ、やるよ。こっからはもう本当に動かないでね……強く当たるだけでも痛いだろうから」


 美咲の口調のトーンが下がったので、私も流石に居住まいを正し直す。ただ静止をもって肯定とする。


 かり……。


 耳かきは今度、自分でやったら喉がうっとなるくらいの、それくらい奥の方へと触れてきた。

 力加減は絶妙で、まったく痛くないのが驚きだった。一人でやるときは、怖くてすぐ引き抜くところなのに。

 先ほどと一転、お互いに集中モードになったから、シンとした空気が部屋に流れて、鼓膜の近くで響く、耳かきの音だけがよく聞こえた。


「──かりー……。かり、かりー……」


 具合を確かめるように数度、耳かきが動く。。耳の奥は自分で上手く触れない分敏感である。耳かきの先端の形がつぶさにわかる。さりさり……とか、ぺりぺり……と言った、摩擦音が耳かきの音に混じっている。きっと細かい垢が掻き取られている。


「──かき、かき、かき……。かり、かり……。こり、こり……。こり……」


 自分で取りようもない、これほど奥にある砂粒未満の垢。それらをこそげ取ろうと細かく匙が動けば、耳も過敏にその感触を捉え続ける。さっきまでの耳かきで汗の粒子が滲むのだろう。奥に行けば行くほど湿っている感じもあって、より疼き始める。

 とうとう私の堪えも限界に達した。


「あっ……あ……」


 声が我慢できなくなったのだ。

 私は淑女の恥もかきすて、結んでいた口をぱかっとほどいた。声も、もう無理に我慢しないことにした。その方が変な力も入らないのだ。そうすると自然と瞼もとろんと開いた。

 最低限頭を動かさないこと以外から、気力を手放す。きっと、美咲の膝の上で私の頭は重くなった。

 そしたら、美咲は満足げに囁いた。


「──ん。口、開くの我慢しなくなったね。別に、声くらいならそう頭も動かないし大丈夫よ。だから最初っから、そうしてたほうが楽だったのに……」


 なんだよ……また気付いてたのかよ……! 言ってよ……!

 私はまた少し赤面して、頭の中で反論した。そして、言ってくれなかった理由がまたエスっけにあるのだろうことも分かった。


「──かき、かき……。こり、こり、こり。こり……こり……こりこり……」

「あぅ……」

「──あれ、ここ、気持ちいいの?」

「ん……そこと、そのはんたいっかわ、らへん……」

「──うん。じゃあ、もうちょっと強くやってあげるね。ここらへんを……こりこり。こりこり……こりこりこりー……」

「ふぁ……」


 耳かきが、奥の奥で窪みっぽくなっているところをつつくように掻く。

 次はその反対側を宥めるように撫でる。

 その後、細かい垢をやさしくかき集めて、こそげとっていく。

 耳の中に散在するかゆみの点。

 複雑にもつれあった疼きを、するするとほどかれていくような気持ちよさ。

 上から見下ろした私の横顔はどれほど力が抜けているのだろう。

 自分でやるとき、諦めてしまったり、上手く取れず、押し込んでしまったりする耳の奥。

 だから耳が『もどかしい場所』と覚え込んでいる、のに。

 そんな所が、ずー……っともどかしさ一つなく気持ちよくされている。

「う」「あ」なんて赤子みたいな声ばかりでてしまう。


「──奥の方、本当に気持ちよさそうな顔するね」


 だって、本当に気持ちいいのだもの。


「──ねえ、ここも、好きでしょう? こり、こりこり…。こり……。こりこり……」

「ふあ……」


「──さっきのところも、もう一回。かりかりかりー……」

「う……」



 深いリズムが、澄んだ声と融和して、蕩けていく。頭に染み込むそれはきっとお酒よりずっと悪いものだと思うほどに。



 すす……。


 細かい垢が集められ、耳から掻きだされ、出ていった。

 そのあと私はたまらず、ぐずつく子供みたいにスカートの裾を掴み、膝枕に顔をうずめた。

 美咲の匂いが鼻いっぱいに広がる。

 ワンピースが纏ったラベンダー。そして柔軟剤? 石鹸? 奥に漂うシトラス。

 後で思い出して後悔するくらいの姿を、私は今晒しているだろう。

 されど仕方がなかった。

 溶かされた私の中の一番柔らかい部分が、柔らかな器を求めていた。


「──……まだ、後ほんの少し残っているのだけれど、それも取っていい?」

「……ん」


 美咲の手がまた髪を撫でてくれる。違いがあるとするなら、今度は子供をあやすように撫でている。

 普段ならからかいの種にする姿だろうに、柔らかな口調が今は全部を受け入れてくれていた。その態度に有難く時間を貰いながら、私は少しずつ体裁を整えていった。

 ずっと赤子ではいられないし、いたくもない。もう恥ずかしさは戻ってくるものだ。頬を押し付けるのを止める。擦り合わせていた足の裏も静かに組み直す。体に最低限の芯として、一縷の理性を通しなおす。

 身を任せ続けることはできない。

 最後、残った耳垢をこそげとるために、細かく耳かきのさじが奥を撫でた。


「──かり、かり、かり……。かりかりかり……」


 ず……すす……。


「──よし、終わり」

「ふーーー……。ふあーーー……」


 ふっと、お互いの肩が力が抜けるタイミングが、おんなじだったことが何となく分かった。私はそれが、なんとなく嬉しかった。

 ありがとう、と言おうとした、そのときだった。



「すぅー……。ふぅーーーーっ……」

「ひ、あ」


 突然耳へ吹き込まれた吐息に、体が震えた。

 ぼわぼわと温かく鼓膜が揺れる。綺麗になりたての無防備な耳に、甘い吐息など劇薬である。

 もう耳かきが終わったと油断していた分、盛大に私は体を縮めた。うずくまった赤子みたいに。

「くすっ、ふふっ……」


 吐息が止み、また楽し気な笑い声が聞こえてきたから、私は遠慮せず、じとーっと美咲を睨み上げてやった。

 そしたら、意外。

 再びサディスティックでアルカイック……な微笑を浮かべていると思ったのに、『してやったり』と、悪戯に成功した子供みたいな笑みがそこにあった。

 ……ほんの僅か美咲の頬に赤みを見たのは、見間違いだっただろうか。下から見上げるから蔭され、見分けはつかなかった。


[newpage]


 反対だって、勿論やってもらうつもりだ。美咲が飽きたとしても、頼み込んでお願いする。

 それでも、余韻を味わうため私は小休憩を求めた。美咲も流石にくたびれたか、『そうだね』とだけ言って一度耳かきを置いて畳に手をつくわけだが、私は決して膝枕を明け渡すつもりがなかったから、ジトっとした目がまた向けられる。

 それでも、強硬体制である。しばらくして、ならば対価をとでも言う風に、美咲の手は再び私の髪をなで始めた。交渉成立である。


 しばらくしたら、指はやがてヘアアイロンのように髪の中へ潜り初め、くりくりと毛先をいじり始めた。

 まさか、いたずら心で手製のパーマでも当てられるのだろうかと私は内心危惧したのだが、ふとした美咲の呟きは全然毛色が違った。


「ほんと、柔らかいよね。あなたの髪って。猫毛なのかな。それにしては艶もあるから、不思議……」

「……ありがと。その……お気に召したなら、存分に撫でて貰って構いませぬよ。ここまで、耳かきをしてもらっているわけですから……せめてものお礼として……」

「……」


 撫でる手は止まらないままに、沈黙。再び口調の件でモノ申されるのだろうかと身構えた私に帰ってきたのは、なんとも、きょとんとさせる台詞だった。


「別に、私も好きでやってるんだけどね。耳かき」


 きょとんとして、ごろんと美咲を見上げる。またなんとも間の抜けた顔をしていたことだろう。

 そんな表情を向けられて、珍しくも心外だと言わんばかりに、眉間に薄い皺が刻まれる。

 けれどすぐに表情はほどけて、いつもの真意の分からない微笑みに戻る。


「あなたの力の抜けきった表情、見られるのは面白いから」


 また、煽りよった……!

 そう野性的な反射で一瞬は思ったのであるが、辛うじて私の中にもある理性的な部分が、『え?』と考え直す。


「……抜けてるとこなんて、いつも見せてるでしょ」


 美咲はふむと唇をわざとらしく閉じて、小首を捻った。

 少し脱線するが、まったくその姿さえ画になって、目に焼き付いた。

 ……今度、漫画で使って見ようか。


「そりゃあ、あなたは抜けてるとこが多いけど」


 ぐさり。


「でも、本当に抜けきっているところなんて、誰でも、そうそう見せないでしょう?」

「……」


 今度は私が首を捻った。浮かんだハテナが美咲にも見えてるかのように、ふふふと笑われた。

 本当に自覚がない。私はよくポカをやる。少なくともクラスでは『抜けてる漫画オタク』で通っている。でも今の美咲の口調は、冗談めかしていないときのやつだ。流石にこれだけ長く一緒にいると分かる。


「クラスでのあなたは、おしゃべりだけど。本当は静かな方が好きでしょう?」


 見透かされたように見下ろしてくる美咲の目の中に、私はふと、夏の青空みたいに遠いものを見た。

 私には、図星を受けたような恥かしさも、天啓を受けたような驚きもなかった。

 確かにその言葉は合っていると思い、一方で、明確にあっていない部分があるとも思ったのだ。私の口は、出遅れたランナーみたいに動き出した。


「静かなのは、確かに好きだよ。でも、どっちの方が好きとかじゃない……と思う。漫研部の友達としゃべるのも、好きだし。一人で漫画描いてる時間も、どっちも好き。……ただ、」


 喉の中で言葉がもつれていた。それは決してつかえているというわけではなかった。時間さえもらえればほどける気がした。そのことが、美咲は見えているかのように傾聴してくれた。


「疲れは、するのかも。学校じゃ、何言ったら面白いかとか、何を言っちゃダメかなとか、考えてるかも……」


 不思議だった。口からするすると出る言葉は、吐露と言うより、消化して栄養になる真っ最中のような、過程と言うのが近い、気がする。


「それで、嫌いでもない……。ウケたら嬉しいし、滑ったら嫌じゃん。でも、それはずっと……考えてるってこと……なのかも?」

「そうかもね」


 ……ああ、つまり。

 美咲の言う『抜けきっていない』というのは、そういうことなのだろうか。

 少なくとも、私は学校でイジられたくらいでなら、飛びつきたくはならない。

 それに、SNSネタに調子を合わせたりとか、誤解混じりの感想をスルーしたりとか、空気を読む瞬間も……勿論ある。

 いや、そんなの、空気を乱してまで正直であろうとする必要は本当に無いと思うから、悪いことだと思わないしね。私がいつか何気なく口にした言葉も、誰かにとってのそれだと思うし。

 ……っていうか、美咲だって学校だとキャラ違うんだから、私ばっかり言うなよ。……何というか、学校の美咲って『上手く付き合える隙のあるお嬢様』だし、エスっけを見せる相手は選んでるだろうにさ。

 素を出せないなんて、当たり前。


 しかし……それを全部晒せてしまって、受け止めて貰える場所なんてものの甘さは、変に想像がついた。

 おそらくは、さっきの続き。


 ふうむ、と疑問めいて呟く癖に、美咲のトーンはむしろ嬉しそうだった。


「私は楽なのが好きだからね。意見の相違だね」

「何を……学年二位があっさりと……」


 思わず言う。この女は何事も大体こなせる口で、テストだって三位以内が定位置だ。もう少し机に齧りつけば、一位だって取れるだろうに。

 美咲は軽やかに毎日勉強して、暇があれば本か漫画を読み、俗な話題もある程度たしなみ、優雅にピアノだって弾ける。だからお前はモテるし、一部から変に嫌われている。


『美咲ちゃんとあんまり仲良くしない方がいいよ? あの子、あなたのこと裏で隠れて揶揄ってるらしい』


 いつか、突然廊下で話しかけられた瞼がやたらキラキラした先輩女子にそう言われ、思わず乾いた笑いが出てしまったことを思い出した。『隠れてないです』と苦笑を返して以来、その先輩と話す機会は無くなった。

 私の黒歴史?も露知らず、美咲はいきなり手で私の頬を掬いあげて、強制的に顔を向けさせた。


「ね」

「む?」

「後で漫画見せてよ」

「えぇ……」


 急な話に私は渋る。

 目と鼻の先の勉強机に、一冊のリングノートが置きっぱなしである。前見せた時から、ページもそう進んでいない。手製の漫画を描き始めたことを、私は自分から口にしない。それは孵化にはほど遠い卵の中身を見せるような、グロテスクなものだと思うからだ。自分自身、本当にひよこが生れるのか自信が無いから余計気が引ける。ウチの漫研部も、漫画は基本読む専門でイラストを描ける友だちが何人かいるくらいなので、変に持ち上げられるのも怖い。だから、漫研部の友達にもまだ言っていないのに。

 不思議と、美咲には定期的に見せていた。描きながら考えているようなシャーペンプロットを、夏休みに入る前くらいから。


「いいよ」


 漫画の内容は愛読する習慣少年誌への意識がバリバリにのった、ありがちなバトルモノ。目の肥えた美咲を満足させるには到底厳しいいうことは分かっている。事実、我慢できず遠回しに感想を聞いたら淡々と『このページの意味が分からない』、『すっごく〇〇君と似てるね』『冗長だよ』と感想を述べてきたものだ。

 しかし、しげしげとリングノートに目を落としながら呟かれた一言を聞いて以来、なんだかんだ、美咲の感想を聞こうと思うようになった。


『あなたって、ちゃんと冷たいよね』


 ちなみに、冷たいという感想が的を射ているとは私自身思っていない。確かに昨今の影響を受けた、悪霊だったり退魔的な要素はあるものの、暗いじゃなくて冷たいとは人聞き悪い。というか、『ちゃんと冷たい』ってなに。冷たさに正しさがあるだろうか。

 まぁ、『このキャラは、ここで死ななきゃお話としてダメだ』なんて、筆を動かしながら決めたことは、自分でも驚いたことはあるけどさ。


「何ページぐらい進んだの?」

「3……4ページぐらい」

「おお。バトル、決着ついたの?」

「さぁ、どうでしょう……。でも反対側やってからね!」

「ええ、もちろん」


 私は勢いをつけてお腹側に寝返りを打った。ワンピースのお腹のところが顔に触れる。

 お腹を向いている方が、包まれている感じがあって、好きだ。これも言葉にはできないことなのである。

 さっきの話で変に調子づいたのだろう。今日の私は頭の中で嫌に正直だ。

 爪がカチリと鳴る。耳かきが握られなおす。

 ふー……と花の香りに顔をうずめ息を吐いたのに合わせ、また髪を撫でられる。

 表情は見えない。真意は分からない。全て分かり合うこともできない。

 それでもきっとお互いに探している。

 晒すことのできるもう少し深いところ。

 チュウコはすっかり部屋を冷しきって、ひと仕事終えたあとのように満足げに、すーすーと息を吐き続けていた。

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