お嬢様とメイドの耳かき

 「お嬢様~?」


 広い廊下に響く声が一つ。けれど、声は反響するばかりで返事が返ってくることはない。


「まったく、どこいいかれたのかしら。ピアノの時間もほっぽいて……。御自室にもいらっしゃらないし……」


 メイド、セシリアは独り言をつぶやいた。今口にした通り、ピアノルームでは今日もレッスンに来てくださっている先生がご立腹である。普段はおだやかな先生も流石に痺れを切らしてきてらっしゃる、はやいとこ見つけて連れて行かなければ……。

 といっても、一つセシリアはお嬢様がいるかもしれない場所には見当はつけていた。

 けれど、そこはいてほしくもない場所である。なぜって、もしそこに居て、それがバレるとセシリアまでお怒りの飛び火が来るかもしれないので。


「はぁ~~……。いてほしいようないてほしくないような。いっそお庭にまで行ってらっしゃれば、私も言い訳が立つのだけれど……」


 セシリアは小さく、それでいて長いため息をついて──自分の部屋、セシリア自身の部屋の前に立っていた。

 お屋敷の中でも奥の方、住み込みで働いているメイド用の寝室。ドアは少し古ぼけている。主人一家のお方々ならば、本来特に来ることもない場所なのだが。

 しんとセシリアが耳を澄ませてみれば、静かにマットレスの揺れる音が聞こえる。

 セシリアは唇をかんだ。


 ギィィ。


「お嬢様」


 気が重そうに開けた、木製ドアの向こう側。

 屋敷の外装に比べれば質素な木床の部屋の、飾り下の無いベッドの上には、少女が一人。

 豪奢な白いフリルを纏った、金髪の少女のその寝姿や、安物のベッドには不釣り合いだった。


 少女は開いていた本を脇に置いてから、厳かに指をたてて、唇にあてた。

「しぃーーっ」と。


 呆れるように目を細めながら、静かにセシリアは扉を閉めた。

「誰も近くにはおりませんよ」


 昼下がり、窓越しに指すくぐもった陽光が、部屋を暖かく照らしていた。




「疲れたの。少し匿いなさい」


 セシリアが狭いベッドの端に腰かけるなり、お嬢様──エメリアは憮然と呟いた。仰向けに、ドラゴンが表紙に描かれた冒険小説を読みながら。


 セシリアは、世話焼きにも乱れたフリルスカートを整える。


「そうはいわれましても……。先生、待ってらっしゃいますよ。今ならまだお許しいただけるかもしれませんよ?」


 エメリアは顔をしかめた。


「いやよ。もう行ったって怒られるわ。それにね、真面目に行ったって怒られるの。私、きっとピアノの才能がないのよ。練習の曲も、もう長い事やっているけれど最後まで引ける気がしないの。先生も苛々しているようだったし……。そもそも、私ほんとは、ピアノなんてやりたくは……」

 セシリアもまた、眉を困らせる。

「そうは言いましても、すっぽかされては先生もお困りです。お屋敷までわざわざ来てくださっているんですし……」

「……だからいいの。今日で私に見切りをつけてもらうわ。やる気のない子だって。私からお父様たちに言ってもピアノはやめられないでしょうけれど、先生が愛想をつかしてくれればもしかしたらお父様たちも諦めるかも。きっとそうよ……」


 セシリアは、やれやれと、これは重症そうだと小さく首をふった。

 エメリアはそんなセシリアの顔色を、おずおずといった風に本の下から伺っている。

 つと立ち上がった。エメリアはびくっとして、本を落しかける。


「先生にご連絡してきます。今日のレッスンはお休みにしましょう」


 セシリアはエメリアを安心させるようにおだやかな口調でそう言って、部屋から出ようとした──とき。


 ぱさり。

 本が置かれる音がして、セシリアはスカートが引っ張られたのを感じる。

 見れば、スカートの裾を、エメリアの細い手が掴んでいた。


「? 御具合すぐれないとお話させていただきますよ、お嬢様。本当にお疲れなのは分かりましたが、けどやっぱり、ご連絡はしなければ……」


 きょとんと振り返ったセシリアが見てみれば、そこには先程までの憮然としたエメリアはいない。泣きそうなような、困っているような顔のエメリアがおずおずと言葉を口結ぶ。


「……怒った?」

 セシリアは気が抜けたように、ふわりと苦笑した。

「怒ってません」

「ほんと?」

「ほんとです」

「……それじゃあ」

 エメリアはまた言葉を一瞬詰まらせた。

「帰ってきて」

 それには思わず、セシリアも小さく噴き出す。

「帰ってくるも何も。ここは私の部屋です」

 エメリアはスカートから手を放して、顔を赤くして、寝返りを打った。

 でも、すぐ──どこかおずおずと肩越しに振り返った。


「帰ってきたら、また、あれ、して」

「あれ……とは……?」

 足を止めたセシリアに、エメリアは呟く。

「……お耳掃除」

「なるほど」雄弁に語る表情のままに、セシリアが笑う。

「かしこまりました」

 そういって、セシリアは部屋を後にする。


 ##


「ふぅ」

 お休みの旨を説明したあと、エメリアの代わりに先生のお小言を聞き遂げる、という一仕事を終えたセシリアはまた長い廊下を一人歩いていた。

 やや色の濃くなってきた陽光は、生真面目な使用人と言えど眠気を誘う。

 ──いない間に眠ってらっしゃらないだろうか。

 ──このころは本当に、お稽古や社交界など……お忙しかったでしょうし。

 そんなことを考えながら。


 ギィィ。


 戻ってみれば、軋む扉に顔を上げるエメリアと目が合った。

 さっきと違って、今は身を起こしてベッドに腰かけている。

 その両手はそわそわとお腹の前で組まれていた。

 一応、アリバイの為にも、そそくさと後ろ手に扉を閉める。


「ご連絡してきました。急に具合が悪くなったと。ちょっと勘繰られましたけど、怒られませんでしたよ」

「ふーーん、そう……」


 セシリアが見やれば、ベッドのサイドテーブルには既に金属製の耳かき棒と、綿棒が並んでいる。くす、と笑った。


「場所、憶えてらっしゃったんですか。でも、あまり人の机を勝手に開けるのは良い事じゃありませんよ?」

「……憶えてたんだもの。しまう場所。どうせ出すのだから、出しておいた方がいいじゃない……」

 口ごもるように視線を、部屋の角に合わせられた引き出しつきの机に向ける。よほど気に入られたらし。


 エメリアなりにも罪悪感があるのか、フリルでふわふわと膨らんでいるシルエットが、今は縮こまって見える。広くはないベッド、寄り添うよう隣に座った。

 サイドテーブルの耳かき棒を掴む。

 深く座り直し、居住まいを整えてから──セシリアはロングスカートを叩く。


「ではどうぞ。お約束通り、お耳掃除させていただきます」


 エメリアは何かを隠すようにむっつりとした顔のまま、小さく頷いた。

 まず手をついてからゆっくりとセシリアの膝に頭を寝かせ、そのまま体重もベッドに預ける。


「頼むわ」


 少女ながら、仕えられる側としてのプライドもあるのか、それはちょっと気取った感じの台詞。

 あくまで、これは甘えられているのではなく、奉仕させていただいているのだと、セシリアは自分に言い聞かせる。


「はい。始めさせていただきます」

「う、うん……」


 ちょっとだけ、震える声で頷いた。そして、ふぅ、と気を切り替えるように息を吐いて、言葉を継ぐ。


「近頃は本当にお疲れでしょうから……今はゆっくりお休みください」

「……ん」

 エメリアの小さな手がロングスカートをきゅっとつかんだ。

 膝の上の小さな主。白く小鳥の羽のような耳が金髪の下に隠れている。

 なでるように、かかる髪をはらった。


 セシリアは一度背筋を正した。はぁー、はぁーとセシリアは両手を吐息で温める。冬の日に手袋を忘れたときのように。そして両手を揉み合わせる。

 セシリアは陶器を触るように柔らかな手つきで、両手で耳を包む。


「まずお耳を揉ませていただきますね。血の巡りをよくして、お掃除しやすくします」

「うん」


 エメリアは既に目を瞑っていた。さっき見せようとしたプライドはどこへやら。すでに膝枕の上でうずくまる、年相応のあどけない横顔。


 セシリアは耳かき棒を指の間にしまい込みながら、親指を耳殻の溝にぴったりとあてて、少しずつ力を入れながら揉みこんでいく。


 ぎゅむ、ぎゅむ、ぎゅむ……


 ぐむ、ぐむ、ぐむ……


「んぅ……」

 寝言のような声が漏れた。

「痛かったりはしませんか。おっしゃってくださいね」

「大丈夫……」


 エメリアが静かに答える。人肌の暖かな指圧にほぐされていくうち、耳のあたりがポカポカしていくのを感じた。

 リラックスしている様子を見て、セシリアは指を耳裏や耳の周りにも押し当てていく。


 ぎゅむ、ぎゅむ、ぎゅむ


「お耳の周りを押されると、耳だけじゃなく体中の疲れがとれるそうです。祖母からの受け売りですが……東洋で言う「ツボ」だそうです」

「ふうん……。あ、そこ、もっと強くしていいわ」

「ここですか?」

「うん」


 セシリアは耳の付け根の辺りを重点的に揉みほぐす。

 じんわりと、血の流れが耳を中心とした、頭や首に回っていくのを感じる。エメリアは悩まし気に眉をひそめる。一瞬だけ肩をちぢこめて、すぐ脱力させた。


 ぐっ、ぐっ、ぐっー……


「少し、硬い気がしますねー……」


 囁くほどの声量で、セシリアはひとり呟いた。指に当たる感触が「結構凝っている」と思わせていた。

 エメリアのもっと幼いころを知るセシリアにとって、絹ほどに柔らかかった白肌が(今も十分柔らかいが)固くなっているらしいことに、成長だけではないだろう境遇に思いを馳せさせる。


 エメリアはと言えば、その吐息が段々と深く長くなっていた。

 耳周りは見るからに健康的な血色を帯びて、淡いピンク色に染まっている。その色を、セシリアの血筋の国では桜というらしい。


 仕上げ代わりに、首筋の硬いところを親指で重点的に指圧していく。


 ぐい、ぐい、ぐいー……


 セシリアは手を放した。


「こんなものですかね。もうマッサージはよろしいですか?」

「ええ。なんだか中の方がが痒くなってきたわ」

「血の巡りが良くなって、お耳が汗をかくそうです。それで痒くなるそうですよ?」


 どこかエメリアの口調もとろんとしたものに変わっていた。眠気を妨げないよう、ささやかな返答しながら、側に置いていた耳かき棒を握りなおす。セシリアの顔つきが、真剣に変わった。


「では、痒いうちに耳かきを始めさせていただきますね。動かないでくださいませ。お嬢様」

「ええ、分かってるわ。だから早くお願い……」

「はいはい。ちょっとだけ引っ張りますよ、それから痛かったら必ず言ってくださいね」


 エメリアの耳が、セシリアの空いた方の手で挟み込まれ、くいと拡げられる。小さな耳の穴が少しだけよく見えるようになる。

 中には、狭い耳道に張り付くようにして黄褐色の垢が垣間見える。乾いた質感のそれは耳壁から僅かにはがれかけており、ひらひらと浮いている。それに、細かくなったのであろう欠片が手前や奥に散らばっていた。


「あらあら。これはほんとに痒そうな……。もっと早く言ってくださってもよかったのに……」


 同情するような声を制止リアが出すと、エメリアはぶっきらぼうに呟いた。


「だって……このころずっと、私もあなたも忙しかったわ……」

「あら……」


 ふと、セシリアはここ一週間ほど、エメリアとまともに話していなかったようなことを思い出す。

 エメリアは座学であったり、お稽古であったり、両親に連れられて家を離れることも多かった。セシリアもセシリアで、同僚が一人風邪で寝込んだ分、ここ数日は余裕がなかった。けれど、仕え主であるお嬢様に頼まれれば、少しくらい手を開けることもやぶさかではなかったが──。


「……そういえば。そうでしたね。──けど、私に気兼ねしてくださっていたのですね、お嬢様」

「そんなんじゃないわ……。我慢できるくらいだっただけよ……」

「ふふ。いえいえ、見ていただけているだけでもうれしいものですよ」


 笑みながら、耳かき棒の先端を穴に近づける。自分でおやりにはならなかったんですか──なんてことは言わないことにした。実際、軽んじているわけではないが、セシリアとしてもまだエメリア自身に耳かきをさせたくない。


「では、我慢させてしまった分、完璧に綺麗にして見せましょう」


 意気込んだセリフを口にして、まず入り口付近から耳かきをあてる。エミリアがぎゅっと目を瞑る。


 さり、さり……


 力加減を確かめるように、皮膚の入り口をさじがこする。その細やかな手つきは、これくらいのちからなので、痛くありませんよと耳越しに伝えるような風。


「奥をやる前に、手前からやりますよー……あ、そうだ」


 小刻みに動かす手を止め、セシリアは悪だくみした子供のような笑みを浮かべた。そして、僅かに耳の中を覗き込む顔を耳元へ近づける。


「囁きながらされるの、前も気に入られてましたね、そういえば。こんな感じで──かり、かり、かり……」

「んぅ……」


 セシリアが耳元でささやきながら、擬音に合わせるように耳かきを動かすと、くすぐったそうに顔を傾ける。少しだけ抗議の意を込めたような、じとーっとした視線を送る。


「ごめんなさい、お嫌でしたか?」

「…………」


 ふんと、エメリアはそっぽを向くように顔を戻したが、けれど素直に耳を向けなおした。無言の否定とセシリアは受け取る。止めた手をまた動かしだした。


「囁くの、私の祖母が昔同じようにやってくれたものなんです。それがなんだか、不思議と気持ち良くて……。──かり、かり、かりり……。こり、こり、こり……」


 囁きと共に、耳かきの固い感触が柔らかい耳道を刺激する。耳かきになぞられるたびに、不思議な気持ちよさを味わう。


 耳かきのさじは段々と深く潜っていっていた。浅い溝の裏が、優しく掻かれいく。そのとき、エメリアはより強まる掻痒感を憶えた


「なんだか、硬い音と感じがするわ……。痒い……」

「ええ、どうやら裏側に張り付いているみたいですね。ぽろぽろ欠片が取れてきます。ちょっと御辛抱くださいね」


 セシリアの言う通り、耳かい棒のさじには白っぽい粉のようなものが乗っていた。とんとんと、耳を掴んでいる手親指のつけ根あたりに耳垢の粉を落としては、耳かきをまた戻していく。


「かり、かり……。うーん、お嬢様。ここ……今触っているここに、硬い感じはされますか?」


 こつ、こつと言う硬い音をエメリアは聞いた。そしてその音がするたびに痒みはどんどん高まっていく。

 触られるまでなんともなかったのに、そこにあると分かるだけで、異物感にむずむずせずにはいられなくなる。


「うん。それ。それ、早くとってほしい……」


 てこのように耳かきを動かしながら、セシリアは耳かきのさじのひっかかりを確かめていた。エメリアはむずがゆそうに眉を振るわせている。


「今、取れそうな感じはしますか? それと、痛くないですか?」

「うん。ぺきっ……ぺきっ……って……乾いた音がしてる。痛くはないわ……けど……」


 どうやら思ったより大物そうだ。

「わかりました。少しだけ力を入れますね」

 そう言って、セシリアは微妙に力加減を調節する。


「ぺりっ……ぺりっ……かり……かり……」


 耳かきをさっきより大きく動かされる。一度始めた手前、囁きはセシリアの口から勝手にこぼれるようになっていた。


 ぺき、ぺきっ……ぺり、ぺり


「取れ、そう……」


 無意識にエメリアは手を握りこんでいた。それを察知してか、セシリアは一団と優しい口調で語りかける。


「お嬢様、力を抜いてくださいませ。すぐ取って差し上げますから──ほら、かり、かり、かきかきかき……かりかりかりー……」


 ぱりっ


「あっ……!」

「──取れた……!」


 慎重に、慎重に、さじの上にのせた耳垢を外へ取り出す。大きくはないが、見るからに固まった、薄い耳垢がそこにはあった。


「見えないところにもこんなのがあったとは……」

 セシリアは膝上の淑女の、年ごろゆえの代謝なのかしら、と思いを馳せる。そしてふと、お嬢様が静かなことに気づく。視線を下げれば、エメリアが何か言いたそうに、足のつま先をこすり合わせていた。そして、あっと何かに気づき、耳垢を手の甲に落してから耳かきを戻す。


「ごめんなさい。取ってすぐは痒かったですね。──こんな具合でいかがでしょう。かりかり、かりかり、かきかき……」

 くしくしと、先程耳垢を取った場所で耳かきを細かく動かす。言葉ではなく動作に出やすいお嬢様のつま先は、満足げに動きを止めた。

 痒みを取りながら並行して、耳の手前、浅いところの細かい耳垢を取っていく。


「かしかし、くしくし、かりかり、かり……これで大体取れましたかね……ふぅ」

 そんな呟きを聴き、エメリアは重たげに瞼を開ける。


「奥は……?」

「ええ、今からさせていただきますよ。手前を取り終わったので、心起きなく奥のを取れます」

 にこやかにな言葉に安心したのか、またエメリアは目を瞑りなおした。

 そういえば、と膝の上にかかる体重が心なし重くなったようだとセシリアは感じる。もちろん、まだ小柄なその体躯からして、重たいとは感じなかったけれど。

 膝の上で、子供らしくうずくまる仕え主。セシリアの左手がふいに頭を撫でた。そして一度、二度、頭を撫でた後で、セシリア自身がはたと、驚いたように手を引っ込める。まるで、触ってはいけないものに触れてしまったかのように。

 そしてエメリアもまたゆっくり目を開け、セシリアを見上げた。目と目が合う。

 二人の立場の違いに、年齢は関係ない。いくら年月によって親しみが生れたとしても、頭を撫でることは出過ぎた行為だった。


「これはとんだ失礼を……」

 居心地の悪い静寂の中で、ゆらりと、エメリアの右手が動く。

 その手が、畏まったセシリアのひっこめられた手を取った。


「撫でて」


 緩慢な口調で呟かれた言葉。今にも閉じたがっている瞼の奥で、丸い瞳が訴えかけている。


「撫でなさい……」


 セシリアは再び、手を頭へと戻した。非常に上質な、手入れの行き届いた髪に触れる。天鵞絨のような手触りを、優しく撫でつける。

 丸い瞳は、満足げに閉じられた。

 しばらくそれが続けられ、また吐息が深くおだやかになったとき。


「では、奥の方を始めますね」

「……うん」


 耳かきがまた耳へと入っていった。


「かりっ……かりっ……かり」



 くすぐったげに、エメリアが閉じた唇を動かす。耳かきのさじは、最初に見えていた張り付いた耳垢を根気よくはがそうとしていた。

 はがれかかっているようで、中心部はぴったりと耳の壁に張り付いている。


「かき……かき……。もうちょっとだけ我慢してくださいね……」

「んむ……」


「ぺり……ぺり……かり……かり……痛くないですか……?」

「うん、痛くはないけど……」

 耳の中では、乾いた摩擦音が迷走神経をくすぐりにくすぐっていた。異物感は次第に大きくなっていき、耳垢に引っかかってははがし切れない、がりっ……とか、ぱりっ……という音が鳴る度、エメリアは拳をぎゅっと握る。

 それでも、段々と耳壁から浮き出していることがわかった。


「ぺり、ぺり、かきかき……かりかり……かきかき……もうちょっとでとれそうです……! 力まないで、動かないでくださいね……」


 緊迫感を帯びたその言葉に、エメリアはふーっと息を吐きだして、言われた通り出来るだけ力を抜こうとする。それでも、押し寄せるくすぐったさにふる、ふる、と体が揺れ出していることもまた、膝枕しているセシリアには伝わってきた。


 早く、そして痛くないように……。


「かりかりかり……ぺりぺりぺり……くしくし……あっ!」


 ごそごそという音が高まっていく中で、エメリアは……ぱりっ! と、一段と大きな音と共に、飽和した異物感が一掃される、解放感を味わった。あっ、という嬌声にも似た声が漏れる。

 セシリアは慎重に、慎重に耳垢をさじにのせながら、ようやく外へと引き出した。


「これはまた……大物でしたね」


 エメリアはといえば深呼吸のように大きな息を吐いていた。

 親指の付け根にのせたそれは、御指の爪の半分はありそうなほどの、シート状の耳垢。水分の無いその質感を見るに、はがれかけの異物感を想像すれば、呻いてしまいそうなものだ。


 けれどセシリアは感慨に浸るのもそこそこに、すぐ耳かきを中へ戻した。


「では、細かいのも取りつつ、痒みも取らせていただきます。動かないで下さいよ……かしかし、かしかし、かりかり、かりかり……」


 細かく耳かき棒を動かすたびに、エメリアは膝枕の上で切なそうな声を上げながら身じろいだ。その反応を伺いつつ、セシリアはつど耳かきの向きを調整する。


「ここなど……気持ちよくはありませんか?」

「うん、そこをもっと」

「はい。かりかり、かりかりー、かきかきかきー……」


 エメリアは大物が取れたばかり、神経が過敏になっている部分への絶妙な刺激に酔いしれていた。よだれが出てしまいそうな程の心地よさを、気品としてなんとか嚥下する。


「細かいのも集めていきますねー。かしかし、くりくり……」


 という囁きと共に、わずかに残った異物感もかき集められては出されていく。そのたびに、爽快感が耳を満たしていく。


 出し入れを何度も繰り返す。そのたび、クリーム色の粉がさじにはのっていた。


「大体取れましたかね……お嬢様、お痒い所はございませんか?」

「奥の方。奥の方をもうちょっと」

「はい。このあたりですか?」


 セシリアはすぐに耳の奥の、やや曲がっているのだろう部分をかりかりと撫でた。


「うん、そこをもうちょっと……」

「ええ。赤くならない程度に。いきますよー。かりかりかり、かりかりかり……」


 エメリアの閉じていたはずの唇はいつの間にか小さく空いていた。もう深いまどろみの中におられるのだろう、そう横顔を眺めたセシリアは優しく囁く。


「こんな風に、細かく動かすのも良いかもしれません。こりこり……この引っかかる部分などを……。こりこりこりこりー、かきかきかきかきーと……」


 それはもし耳の掻痒感に核があるとしたら、そこをピンポイントで刺激されるような。ともすれば痛みを感じやすい場所でも、繊細な力加減がエメリアの眠りを妨げない。


「んむぅ……」


 切なくか細い声はもはや可愛らしい寝言と区別がつかない。夢見心地の中で、快感に耐えるようにぴくぴくと眉を振るわせている。


「さり、さり、さりり……こんなものでしょうかね」

「すぅ……。すぅ……」


 ゆっくりと耳かき帽が引き抜かれた。セシリアの満足げな声に返事はなく、ただ安らかな寝息だけが聞こえてくる。

 少しの間、セシリアは膝上の寝顔を、静かに眺めた。目を細めながら。

 割れ物にさわるように、また空いた方の手が髪にかかり、優しく撫でつける。

 窓の外の風の音より、小さな声で独り言を呟く。


「眠気のままに眠って頂けたのなら何よりです……。──まだ反対もできていませんが」


 微苦笑と共に、セシリアの手が柔らかな髪を撫で続ける。

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