ハデスの川
船越麻央
長いトンネルを抜けるとそこは荒野
トンネルを抜けると荒野であった。
薄暗く荒涼とした大地を汽車はゆっくりと進んでいた。満員の車内は誰一人口を開かない。皆黙って下を向いている。余も誰とも会話をしていない。そもそもこの汽車はどこに向かっているのか。余はなぜこの汽車に乗っているのか。
やがて汽車は停車した。駅に着いたようだ。乗客は全員無言で立ち上がり、フラフラと降車口に向かう。
余も後に続くことにした。ここで降りねばならぬ。余は外に出て地面に降り立った。駅のホームなどなく直に固い土を踏んだ。
暗い。寒い。静かすぎる。
老人。中年。若者。子供。
男も女もいる。
皆、黙々と歩いて行く。
どこに行くのか。
一木一草もない不毛地帯だ。
余はこれからどうなるのか。
どれくらい歩いただろう。人々の歩みが止まった。
前を向くと川が見えた。皆、川岸で立ち止まっている。何かを待っているようだ。対岸に渡るための舟を待っているらしい。余は列を離れて周囲を見廻した。見渡す限り岩だらけの荒野だ。
余は確信した。ここは恐らく黄泉の国の入り口だろう。あの川は『ハデスの川』。渡ったら最後、二度と現世には戻れぬ。
噂には聞いていたが、まさか余がここに来る羽目になるとは思ってもみなかった。だがこれは現実だ。恐らく夢ではない。余は現世に別れを告げるのだ。
なぜ余は死んだのか。よくわからぬがもうどうでも良い。現世に未練も執着もない。『ハデスの川』の向こう岸がどうなっているのか知らぬ。だがここで引き返す気にはならない。
余はもう一度列に並んだ。順番が来たら渡し舟で『ハデスの川』を渡るつもりだった。
ふと気が付くと、余の前に小さな女の子がいた。こんな小さな子供が……なんと不憫な。余は思わず女の子の手をとった。女の子は驚いて余の顔を見上げた。余は怖がらなくてもいいよと、笑顔を見せた。女の子は恥ずかしそうにしていたが手は離さなかった。
そして余と女の子の順番が来た。さて渡し舟に乗ろうとすると、向こう岸から大きな声が聞こえてきた。
「まだ早い、引き返せ、引き返せ!」
「その手を放せ、放せ!」
確かにそう聞こえた。
余が手をつないでいる女の子に向かって叫んでいるようだ。
余は女の子の手を放し、岸の方へ押しやった。
この子は……『ハデスの川』を渡らせるわけにはいかぬ。
まだ現世でやることがあるのだろう。
今ならまだ間に合う。引き返すことが出来る。
余に与えられた最後のつとめだ。
余は困惑している女の子に手を振って別れを告げた。
余に出来ることはこれだけだ。
「キミは生きろ、生きるんだ」
女の子は『ハデスの川』に背を向けて来た道を帰って行った。
誰も止める者はいない。
余は満足して渡し舟に乗った。
こうして余は『ハデスの川』を渡った。
もはや後戻りは出来ぬが悔いはない。
あの女の子が無事現世に戻ることを祈るのみだ……。
了
ハデスの川 船越麻央 @funakoshimao
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