第2話
拝殿の奥から声が聞こえた瞬間、陽子の指先から線香が落ちた。
「一番寒いのが一月です。ほとんど日の光が届きませんから」
声の主は見えない。けれど、それは確かに人の声だった。
「──だから、わたしたちは春が楽しみなんです。桜は、淡くて優しいですから」
陽子は息を呑んだ。それは、祖母が残した手帳に書かれていた言葉と、まったく同じものだったからだ。
落とした線香を拾おうと屈んだとき、足音が聞こえた。朱塗りの廊に、白い着物を着た老婆が立っていた。巫女装束ではない。けれど陽子には、それが誰なのかすぐにわかった。祖母の手帳に貼られた古い写真で見た、あの人に違いない。
「よく来てくれましたね」
老婆は微笑んで、陽子に手を差し出した。その手には、桜の枝でできた古い簪が握られていた。
「お待ちしていました」
夕闇が迫っていた。境内の石灯籠に、一つまた一つと灯がともりはじめる。
視界に意識を戻すと、老婆の手には、淡く光を放つ
その簪に意識を奪われていた。
長さは二十センチほど。桜の小枝を束ねて作ったように見えるが、枝は不自然なまでに真っ直ぐに伸びている。五本の枝が寄り添うように並び、その先端で緩やかに分岐して花の形を作っている。
花びらは半透明の水晶でできているのだろうか。灯籠の明かりを受けて、かすかにピンク色に輝いている。よく見ると、花びらの表面には細かな模様が刻まれていた。まるで桜の花脈。というより、本物の桜の花びらを剥製にしたかのような精巧さ。
枝と枝の間には、蔓のような細い金属が這っている。それは銀糸のようでもあり、水銀のようでもある。灯りに照らされると、まるで液体のように揺らめいて見えた。
「これを」
老婆が差し出した簪に、陽子は思わず息を呑んだ。近くで見ると、花びらの中に何かが封じ込められているように見える。桜の花の中心には、小さな渦が巻いていた。
手を伸ばした瞬間、陽子は気付いた。
簪からは冷気が漏れている。周囲の空気より明らかに温度が低い。まるで冬の寒気が形を成したかのように。
指先が簪に触れた時、世界が歪み始めた。
石灯籠の灯りが、逆さまに流れていく。まるで水面に映った景色が波に揺らぐように、境内の風景が揺れた。
「あら、」と、何かを続けて話す老婆の声が若返っていく。その姿が溶けるように消えていった。
「お帰りなさい」と、聞き覚えのある声がして目が覚めた。
振り返ると、そこには二十年前に亡くなったはずの母がいた。
白い桜 Colet @kakukaku025
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