運命の人

トビウオ倶楽部

運命の人

 日々が色褪せていくように感じ始めたのは、いつからだっただろうか。高等学校を卒業し、故郷から遠く離れた大学へと進学した当初は、今まで住んだことのない土地やら、これまでに無かった新しい出会いやらに、嬉々として胸を躍らせていたはずである。しかし、大学に入学してから一年半以上が経ち、二回生も残す所僅かとなった今はどうであろうか。日常生活の刺激にも慣れ、ただ過ぎていく時間を無為に過ごしているだけのような気がする。自分が一体何処で何をしているのか分からなくなる。

 

 僕はいつものように、陰鬱な気分に浸りながら、大学からの帰り道を辿っていた。空はもう桃色から藍色へと変わり始めており、吐き出す息は白い。冬の大気に覆われた街はもう夜の底に沈もうとしている。

 チカチカと点滅を繰り返す、目障りな切れかけの街灯を横目に、僕は不安な気分になりながら、自身の住む決して綺麗とはいえない古い白壁のアパートに辿り着いた。隅に事切れた蛾が転がっている薄汚れた階段を、蹌踉たる足取りで上り、暗い廊下を進む。一番奥にある自室の扉の前に憮然として立つと、僕は大きな溜息を吐いてから、ドアノブに手を掛けた。

「ただいま」と言いながら扉を開くと、中からもう何十回と聞いた「おかえり」という、僕を陰鬱な気分にさせる原因の一端を担っている女性の声が聞こえてきた。

「夜ご飯出来てるよ」と言いながら、その女性が部屋の奥から顔を覗かせた。

 

 彼女の名前は瑠璃。僕の彼女である。見た目はそこまで綺麗とは言えないが愛嬌があって、同回生は勿論、先輩や後輩達からも好かれている。常に周りには誰か人が居て、楽しげな雰囲気で言葉を交わしている。真面目な性格で、授業をサボるなどということは決してなく、常に成績優秀者に名を連ねている。彼女は僕と同じ学部に所属している同回生であり、一回生の初めの頃に履修していた講義の席が近かった事から話すようになり、夏休みが始まる前に付き合った。告白は彼女からであった。別段、彼女の事が好きであったかといえばそうでは無かったが、もし万人から好かれている顔の広い彼女の告白を断って、学部の奴らから白い目で見られる様なことになれば厄介だ、という純愛とは程遠い感情でその告白に返事をした。彼女との半同棲を始めたのは、二回生になってからである。

 しばらくの交際を経て、一緒に住みたいと彼女が言い出した当初、僕は正直乗り気ではないどころか、嫌悪感すらあった。

 僕はずっと一人でいるのが好きという訳ではないが、一人の時間がある程度は必要というタイプの人間だ。友人達と一緒に遊んだり、飯を食ったりするのは楽しいが、いつまでもそんな状況が続くと、気疲れしてしばらく誰とも関わりたく無くなる。そうなった時は、自室で小説を読むか、好きな音楽を聴いて過ごすかしている。

 昔から関係の続く古い友人達は、僕のそのような気質を良く理解しており、僕が誘いに応じず、音信不通になると、「ああ、そういう時期か」と言ってそっとしておいてくれるのだが、瑠璃は違った。

 どうやら彼女には、一人になりたいという人間の気持ちが理解出来ないらしい。大学の教室に居る時、彼女の周りには、いつも誰かしら人がおり、彼らの発する言葉で溢れている。そんなにいつも人と居て、べらべら喋っていて疲れないのか、と僕は少し距離を置いた所から視線を一瞬やって、読んでいる文庫本にまた興味を戻すのだが、そんな僕に気付いた彼女は「──君」とはっきり通る声で呼び掛けてくる。僕がびくっとして顔を上げ、彼女の方を見ると、彼女が微笑みながら「何読んでるの?」と問い掛けてきたと同時に、彼女の周りに居た人々からの幾筋もの視線が飛んできた。

 そっちはそっちで宜しくやってれば良いのに、どうして僕に話を振るのか。内心イラつきながら、そこそこ名の知れた作家の名前を答える。当然話が広がる事も無く、一瞬微妙な空気が漂ったが、「そうなんだ。面白い?」と彼女がまた口を開くので、僕も「ああ」と返事をすると、彼女は何故か満足気な顔をして、周りの人と今の事は無かったかのようにして、また話し始めた。当人は、僕が寂しそうにしてるから話し掛けてやったとでも思っているのかも知れないが、僕は楽しく小説を読んでいたのに、これじゃただ、僕という人間のしょうもなさが、僕のあまり親しくもない人々に露呈しただけじゃないか、と声に出したら、彼女を取り巻く人々から顰蹙を買いそうな事を思ったが、僕はその一葉の不満をびりびりと破り、心の片隅にある、容量が既にいっぱいになっている屑入れに向かって投げ捨てた。


 今日の夕餉はどうやら手作りのハンバーグらしい。

「YouTubeの料理動画で見たから、作ってみたんだー」と彼女が最近ハマっている料理研究家の話を持ち出して来た。僕はそれに適当に相槌を打つと、両手を合わせてから、彼女に向けて「いただきます」と言って、料理に手を付けた。付け合わせに野菜も添えられており、インスタントではあるが、スープまで準備されている。一人暮らしの男の料理ではここまでのものは作れない。作れないというより、手間と時間を惜しんで、どうしても即席モノの飯で済ませてしまう。彼女との半同棲が始まってから、顔色が良くなった、と同じ学部や他学部の数少ない友人達から言われる事が多くなった。確かに、以前よりは健康になっている。休みの日に昼過ぎまで惰眠を貪る様な事も無くなったし、彼女が嫌がるから、これまでより、吸う煙草の本数も大きく減った。生活習慣が整ってから、大学の退屈な講義を休む事も無くなり、課題なども彼女に急かされるから、期限までには提出するようになった。

 大学やアルバイトから帰ると、家で飯を準備してくれている彼女が待っているなんて生活は、他人からすると、羨望の眼差しを向けられて然るべきものなのだが、僕はどうしても、彼女と一緒に住む前の、堕落していたが、とても精神が落ち着く事の出来た生活を恋しく思ってしまう。そう思うと同時に、彼女の愛ある献身を、利己的な感情で無下にしている自分に嫌気が差して、自身の中でぶくぶくと育ってきた煩悶に潰されそうになり、自家中毒に苛まれる。

 そんな状態が毎日続いている。


 風呂から上がって、他愛の無い会話をしたり、課題に取り組んだりすると、僕達は日を跨ぐ前に、二人で眠るには少し狭い布団に入る。寒くなると人肌が恋しくなるというが、僕はもうその人肌に慣れてしまって、今となっては何も感じない。唯一感じるのは、「ああ、やっと眠れる」という安堵感のみである。彼女が先に眠るか、僕が先に眠ってしまえば、下手に会話が続く事も無い。僕が彼女と自室に居て心休まる時は、彼女が眠りに落ちてからの夜更けの時間帯か、僕が眠りに落ちてからの夢の世界に居る時だけである。

 ただこの日は違った。実家から持って来た、寝心地の決して良いとは言えない布団に入ってから四半時もすると、彼女が身をぐっと寄せて来て、足を絡ませてきた。どうやら今日は気分らしい。僕は彼女に身を向けて抱き寄せ、唇を重ねた。何の味もしない、無機質な口づけであった。行為が進むにつれて、彼女が「私の事好き?」などと訊いてくるから、「好きだよ」と感情の籠もっていない軽薄な言葉を息を切らせながら吐き、より一層体を密着させる。こうしていると、自分達がまるで、誰かの家の、庭の鉢植えを退かした時にそこにいる、折り重なった湿った体の蛞蝓の様に思え、おかしいような、無様なような、気持ち悪いような感情になった。

 事を終えてから、彼女が眠るまで身を寄せて、睦言を交わしていたが、やがて彼女がすーすーと音を立て寝始めると、僕は彼女を起こさないよう静かに布団から抜け出した。暗闇の中で寝間着を着て上着を羽織り、決して彼女の開ける事のない、アパートの契約書類などをしまっている引き出しを開けて、奥に隠しているピースライトとライターを取り出す。

 履き古したサンダルを履き、玄関の扉をなるべく音を立てないように開けて、外へ出る。すっぽり街を覆った夜気が肌を刺すように冷たい。ボックスから一本、他の煙草と違って、紅茶のような匂いのする白い紙に巻かれたものを取り出して、咥えて火をつける。一息吸って、肺に入れてから、ふぅっと吐き出すと、紫煙が冬特有の白い息と混じりあって、星が見える程度には田舎である、僕の暮らす街の空へと立ち上る。僕は自室の前の手摺壁に両腕を乗せ、体重を預けて階下を見下ろしながら、感慨に耽った。


 瑠璃は大学でバレー部のマネージャーも務めていて、時折練習や大会終わりの飲み会などで家を空ける。彼女が家に居なくて、課題やアルバイトも無い日は、僕はここぞとばかりに好きな音楽を流して、小説を読み、煙草を燻らす。自身の体に、様々の有害物質を蓄積して、肺が黒く染まって行く事とは裏腹に、その煙を吐き出す度に、僕の体に溜まっていた毒が空気中に消えていくようなそんな気がした。

 飲み会のある日は、彼女は酔っ払って僕に迷惑をかけたくないからと、自分の暮らすアパートへと帰る。自分の彼女を一人で飲み会に行かせて、心配にはならないのかと問われれば、そこまで心配だとは思っていない。彼女自身がちゃんとしているし、バレー部には僕も見知った顔が何人もいて、彼らが学部でも人の輪の真ん中にいるような彼女に、不埒な事をする程愚かだとは思わない。何よりバレー部には、彼女が慕って止まない恒成さんがいる。

 彼はバレー部の副部長を務めている三回生の先輩で、僕とは同じ学部学科の直属の先輩にあたる。僕よりも一回り背が高く、眉目秀麗で、試合でも良く活躍するその姿には、学部問わずファンが多いらしい。僕達の履修していた講義で、教授の手伝いをしていた事があり、その際に瑠璃から紹介されて、僕と彼にも交流が生まれた。幾度か二人揃ってご飯に連れて行って貰った事もある。彼は理知的で話も面白く、後輩への面倒見も良い為、瑠璃が慕うのもよく分かった。僕とは正反対の人だと思った。


 深夜近くになり、読んでいた小説も区切りの良い所まで来たので、そろそろ寝ようかと思っていると、急にピンポンと部屋のチャイムが鳴った。

 玄関扉の覗き穴から外を伺うと、ぐったりしている瑠璃と、彼女を支える何処かで見覚えのある女性が立っていた。

 僕は急いで鍵を開けて扉を開き、瑠璃を支えに行った。彼女は「──君」と呂律の回っていない舌で僕の名前を呼んだと思うと、急に体の力が抜けて、床にへたり込んだ。「あちゃあ」と瑠璃を送って来てくれた女性が声を上げた。

「ここまでは頑張って歩いてたんだけどね。君の顔を見て安心しちゃったみたい」

「すいません、ありがとうございます。でもどうしてこんな」

「事情は後で話すから、瑠璃ちゃん早く部屋の中入れてあげましょ。風邪引いちゃうといけないから」

 そのようなやり取りがあり、二人で協力して瑠璃を部屋の中に入れ、布団へと寝かした。力の抜けた人間というのはここまで重いのか、と彼女と二人でゼェゼェ息を荒らげていると、不意に彼女と目があって、何だか分からないけど、お互い笑った。綺麗な人だと思った。

「ごめんなさいね、今日瑠璃ちゃん飲み過ぎちゃったみたいで。」

 事情を聞くと、瑠璃は今日、慣れない日本酒なんてものを飲んだらしい。不運な事に、甘くて飲みやすい、果実味のあるものを飲んでしまったらしく、飲むペースが上がってしまい今に至るとの事であった。

「あの人から君に、申し訳ない、って伝えてって言われたわ」

 あの人の事が分からずに僕が困惑していると、彼女は「ああ、恒成の事」と素早く付け足した。

 そこでようやく目の前に居る何処かで見覚えのある女性の事を思い出した。

 彼女の名前は遥香さんといって、恒成さんの彼女であった。肩の下位まで伸ばした明るい茶色に染められた髪が特徴的で、肌色は白く透き通っていて、誰がどう見ても美人である。大学内で幾度か二人連れたって歩く姿を見た事があり、瑠璃からも才色兼備な彼女の話は聞いていた。

「恒成さんの彼女さんでしたか。瑠璃から聞いた事あります」と僕が畏まって言うと、彼女は「何を話す事があるの、瑠璃ちゃん」と照れ臭そうに笑った。

 暫く二人で瑠璃や恒成さんの話をしてから、彼女は瑠璃が寝息を立てて気持ち良さそうに寝ているのに目をやって、「そろそろ帰るわね。瑠璃ちゃん起きたらお水飲ませてあげてね。」と言って僕の部屋から去る素振りを見せた。

「ありがとうございました」と僕が玄関まで見送りに行くと、靴を履いてドアノブを握り、扉を半分程開けかけていた彼女が急に振り返った。

「君、瑠璃ちゃんとの関係上手くいってないでしょ」

 虚を衝く彼女の言葉に僕は一瞬固まった。

「どうしてですか」と僕が恐る恐る訊くと、彼女は「何となく。じゃあね、おやすみ」と言って、深い夜に消えていった。僕は暫く呆然とした面持ちで、寒々しい玄関に立ち尽くしていた。


 翌日、瑠璃は僕に散々謝り尽くした上で、終いには泣き出してしまった。僕が全然大丈夫、気にしてないと宥めた所で、泣き止んでからも、彼女は終始「ごめん」を繰り返し、申し訳なさそうに僕の顔を伺っていた。

 僕は正直、昨晩の彼女の様子より、遥香さんが去り際に発した言葉の方が気掛かりだった。他人から見て、僕と瑠璃の関係が上手くいっていない様に見える箇所が有るのだろうか、と普段の僕の態度や言動を振り返ってみたが、思い当たる節は無かった。

 この日、僕は三限から講義があった為、まだ精神が落ち着いていない彼女を残して、自室を後にした。何より、本当に気にしていないのに、いつまでも申し訳なさそうにされると、こちらの方の気が滅入ってくるので、僕は早く彼女から遠ざかりたかった。

 

 講義の始まる時間より、十分程早めに当の教室に着いてから、後方の席を陣取り、小説を読んで予定までの時間を潰した。年老いた禿頭の教授が登壇してからは、面白味の欠片も無い九十分間の講義を、スマートフォンを触ったり、居眠りをしたりしてやり過ごした。

 四限の授業に向けて教室を移動し、そこでも僕は先程と同じように小説の頁を捲っていたが、講義開始時刻を告げるチャイムが鳴っても、教授は疎か、生徒すら誰も来ないので、不審に思ってスマートフォンを開き、大学からのメールを確認した。どうやら、教授がインフルエンザに感染した為、この時間は休講らしい。

 僕は困惑した。四限が休講となると、今日の予定は全て終わってしまった事になるのだが、瑠璃のいる自室には当分帰りたく無かった。今自分の居る教室で、このまま小説を読んで時間を潰すというのも、僕は元々大学という場所が好きでは無いので、選択肢からは除外される。途方に暮れて、数分間悩んだ後、以前友人と一回だけ訪れた事のある、昭和の雰囲気漂う喫茶店が大学のすぐ近くにある事を思い出したので、そこで珈琲でも飲んで、この所在無さを解消する事とした。


 裏門から大学を出て、古い民家の立ち並ぶ細い路地を抜けた所に件の喫茶店はあった。放物線状に磨り硝子の嵌められている木製の扉を開けて入店すると、からんという子気味好い昔懐かしい音が響いた。

 何処の席に座ろうか、と視線を泳がせていると、昨晩自宅で別れてから間も無い女性が目に止まった。窓際の二人掛けのテーブル席で灰色のノートパソコンを開いて、何やら真剣な面持ちでキーボードを叩いている。傍らにはまだ湯気の出ている白いコーヒーカップが置いてあった。僕は悠然として彼女に歩み寄り、その前に立って「こんにちは」と声を掛けた。余程集中していたのか、彼女は目を見開いてこちらを見上げると「何だ、君かー。びっくりしたじゃない。こんにちは」と莞爾と笑いながら答えた。

「席ご一緒して良いですか?」と訊ねると「良いよー」と遥香さんは快く許諾してくれたので、彼女の前に腰掛けた。白髪を綺麗に後ろに流した初老のマスターがお冷とおしぼりを持って来てくれたので、テーブルの上に設置してあるパネル式のメニューを一瞥して、恐らく彼こだわりであるブレンド珈琲のホットを注文した。

「凄く集中してましたけど、何を書かれてたんですか?」と僕が訊くと、彼女は「んー。ちょっとねー、ゼミの課題が行き詰まってて」と答えた。彼女の様な人でも課題に難儀する事が有るのか、と瑠璃から聞く印象しか頭に無かった僕は、遥香さんの学生らしい一面を目にして、少し親しみが湧いた。

「君は?今四限の時間じゃないの?もしかしてサボり?」と彼女が悪戯っぽく口を開いた。

「いいえ、休講なんです」

「お、ラッキーじゃん。それで珈琲飲みにこんなとこに来るなんて洒落てるねぇ」

 彼女が茶化してくるものだから、僕も「何も無くてもこんな所で課題してる先輩の方が洒落てます」と返した。

「そうかも、ふふふ」と微笑みながら、彼女はまたパソコンの画面へと目線を戻した。

 やっぱり綺麗な人だ、と今も落ち込んで僕の部屋に居るであろう瑠璃に申し訳なく思いながら、僕は遥香さんに少し見惚れてしまっていた。

 数分の間、お互いに何も言わない沈黙の時間が続き、彼女のキーボードを叩く音と、時々もう温くなっている筈の珈琲を啜る音が響いた。僕は暫く逡巡していたが、昨晩から気掛かりであった疑問を口に出す事にした。

「あの、先輩」という僕の問い掛けに、彼女は再びパソコンの画面から視線を上げて「どうしたの?」と首を傾げながら僕の目を見て答えた。

 その仕草に、僕の置かれている立場では決して感じてはいけない、一抹の淡い感情が心の隅っこに生まれかけて、すぐに消えていったので、僕は狼狽して言葉に詰まった。

「あ、いえ、ええっと」

 先輩は不思議そうに僕を見て、相変わらず首を傾げている。

 タイミングの良い事に、マスターが先程注文した白い湯気の立ち上るブレンド珈琲を持って来てくれたので、僕は彼に礼を述べてから、気を落ち着かせる為に、一口それを啜った。美味しかった。酸味は控えめで、ほろ苦かったが、かと言って飲みにくいという訳では無い。僕好みの味であった。

「落ち着いた?」と彼女が全部お見通しであるかのように、問い掛けて来たので、今度は僕も「ええ、すいません」と余裕を持って答える事が出来た。

「昨晩の事なんですけど、どうして僕と瑠璃が上手くいって無いって思ったんですか」

「何だ、そんな事まだ気にしてたの。本当に、何となくよ」

 彼女はそう言って何事も無かったように、珈琲に口付けた。

 僕はその「何となく」の正体を知りたかった。心の端っこの、ささくれみたいに気になるこの不穏な引っ掛かりを、解消したくてしょうがなかった。僕は訝しげな面持ちで彼女を見詰めた。

 彼女は僕の視線に気付かない振りをして、相変わらず作業を続けていたが、やがて根負けしたかの様に、ぱたんと音を立ててパソコンを閉じ、その爪の綺麗に切りそろえられた、ネイルなどで着飾っている事の無い細い両指を組んで「んーっ」と、凪いだ冬の海のように透き通った声を上げて、背伸びをした。

「君がそんな顔して見るから、集中出来ないじゃない」と彼女は僕を見てから冗談めかして言った。

 僕は申し訳なく思ったが、それを察した彼女が素早く口を開けた。

「良いの良いの。どうせ家に居ても集中出来なかったし。何処か場所を変えて気分転換したかっただけなの。あと、ここのマスターの淹れてくれる珈琲は美味しいから」

 彼女はカウンターでコーヒーカップを拭いているマスターに目をやった。

「美味しいですよね。ほろ苦いのに飲みやすくって」

「そーそー。家じゃこの味は絶対飲めないわね」

 そう僕の目を見て答える彼女の睫毛は、瑠璃のそれよりも長いと思った。

 僕は遥香さんに対して湧いてくる様々の感情を押し殺しながら、そんな自分に嫌気が差して、瑠璃と恒成さんに罪悪感を感じた。

 彼女は「ふぅっ」と小さな溜息を吐きながら、窓の外に視線をやった。彼女の瞳に映っているのは、白い息を吐きながら、俯いて街を行き交う外套を羽織った人々と、道路脇に植えられている、もう葉の枯れ落ちてしまった、太もも程の幹の大きさの街路樹であった。僕の目の前にある黒い液体は冷めてしまって、湯気はもう立ち上っていない。


 「昨日君を見た時ね、どうしてか分からないけど、この子は私と同じだって思ったの」

 徐に遥香さんは口を開いた。

「僕が先輩と同じですか?」

 僕は彼女の言った言葉の意味が分からなかった。

「そう、同じ。必死に自分を押し殺して、相手に合わせて、それにも耐え切れなくなってきて、息も出来ずに今にも溺れてしまいそうな、瑠璃ちゃんを心配しながら、君はそんな表情をしてた。瑠璃ちゃんを布団に寝かしてから少し、君と瑠璃ちゃんの話をしてたけど、何処か他人事みたいだったしね」

 心の中を読まれている様な気がして、僕は少し怖くなった。彼女はどうしてそこまで的確に、恒成さんにも、親しい友人にも相談した事の無かった、僕の感情をさも知っているかのように言えるのか、分からなかった。

 僕が思案顔になって黙っていると、彼女は「自分語りになっちゃうけど」と薄い桃色の唇を続けて開いた。

「私もあの人と居る時、息詰まってしまう事が多いの。あの人は見た目も良くて、バレーも上手くて、君は良く知ってると思うけど、後輩の面倒見も良いでしょ」

 僕は頷いた。

「だけど、あの人の優しさは独り善がりなの。私の内面なんて全く見えてない。上手く言えないけど、あの人と過ごす日常生活の中でそれを感じる事が多くなって」

「でも、先輩はいつも恒成さんと仲良さそうにしてたじゃないですか。第一、昨日も一緒に飲み会に行ってたし」

 僕が納得出来ずに口を開くと、彼女は憂いを帯びた目で笑った。

「昨日の飲み会も本当は行きたくなかったの。あーいう大勢が集まってる所はちょっと苦手だから。でも、あの人がおいでって言うから。多分ゼミの事で悩んでた私の息抜きにって誘ってくれたのよね。あの人なりの優しさで、善意が痛いくらいに伝わってきたから、断れなかったの。自分で言うのもなんだけど、周りは私達の事をお似合いだとか言うし、あの人もそれに満更では無さそうだけど、私は全くそうは思ってないの。でもこれは自分勝手な私の感情で、あの人の愛を無下にしてるみたいで、私はそんな自分が嫌になるの。それは君も同じなんじゃない?」

 彼女にそう言われて、僕は自分の事となればすぐ理解出来るのに、どうして他人の事となると理解が及ばないのだろうと、自分の思慮の浅さが恥ずかしくなった。

「ねぇ、瑠璃ちゃんとの事話してよ。昨日みたいな上辺の話じゃなくて、君が思ってる本当のところ」

 そう言われた瞬間、この人になら全部話しても大丈夫という安心感に包まれた。テーブルに頬杖をついて、大きな瞳で僕を見詰める彼女が、いたく妖艶に思われた。


 長い間、お互いがお互いの相手の事を話していた。日々抱える不満や、憂鬱を吐露し合う内に店の閉店時間が近くなったので、支払いをする為に僕達は席を立った。もう僕達以外に客は残っておらず、古いレコードから流れる、聞いた事はあるが名前の知らないクラシック音楽が、店の中を穏やかな雰囲気に包んでいた。自分の分を出そうと、ポケットから財布を取り出すと、「良いよ良いよ。ここは私が出してあげる」と遥香さんが言ってくれたので、僕はその好意に有難く甘える事にした。店から外に出ると、空はもう紫色になり、夜の帳が下りようとしていた。

 僕が馳走になった礼を言って頭を下げると、彼女は胸の前で手を振りながら、「良いの。でもその代わりと言っちゃ何だけど、もし君が良かったら、これからうちに来ない?」と子供同士が何か悪戯の相談をする時に囁くような声で言った。

「今日恒成さんはどうしたんですか」と訊ねると、「今日からあの人は暫く研究室に泊まりきりなの」と彼女は答えた。

 僕の胸に一瞬、自分の部屋で今頃夕飯の準備をしている瑠璃の姿が浮かんだが、それも目の前にいる遥香さんの姿を見ると、白い靄がかかったように薄れていった。僕はスマートフォンを開いて、今日の夕飯は要らないという事を、他学部の瑠璃の知らない友人の名を引き合いに出して、連絡した。

 僕にも遥香さんにも言える事であるが、魔が差したというのはこういう事だと思った。


 二人連れたって歩き始め、他愛のない会話をしていたが、いよいよ我慢出来なくなって来た為、「すいません」と遥香さんに声を掛けて僕は立ち止まり、外套の胸ポケットから、ピースライトとライターを取り出し、咥えて火を付けた。紫煙が辺りを揺蕩って、寒風に吹かれて大気と混じり合って消える。

「へぇー、君煙草なんて吸うんだね」と彼女が意外そうに言うので、「やっぱり煙草って嫌ですか?」と訊ねると「全然、昔付き合ってた人も吸ってたから」と彼女は遠い目をして答えた。

「何だか甘い匂いがするね」

「煙草の香りにも色々あるんですよ」などという会話をした後、今日の夕餉は何にするかという話になった。

「今日は面倒くさいから、出来てるもので済ましましょ」と彼女が言うので、僕は頷いて、ちょうど近くにあったコンビニエンスストアに入る事を促したが、彼女は「あっちのスーパーで買お」と少し離れた所にあるスーパーマーケットを提案した。僕の不服そうな心が顔に出ていたのか、彼女は僕を見詰めて「愛はコンビニでも買えるけど、もう少し探さなくっちゃ」とイミシンな言葉を、いかにも真面目そうな顔で言った。


 スーパーマーケットでお惣菜と、何本かのお酒を買って、僕達はそこから徒歩で十分程の遥香さんの住むアパートに辿り着いた。彼女は三階建ての瀟洒なアパートの三階に住んでおり、その階までは備わっている螺旋階段で登った。暖かい橙色の光に照らされた長い廊下を、中程まで進んだ所に彼女の部屋はあった。

「あまり綺麗じゃないけど」と言いながら、彼女は部屋の鍵を開けて、扉を開いた。綺麗じゃないなんて、とんだ謙遜だと思った。彼女の部屋は1Kで、その居室へと続く廊下にあるキッチンは、鍋やフライパンなどの調理道具が綺麗に整頓されていた。彼女の居室は南向きにベランダへと続く掃き出し窓があり、ベージュ色のカーテンが引かれていた。それに向かって左側の壁に接地する形で、清潔そうなシーツに覆われたシングルベッドがあり、右側の壁には焦げ茶色をした、僕の胸より少し低い程の高さの本棚が設置されていて、教科書や小説、CDなどが並べられていた。その横にある同じ位の高さの棚には、オーディオ機器があり、彼女とその友人達の写る写真なども飾られている。右側の壁の一番奥にはテレビが設置されていた。部屋の真ん中には、薄茶色の丸いカーペットが敷かれ、その上に楕円テーブルが置かれている。色に統一感があって、落ち着く部屋であった。

 荷物を置いて、順番に洗面台で手を洗ってから、僕は彼女の部屋を見渡してキョロキョロしていた。思えば、瑠璃以外の女性の部屋に来るのは久々であった。

「さあさあ、座って座って」と手を洗い終えた遥香さんが自身も腰を下ろしながら促したので、僕も遥香さんの向かいに腰を下ろそうとすると、彼女は「違う違う、ここでしょ」と自身の横の地面をとんとんと叩くので、僕は観念したように、彼女の隣へと、体を落ち着けた。妙に心臓の鼓動が早くなっていた。僕達は先程購入したお惣菜をテーブルの上に並べて、缶チューハイの栓をぷしゅっという音を立てて開け、乾杯した。レモンの酸味としゅわしゅわと弾ける炭酸が身に染みた。

「美味しいねぇ」と遥香さんも顔を綻ばせている。

 食卓の上には唐揚げや春巻き、焼きそばなど、茶色い不健康そうなものしか乗っていなかったが、彼女は「たまにはこういうのもね」と美味しそうにもぐもぐ頬張っていた。全く僕も同感だったので、深く頷いて、頻りに箸を伸ばした。

 食事も大方終わって、テーブルの上に残っているものがお酒だけになると、彼女は「音楽を流そう」と不意に立ち上がって本棚の方へ行き、CDを厳選し始めた。僕は満腹とほろ酔いの多幸感に浸りながら、彼女の華奢な後ろ姿に見惚れていた。やがて、彼女が今の気分に合うものを見つけたのか、ひょいと一枚のアルバムを抜き取ると、それをぱかっと開き中身を取り出して、オーディオ機器へと挿入し再生ボタンを押した。

 痛快なドラム音が鳴った直後、聞き覚えのあるボーカルの透き通るような声が聞こえて来た。

「スピッツですか」

「お、良く知ってるじゃん」

「高校時代の友人が大ファンで、CDを何枚か貸してもらった事があります」と別々の大学に進学してからも交流があり、帰省のタイミングが合えば、必ずと言って良い程飲み交わしている旧友の事を思い浮かべると、彼女は「素敵な友人がいるねぇ」と再び僕の隣へと腰掛けた。

「空の飛び方ですか」

「そーそー。私の一番好きなアルバム」

 二人しか居ない部屋に、草野さんの耳触りの良い透き通るような高音が響いていて、心地好かった。


 だから もっと遠くまで君を 奪って逃げる

 ラララ 千の夜を飛び越えて 走り続ける


「ねぇ」

 遥香さんが湿ったような声で、僕を見ながらお酒で濡れた唇を開いた。

「君は私を奪ってはくれないの?」

 そう言って彼女は僕に身を寄せて、僕の左肩に頭をコテンと乗せて来た。本来であれば、僕は理性を盾に身を避けなければならないのであるが、何を今更、と缶チューハイの酔いの所為にして、僕はそのまま彼女を受け容れた。彼女の使っている柔軟剤の香りだろうか。甘い匂いがした。


「今日泊まっていかない?」

 僕の理性は瑠璃さんのその甘くて魅惑的な言葉に抗う術を最早持っていなかった。ある種、筋書き通りに事が進んで、多くの大学生がそうしているように体が重なった。ただ、瑠璃とする時とは違って、僕は熱の籠った心の奥底からの言葉を口にして、ただひたすらに、純粋な気持ちで遥香さんを愛した。彼女との口づけは心地好く、柔らかくて甘いものであった。絡み合う舌と、重ねる身体が温かくて、永遠に、ずっとこうしていたいと思えるような、幸せとか、自分の生きる意味とか、そういったものが溶け合って、一つになっているかのような、そんな気がした。

 瑠璃や恒成さんへの罪悪感や、不満などを、その行為をする事でお互いに消化し合って、気付けば僕は、彼女の白くて柔らかい乳房に顔を寄せて、赤子の様に眠りに落ちていた。


 翌日目が醒めて、視界へと初めに飛び込んで来たものは、見慣れない白い天井であった。昨日の事を思い出して起き上がり、冬用の厚いふかふかの掛け布団を退かして、ベッドに腰掛けた。枕元のコンセントで充電させて貰っていたスマートフォンを手に取ると、時刻は十時半を回った所であった。通知を見ると、瑠璃からの不在着信が四件入っていた。眠気で不明瞭な頭のまま、それをベッドに投げるように置いて、僕は俯いて目を擦りながら、遥香さんの姿を探した。

「おはよう。良く眠れた?」

 台所のある廊下から、彼女は昨日と変わらない綺麗な顔を覗かせた。

「おはようございます。お陰様で。遥香さんは何時頃から起きてたんですか?」

「今から一時間くらい前かなぁ」

 僕を起こさないように、そーっとベッドから抜け出す彼女を想像すると、僕の心に彼女への愛しさが滔々と湧き出て来て、やがて溢れた。

「朝ご飯食べて行くでしょ。珈琲飲む?」

「はい。ありがとうございます。ブラックで」

 僕がその好意に感謝して、幸福な面持ちでいると、彼女はじっと僕を見詰めて来た。

 怪訝に思い、「どうしたんですか」と訊ねると、彼女は「いや、元気だね」と人差し指をぴんと立てた。その瞬間、僕は産まれたままの姿であった事を思い出して、酷く赤面した。早く服を着なければと思い服を探すと、ベッドの横に昨日乱雑に脱ぎ散らかした筈の服が、綺麗に畳まれて置かれていた。


 彼女が淹れてくれた珈琲を啜ると、体が芯から温まって、ぽかぽかしてきた。僕は彼女にベランダを貸して貰って良いかと訊ねて、ハンガーで丁寧に壁に掛けられている外套から、ピースライトとライターを取り出し、掃き出し窓を開けて外へ出た。自分の住むアパートより高い所で、いつもと違う景色を見ながら吸う煙草は新鮮で、美味しかった。持って出て来た珈琲を舐めていると、後ろからガララと音が聞こえて、遥香さんもベランダに出て来たのが分かった。彼女は欄干に肘を立てて、晴れ渡った空を眺めている僕を後ろから抱きしめ、その雪のように白く柔らかい頬を背中に押し当てて、「ねぇ、これからどうしようか」と言った。

 僕は何も答えなかった。僕と瑠璃、遥香さんと恒成さん、この四人の前には、燦然と輝いているのか、暗鬱と沈んでいるのか分からない巨大な未来が、荒涼たる地平に茫漠として佇んでいるのを想像した。しかし今は、背中に感じている、遥香さんの温もりを感じている事が出来るならばそれで良い、と楽観的に考える事にした。神様なんてものがこの世にいるなら、自力で見つければ良いと思った。


 遥香さんの部屋を後にする時、彼女は「またね」と言った。「じゃあね」では無く、「またね」であった事から、遥香さんにまた、昨日から今日にかけての様に会える事を確信して、瑠璃と過ごす日々に再び戻る事を思って陰鬱であった気分が少し晴れた。

 現在の時刻は正午を少し過ぎた頃であり、今頃瑠璃は大学に赴いて、学部若しくはバレー部の友人達と学食で昼食を摂っている筈である。彼女には遥香さんの家を出る前に、友人の家で酔い潰れてそのまま寝てしまっていた、という釈明のメッセージを送信した。

 自室への道すがら、価格の安さと量の多さから、財布に一抹の不安のある大学生御用達である飲食店の店先に、クリスマスツリーが飾られているのを見て、もうそんな時期か、と時が過ぎるのを早く感じた。瑠璃と付き合ってもう一年以上が過ぎるが、楽しい事も確かにあった。自分に献身的に尽くしてくれる彼女の事を思うと、昨日の自分の行いと、こう思案している今でも、遥香さんに会いたいと思っている事に罪悪感が付き纏い、僕は人として有るまじき行為に及んでいる、と自覚させられて胸が痛んだ。償いには決してならないが、瑠璃に一層優しく接しようと思った。


 契約している古い白壁のアパートの自室に辿り着き、鍵を開け中に入って、僕は目を見張った。扉を開けた目の前の上がり框に、瑠璃が俯いて体育座りをしていたからである。

 僕が「瑠璃」と名前を呼んで肩に手を掛けると、彼女は呆然として顔を上げた。泣き腫らしたのであろう目は、真っ赤に充血していた。「──君」と今にも消えそうな声で呟くと、彼女は僕の外套の袖を掴み、顔を埋めて嗚咽を漏らした。

「何回も電話掛けたのに出てくれなくって、やっぱり私に怒ってるから、家に居たくなかったのかなって。もしかして、このままずっと帰って来ないんじゃないかって思ったら、不安で仕方無くなって」

 瑠璃の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

「ごめんよ、電話出れなくて。昨日は飲み過ぎたんだ」と僕は口から出任せを吐いて、彼女を宥めた。

「ずっとこんな所に居て寒かったでしょ、さ、奥に行こう」

 僕は彼女にそう促すと「うん」と答えて、彼女は立ち上がった。

 ずっと敷きっぱなしにしており、偶に日に干している布団に彼女を座らせてから、「ちょっと待ってて、何か温かい飲み物入れるから」と言って、僕は入学当初から使っている電気ケトルでお湯を沸かした。

 彼女は珈琲を飲めないから、彼女用に備蓄してあるインスタントの抹茶ラテをマグカップに入れて、僕は彼女の隣に腰掛けそれを手渡した。

 彼女がそれを飲む傍ら、僕は彼女に身を寄せて、一晩中泣いて、ぼさぼさになっているその頭を撫でた。

 暫くそうしていると、彼女が「煙草臭い」と言って、また眼に涙を浮かべるので、僕はもう限界かも知れない、と徐々に壊れていって再生する見込みの無い僕達二人の関係を、今この場でさっさと終わらせてやろうか、という感情に駆られた。しかし、泣いている彼女にそこまでの追い討ちを掛ける程酷くはなれないので、僕はただ黙って、彼女の隣に居る事しか出来なかった。


 僕の色褪せた日々に、再び色彩の戻ったあの日から、僕と遥香さんは、瑠璃や恒成さんの目を盗んで度々会うようになっていた。瑠璃がバレー部の大会や飲み会で僕の部屋に居ない日や、恒成さんが研究室に篭もりきりの日などは、お互いに、相手に適当な理由を付けて、どちらかの部屋で逢瀬を重ねるというのが常であった。幾度か遥香さんと会う内に、僕は瑠璃への罪悪感を感じる前に、その状況を楽しむ様になってしまっていた。

 瑠璃からも「最近──君何だか前より明るいよね」と言われる様になった。僕は「そう?」と適当にあしらうのであるが、その度に彼女は不安そうな、傷付いたような表情をした。もう数日後にクリスマスが迫ってくる頃から、彼女は悄然として、以前の溌剌さは薄れて行き、大学の講義も欠席しがちになっていった。

 やがてやって来たクリスマスイブは二人でケーキを食べて祝ったものの、その晩僕は彼女を抱くことも無く寝た。夜半に目が醒めて、いつの間にか布団から抜け出して、僕の部屋の茶色い座椅子に腰掛けた彼女が、啜り泣いているのが目に止まったが、僕は寝返りを打って彼女に背を向け、それを見なかった事にした。


 クリスマスも終わり、講義に何回か出席すると、大学のあまりにも短い冬休みが訪れる。瑠璃は例年、冬休みは丸々帰省する。地元にも友人の多い彼女は、期間中ずっと暇をする事は無いと言っていた。

 彼女が地元へと発つ日曜の朝、見送りに行った駅で、キャリーバッグを携えた彼女は儚く微笑んで、「じゃあ、また来年。元気でね。良いお年を」と言って汽車に乗り込んでいった。僕も「良いお年を」と返して、汽車が自分の視界から消えるまでホームに立っていた。駅の構内から出ると、僕は自動販売機で缶珈琲を買って、建物の横に設置されている喫煙所で紫煙を燻らせた。

 思えば、昨年の今時分も瑠璃とこの駅に来ていた。異なる点は、二人で同じ汽車に乗って、高速バスの出発地点であるバスターミナルへ行き、そこで行き先を別にした事くらいである。

 僕は今年の冬帰省しない事にしていた。地元の仲の良い旧友達は、アルバイトやら仕事やらで、僕のような、暇を持て余す輩の相手をしている余裕は無いらしい。その為、僕もこちらでアルバイトに勤しんだり、それ以外の時間はのんびりと過ごす事にした。

 好い加減、火種が口元に近付いて来たので、僕はそれを灰皿に擦り付けて捨てた。

 今日は遥香さんと海の見えるカフェでランチをする約束をしている。


 冬休みの始まる前、遥香さんの部屋のシングルベッドで二人布団に包まっている時に、恒成さんも冬休み中は帰省するという事を聞いた。同窓会やら、海外へ飛び立つ友人の送別会やらの予定が年内と年明けに跨り、悩んだ結果、大学の冬季休業期間中は実家で過ごす事に決めたらしい。「遥香さんは帰らないんですか」と訊ねると、「下手をすると雪で飛行機が飛ばなくなっちゃうから」と雪国出身らしい答えを言った。

 どうせ二人共こちらに残るなら、何処か遠くまで二人で行ってみようという話になって、様々の計画を立てた。

 二人の置かれている立場から、友人や知り合いに見つかる事は避けなければならなかった為、行く場所は比較的遠い場所に限られる。遥香さんと、お互いの相手に秘密で、生活圏外であるこれまで行った事の無い、二人の興味ある場所を共有してデートの予定を立てるのは、まるで、二人を阻む憂鬱な世界からの逃避行を企てている様で、気分が高揚した。彼女の灰色のノートパソコンを開き、二人して顔を寄せ合って画面を覗き込み、綺麗な景色の場所や、美味しいご飯の食べられるカフェを探していたが、そんな僕の内心が表情から漏れていたのか、彼女は僕と目を合わせて「すっごく楽しみだね」と微笑した。「はい」と僕も笑みを返しながら答え、彼女の顔に暫く見惚れ、堪らなく愛おしくなって、彼女の透き通る白い頬に左手を伸ばした。彼女の温もりが手のひらに伝わって来た。

「どうしたの急に」と彼女は照れて、僕から目を逸らし頬を少し桃色に染めながら、細くて美しい指で僕の手の甲に触れた。

「いえ、遥香さんはやっぱり綺麗で可愛いって思ったら、何だか触れたくなって。」

「もう」

 どちらからともなく唇が重なった。


 集合場所である二人の最寄りのバス停に、約束の時刻より十五分程早く着いたので、僕は設置されているベンチに腰掛け、読みかけの文庫本を開いた。

 遥香さんはバスが到着する二分程前に、息を切らせながらやって来た。

「ごめん、遅くなって」

「いえ、時間通りですよ」

 大きく息を吐いて呼吸を整えると、彼女は「アパートの外に出てからお財布忘れちゃった事に気付いて、急いで取りに戻ってたの。何処かに出かける時って、いっつも何か忘れ物しちゃうのよね」とにへら笑いをしながら言った。遥香さんと頻繁に会うようになって気付いた事であるが、彼女にはこういった、瑠璃には決してないお茶目な一面がある。瑠璃は僕からしてみれば完璧主義で、何事も事前準備をしっかりしてから臨むのが常であった。僕には生来、何とかなると思って、何事もおざなりにする節があり、瑠璃に合わせるのが正直しんどいと思う事もしばしばあった為、遥香さんのように多少抜けている所のある方が親しみも持てたし、気が休まった。何よりそういった所のある方が可愛げがある。

 そう思った所で、彼女も恒成さんの前では、本来の気質を出さないように気を張っているのか、と考えると、以前大学近くの喫茶店で言われた、「この子は私と同じだって思ったの」という言葉が脳裏に甦って、恒成さんと別れて僕と一緒になってくれれば良いのに、と自分も瑠璃と別れる事が出来ていない癖に、自分勝手な思いが胸に去来した。

 間もなく、目的地の近くに向かう青い屋根のバスが僕達の前に停車した。乗り込んで整理券を取り、僕達は一番後ろの向かって左側の席に座った。遥香さんが自然に僕の右手に指を絡ませて来たので、僕もその手を握り返した。

 寒空の下で小説なんか読んでいたからか、「冷たいね」と言って、彼女はもう片方の手も伸ばし、僕の手を包み込んだ。陽だまりの様に温かかった。

 僕達以外の乗客は、バスの前の方に座っている仲睦まじそうな老夫婦と、ヘッドホンをして何やら聴いている、僕と歳の近そうな女性の三人だけであった。

 暫く遥香さんと、海に行くのなんて久しぶりだとか、着いたら何を食べようだとか、他愛の無い会話をしていたが、彼女は昨晩あまり眠れていなかったのか、僕の手を握ったままうつらうつらとし始め、やがて眠気に抗えず、その小さな顔を僕の肩に委ねて眠ってしまった。

 彼女の確かにここに居るという優しい体温を感じながら、バスに揺られる時間が続いた。耳元から聞こえるスースーという寝息が、僕の鼓膜を心地好く撫でている。彼女からする香水の良い匂いを嗅ぎながら僕は、もし自分の生きてきた、これまでの長いとは決して言えない時間に意味があるなら、それは彼女に出会うためであって欲しいと強く思った。運命の人なんてものが本当にいるならば、彼女以外有り得ないと、僕は彼女の手を握る力をほんの少しだけ強くした。


 僕達の降りなければならない停留所が次に迫ったので、僕は遥香さんを起こして、壁にある次止まりますボタンを押した。

「ごめんなさい、私いつの間にか寝ちゃってて」

「大丈夫です。ほんと気持ちよさそうに寝てましたよ。」

「昨日の夜、色々な考え事をしてたら全く寝られなくって。勿論今日の事も考えてた。そしたら楽しみで、何だか小学生の頃の遠足の前の日を思い出したわ」

 目を擦りながらそう言う彼女を見ていると、何故だか彼女が今にも僕の目の前から、波打ち際の小さな泡のように消えてしまいそうな気がした。彼女とは今後ずっと一緒に居られない様な、そこはかとない絶望と言うにはまだ小さな感情を抱いた。だからこそ尚更、彼女と一緒に居たいという願望は強くなって、僕達のまだ知らない、永遠だとか世界の秘密だとかを求めて、遠い宇宙の深淵に手を伸ばしているような気持ちになった。


 海沿いの停留所に着き、運賃を払って僕達はバスを降りた。時々近くの浜から飛ばされてきた白い砂の目立つ歩道を、僕達は手を取り合って歩き、陽光を反射してきらきらと輝く浅葱色の海に、目を奪われては足を止めた。

 やがて海水浴場と国道を隔てて道路沿いにある、白い三角屋根のカフェが視界に入ると、僕達はそれのある側の歩道へと、横断歩道の白線だけを踏みながら、無邪気に声を上げて渡った。

 海辺のカフェは調度品を白で統一しており、壁面は淡い水色に塗装されていた。店の奥の方は一面ガラス張りになっており、道路を挟んで広大な白浜と限りない水平線を臨む事が出来た。沖合では大きな貨物船が、煙突から煙を立ち上らせながら、悠然と進んでいた。

 店内は日曜だというのに割と空いていて、僕達は店の一番奥の、海が良く見える席に座る事が出来た。

 テーブルの端に置かれているメニューを開いて暫し悩み、彼女はパエリアを、僕は相当迷いながら結局、店の壁に掛けてあるブラックボードに書かれていた日替わりランチを、水色のエプロンを付けた若い店員さんに注文した。今日の日替わりはアジフライらしい。

 料理が到着するまで、僕達は窓から海を見ていた。僕も遥香さんも生まれ育った場所が海から近かった為、「懐かしくなるね」と頷き合って、郷愁に浸った。

 

 食後の珈琲を啜ってから、砂浜に下りてみようという話になったので、僕達は店を後にした。再び国道を渡って、眼下に広がる海水浴シーズンは人で賑わっていた筈だが、今は打ち上げられた流木で羽を休める数羽のカモメが居るばかりの白浜へ続く階段を下った。

「久しぶりの海だぁ」と遥香さんは波打ち際に向かって無邪気に駆け出した。彼女の今年の夏は、アルバイトやゼミの課題で日々を忙殺され、気付いたらお盆も過ぎていて、海へ泳ぎに行く様な季節でも無くなっていたらしい。かくいう僕も、海に来るのは今年の春帰省した際、旧友に誘われて行った魚釣りの時以来だったので、内心は彼女と一緒に駆け出したい面持ちであったが、二人揃ってそうすると見てられない光景になりそうであったので自重した。僕は昔からカナヅチで、それは今も変わらない為、海で泳いだりといったことには魅力を感じないが、ただぼーっと海を眺めて煙草を燻らせたり、缶珈琲を飲んだりするのは好きであった。故郷に居た頃は、暇を持て余すと何とは無しに海辺に赴き、その時々によって違う、決して同じという事の無い海の様々の表情を眺めていた。

 僕は一歩一歩砂を踏み締めながら、彼女に追い付く為にゆっくりと歩き出した。

 彼女は、半永久的に寄せては返す波打ち際にしゃがんで、その様子をじっと観察していた。

 隣に立った僕を見上げて、彼女は「どうして波の音ってこんなに落ち着くんだろうね」と問い掛けて来た。

「僕達の遠い先祖が暮らしてた所だから、じゃないですか」

 僕はそう言いながら、彼女の隣へしゃがみ込んだ。

 彼女は視線を揺れ続ける水面に戻して「本当にそうなのかもね」と呟いた。

 色素の薄い澄んだ空から降り注ぐ陽の光を、乱反射して燦然と輝くスパンコールな波際が、彼女の瞳に映り込んでいた。

 切れた海藻の欠片や小さな木片が、水中でゆらゆらと上の空で絶え間なく漂っている。


 冬休みの間中、遥香さんと様々な所を巡った。出来てからまだ間もない水族館や、鬱蒼と緑の木々が茂る植物園、自家製プリンの美味しい喫茶店や、海鮮の美味しい居酒屋など、全部挙げれば枚挙に遑がない。

 年越しも二人で迎え、初詣にも行き、そこで貰える御神酒で乾杯もしたりした。

 幸せであった。ずっとこの日々が続けば良いと、心底願った。

 しかし、僕も彼女もこの安逸な日常が長くは続かない事を、心の片隅では何時も感じていたし、それをお互いが理解していた。

 自分達がどれだけ幸福であろうと、他人からすれば僕達の重ねた逢瀬はただの浮気であり、許されざる悪事とされるものである。

 このまま互いの相手に隠し通せる筈はないと分かっていた為、いざその瞬間が訪れても僕は冷静であった。

 瑠璃とは一日数回、スマートフォンでやり取りをしていたが、冬休みの終わる数日前から、連絡がぱたりと止んでいた。


 短かった大学の冬季休業期間が開け、年が明けて間もないという事もあり閑散としていた大学を訪れ、最初の講義を受ける為に教室に入ると、僕はすぐその異変に気が付いた。僕に向けられる視線という視線から敵意を感じた。それを無視して席に着くと、近くに座っていた同学部の悪友が「なぁ、お前ガチ?」と無粋に訊いて来たので、僕は彼を睨め付けながら「何が?」と答えた。

「恒成さんの彼女さんとの事」と彼は顔を寄せて小声で僕に耳打ちした。

 合点がいったので「何だ、その事か」と僕は興味を失って文庫本を開いた。

「何だって何だよ。それで瑠璃ちゃん寝込んじゃったらしいのに」

 そこで僕は漸く、瑠璃が教室に来ていない事に気付いた。彼女には申し訳の無い事をしたと思いつつ、そろそろ潮時だとも思った。

 講義が終わり、僕がさっさと立ち上がって教室を後にしようとすると、件の彼から呼び止められた。

「まぁ、気に病んでヤケ起こすなよ。俺はお前の友達だからな。また今度しっぽり飲もうぜ」

 彼は僕を励ますように微笑んだ。全くもって的外れな心配であるが、彼は善意で言ってくれているので、僕も「ああ、ありがとう」と感謝の意を伝えた。彼は人の心の機微には疎いが悪いやつでは無く、素直に他人を心配する事が出来るやつなので、僕は彼が好きであった。


 正午を過ぎて、多少は賑わいを見せるようになった大学を後にして、僕は遥香さんの家に向かった。彼女には先程の講義中にスマートフォンでメッセージを送って、居室に居るかどうかを確認しておいた。今日は一日中部屋に居るという事だったので、これから向かうという旨を伝えた。

 雲一つない淡い空で、大きな翼を広げて飛んでいた鳶が、風に煽られて蹌踉めいていた。

 彼女のアパートに辿り着き、外付けの螺旋階段を三階まで登る。彼女の部屋へと続く廊下の手摺壁から外に目を遣ると、幾度となく見た景色が視界に入ってきた。

 幾つかの部屋を汚れた靴で通り過ぎ、彼女の部屋の前に辿り着くと、大きく溜息を吐いてから僕は玄関のチャイムを鳴らした。数秒待つと、カチャっと鍵を開ける音が聞こえ、扉が開いて遥香さんが顔を覗かせた。相変わらず僕の胸を優しく撫でる綺麗な顔であったが、何時もと違う所は、その目元に涙の跡が見て取れる事であった。

「待ってた。奥行って座ってて。珈琲入れるから」

 僕は彼女に促されて、部屋の真ん中の楕円形のテーブルの前に腰を下ろした。廊下からは彼女が食器に触れるカチャカチャという音が聞こえている。

 やがて彼女は、白い湯気を上げるマグカップを二つ持って、廊下から入ってきた。

 珈琲をテーブルに置きながら、彼女は僕の隣に腰掛けると、「さっきまであの人が居たの」と徐に話し始めた。

「初めてあの人と声を上げて喧嘩したかも知れない。これまでに思ってた事も全部口に出したわ。あの人凄く面食らってたけど、それでも君との事を詰めてきた。私は何も言い返せなかった。泣くつもりなんて無かったけど、どうしてかしらね。勝手に涙って出て来るのね」

 彼女はまだ赤く腫れている潤んだ瞳で、マグカップから立ち上る湯気を遠い目で見詰めた。

「それでね、長い間あの人と色々話したんだけど、彼とは別れる事にしたの。あの人は嫌だって言った。浮気をされたけど、それも許すって言ったわ。俺はまだ私の事が好きだって言って。でも、もう私はあの人に対して、何の情も抱いて無いって事に気付いちゃったから」

 そこまで言うと、彼女は僕の目を見詰め「ねぇ──君。瑠璃ちゃんと別れて私と付き合ってよ」と何か憑き物が取れたように、晴れやかな声で言った。

「はい」と僕は答えて彼女を抱きしめた。彼女の温もりを感じて、僕はいつか必ず来る、彼女が僕の前から姿を消して無くなる日まで、僕にある全てを賭して、僕の胸の中にある人を永遠に愛そうと誓った。

 

 僕には、まだ終わらせる事の出来ていない瑠璃との関係が残っている。その関係に上手く幕を引く事が出来たとしても、僕と遥香さんの前に横たわる未来は杳として不可知で、もしかすると峻険であったり、時化ていたりするかも知れない。でも、遥香さんと二人であれば、例えそれが悪あがきであったとしても、大丈夫だと思った。過去の悲しい話は消えないけれど、彼女と二人なら、《《》》ふらつきながらでも、明日はもっと輝いていると信じて、この星の果てまでも走り抜けられる気がした。


 遥香さんの部屋を出てから、僕は外套からピースライトとライターを取り出して火をつけると、スマートフォンを開き、瑠璃の携帯へ電話を掛けた。

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