第七章 ムツメミドリ

第1話

 朝起きて、開口一番。



「髪を切ろうと思うの」



 途端にロアは目を見開いて、豊かな毛並みを針のように逆立てた。



「髪? 髪を切るの? ペラペラの紙じゃなくて、リリィの頭に生えてる髪を?!」

「そうだよ。伸びてきたから、鬱陶しいなと思って」

「どうして切るの!」



 ロアは体毛を針のように逆立てる。



「切りたいからだよ。そうそう、世の中には、全身がトゲトゲに覆われた動物がいるらしいね」

「そういうニンニク、今はいいから!」

「ウンチクね」



 ロアは耳を垂らし、右往左往している。

 散髪の当日はいつもこうだ。少しは慣れて欲しい。



「髪を切るときには少なくても一か月前から予告してよ」

「毎日何が起こるか分からないからムリ。できるときにするの」

「じゃあ丸坊主にしてよ。それか髪を引っこ抜いて、生えないようにして」

「なら、ロアも同じようにしようね」



 狼は子どものように顔を伏せて泣き出した。



「ひどいよ、ひどいよ。僕はもうこの家に住めない。家出してやる!」



 ロアは雪の森へ飛び出した。私は慌てることなく開けっ放しの扉を閉める。

 ヘアカットにはつきもののプチ家出宣言。少し待てば帰って来るのがお決まりのパターンだ。

 薄焼きパンと香草茶を用意し、読みかけの本のページを開く。

 お行儀は悪いけど、本を片手に食べると美味しく感じるのはなぜだろう。

 十ページほど読み進めて薄焼きパンを半分食べた頃、狼が尾を引きずりながら戻ってきた。

 外出先での出来事を悲しそうに教えてくれる。


 まずは薄氷の木に話し相手になって欲しいと相談をしたが、あっさり断られた。森の南側に新しくため池ができ、そこの水をみんなで飲みに行く約束があるそうだ。



「僕より飲み会が大事なんて、薄情だぁ」

「あなたも参加すれば良かったじゃない」

「そんな気分じゃなかったんだよ!」



 次にイワカジリに助けを求めた。

 巣穴にいくら声をかけても出て来ず、腹を上にして泣きわめいたところ、数匹が慌てた様子で現れた。必死の説得もむなしく、ディナーショーの準備で忙しいと渋られてしまった。



「泣きわめくなんて迷惑でしょう。それにしても、イワカジリのディナーショーか。なにをするのかとても気になる。見に行きたいけど、今日は髪を切りたいし……」

「僕の心配をしてよ!」



 家出を失敗した狼に、雪の森最強の威厳はない。ハグしたくなる可愛さがあるが、まだ朝の日課を済ませていない。励まして出発しよう。



「群れに里帰りするのはどう?」



 思いつきだが名案だと思う。群れで羽を伸ばせば良い気分転換になりそうだ。

 ロアの表情はみるみるうちに明るくなる。



「そうだ、その手があったね!」



 機嫌はすっかり元通り。浜辺へ向かう。

 もうすぐ日が昇る。慌てて回収作業を始めたが、幸か不幸か、記録するほどのものは落ちていなかった。

 貝殻をいくつか拾い、何事もなく帰宅してロアを送り出す。

 今日は外出には勇気がいる空模様だ。黒毛狼は活動的だから少々の悪天候では物おじしない。きっと良い帰省になる。

 と、思いきや、ゆっくりと自宅の扉が開いた。

 里帰りは失敗したらしい。その理由は突拍子もないものだった。



「氷玉を失くしたんだ」



 うん、なんだって?



「氷玉」

「そう、氷の玉だよ」

「でしょうね」

「リリィ、怒らないで。ちゃんと話すから。ねっ?」



 雪の森には黒毛狼の群れが八つある。

 一度グループを作ると黒毛狼は基本的に他の集団に干渉はしない。一生のうちに関わるのは群れの仲間のみ、なんてこともよくある話だ。

 多くの仲間がいるのに知り合うのはごく一部だけ。それは寂しいし、もったいない。森に住む者同士たまには交流しようということで、球技大会が企画された。

 ルールは簡単。二つのチームが氷玉を蹴って奪い合い、相手チームの陣地に入れる。入れた回数が多いチームが勝ちだ。


 黒毛狼は闘争心が強い。交流戦といえども、どのチームも本気で優勝を狙っている。

 里帰り先も事情は同じで、最強の座を目指して猛特訓の真っ最中。みんな血眼で練習をしていた。


 ロアが見学していたところ、氷玉が紛失する事件が起きた。

 一緒に氷玉を探しながら、ロアはなにをしているんだろうと思った。ここではリラックスできない。自宅の方がマシだと考え、帰宅したそうだ。


 球技大会に、ディナーショーに、飲み会か。

 雪の森は平和だ。



「事情は分かったよ。でも群れが忙しないから戻るなんて、らしくないね」

「そうかなあ」



 逃げようと思えばできたはずなのに、それをしなかった。我が家に留まる以上はそれなりの覚悟があるってことだ。この後何かが起こっても乗り越えるしかない。



「そろそろムツメミドリを呼ぶよ」

「いいもん。僕はこれから全力で寝るんだ。起こさないでよ」



 黒い流線形は木箱へ一足飛び。お気に入りの毛布に身を包み、動かなくなる。

 健気な抵抗を横目に、寝室横の扉を開けた。

 ここはトイレだ。

 トイレは自宅に隣接した大岩の中にある。

 天然の水晶が作る天井はほのかに青白く、壁は絵画や骨董品が飾られ華やかだ。木製の本棚には冊子が整然と並ぶ。

 部屋の突き当りには岩の台座が一つ。台座の中央に穴があり、座って用を足す。


 私はためらいなく穴の中を覗き込む。ムツメミドリはこの中に住んでいる。

 ムツメミドリは島の掃除係。死骸や排泄物が主食だ。島の衛生環境を保つだけでなく、外敵から身を隠すのにも一役買う。

 排泄物は縄張りのアピールができる一方、生活拠点がバレる。だから天敵が多い小動物は身を守るためにムツメミドリの近くで暮らす。排泄物を食べてもらい居場所を隠す。

 私もそう。ここを拠点にしたのはムツメミドリが棲む大岩があるからだ。たくさん話して遊び、友達になって家を構えた。楽しく生活できるようにトイレはおしゃれで快適になるよう意識している。

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