第5話
おばあさまは避けなかった。
手のひらに残る不快な感触と赤く染まる衣服。
我に返りナイフの柄を離しても、事実は変わらない。
刺した。私は刺した。刺してしまった。
「あ、あの。私、私は……。それより血が! おばあさま、血を止めないと! ごめんなさい、本当にごめんなさい……!」
止血をしようとした手は払われた。おばあさまは深く椅子に座り直す。
「必要ないよ。老いぼれはこの辺りで退場。大往生さ」
空気が抜けるような乾いた声に、死を間近で感じて、私は今にも泣きそうだった。
「おまえのそんな顔、初めて見たよ。私の幕引きに相応しい顔だ。さあ、引き継ぎをしようじゃないか。今日からおまえが私の代わりになるんだよ」
「私はおばあさまにはなりません!」
手当をさせて欲しいと思うが、老婆に片手で制止される。致命傷を感じさせない、すごみのある動作だった。
「なるんだよ。お前はどんなに苦しくても記録をとり続けなくてはならない。何も持たず最果てで生きるのは地獄だよ。お前は賢い。何が起きても黙ってついてきたように、これからも図太く生きるんだ」
「だって、それは……仕方なかったんです」
「違うな。お前は生き延びるためにそうすることを選んだのさ。目を逸らすんじゃないよ、これは始まりだ。喜びな。新しい門出を盛大に祝ってやる」
おばあさまは深々と刺さる刃の柄を握り引き抜いた。傷口からおびただしい量の血液が流れ出す。
私は必死になり両手で傷口を抑えた。出血は止まらず、抑えても溢れてしまう。
初めて知った。生きている血が、こんなにも生臭くて、赤くて、温かいなんて。
おばあさまの顔は白くなり、腕がだらりと垂れた。だんだんと呼吸が浅くなり、やがて心臓が止まった。
血の海の中で、なにかをやり切った満足そうな表情をしている。
私を置き去りにして、そんな顔をするなんて卑怯だ。
「おばあさま、おばあさま、返事をしてください。お願いします。私が悪いんです……」
感情がごちゃごちゃだ。理不尽でいつも怖かった。なのにいなくなると寂しくて、嫌いになりきれない。
こんなにもおばあさまを頼りにしていたなんて、気づかなければ良かった。
声を出しひたすら泣いた。やがて涙が枯れると奇妙なほどに視界が良好になり、気持ちが冴えていく。
本当に死んでしまった。私が殺したんだ。
枯れたはずの涙が頬を伝う。いくら泣いても刺した事実は変わらないし、命は戻らない。なら、少しでも許してもらえるように弔おう。
ぐったりとした体を床に下ろし寝かせる。傷口を縫い、血で汚れた体を拭き、清潔な服に整える。
森で花を探した。何日もさまよい歩き、ようやくまるまるベリーの実を見つけた。少しでも華やかに埋葬したい一心だった。
不思議なことに遺体は腐らず乾燥していく。実験台の死骸はどろどろに溶けたが、おばあさまは特別なのだろうか。
埋めるための穴を掘り終えたとき、干からびた肉体の胸元から小さな芽が出た。
芽は複数の細い糸をするすると伸ばし、絡まり、一本の茎となった。茎の先には乳白色の固い蕾が膨らみ、その中から懐かしい怒鳴り声が聞こえるような気がした。
「おばあさま、私はここです。ここにいます」
答えはないまま、いくつもの花弁が蕾を覆う。
そして白妙の蕾が咲いた。
「リリィ、リリィ!」
呼ばれている。私をいたわる優しい声。
真っ黒な体毛、湿った吐息、こちらを見つめるつぶらな瞳。
ロアだ。
「すっごく汗をかいているよ。大丈夫? おもらしとかしていない?」
「なんでそうなるの。ロアじゃあるまいし」
「ぼ、僕はおもらしなんて……」
「三日前に寝床をダメにしたのは誰だっけ?」
「……はい、僕です。」
ロアの軽口に体の力が抜ける。
ひどい悪夢だった。
落ち着け、心臓。これくらいの悪夢はなんてことない。
あの日に囚われながらも、生きて償い続ける。そう心に決めてこの家を出たんだ。おばあさまがわざわざ夢に出てきてくれた。怯えていたら感謝の気持ちが足りないと叱られそうだ。
おばあさまには二度と会いたくない。けれど、ときどき思い出しては、もう会えないのだと胸が苦しくなる。
これが誰かが死ぬということなんだろうか。
「ロア、一緒に寝ない?」
「一緒に? 僕とリリィが? 寝る寝る! 一緒に寝る!」
ロアは頭から毛皮の下に潜り混む。
「嬉しいなあ。リリィの近くで寝るのはすっごく久しぶりだよ」
「獣臭さは妥協してあげる。ただし、いびきとよだれは禁止。おねしょは自分で片づけて」
「どれもしないよ。僕頑張る!」
黒い体毛に顔をうずめる。生ごみを煮込んだような匂いはするけれど、ふかふかでぽかぽか。マイペースな心臓の音がする。
この鼓動は当たり前じゃない。いつか失う命に入れ込みすぎると、別れが辛くなる。
黒毛狼の寿命は人間と比べて短い。
おばあさまとの日々が永遠でないように、ロアとの毎日もいつか終わりが来る。
理屈では分かっている。でも、私はロアがいる日常が愛おしくて、いつまでも続けばいいと願う。
心地良い温かさが恋しくて手放せない。
このまま一緒に、どこまでも行けたらいいのにと思う。
ぎゅっと目をつむる。
今だけはなにも考えずに、このぬくもりに甘えさせて。
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