第3話
ロアに服の予備とタオルを持って来てもらう。
アシナガ兎の血抜きが終わった。ロアと協力をして温水から引き上げ、調理場へ運ぶ。
「僕、もう少し泳いでくるね。水中で五秒間息を止められるようになったんだよ。次は十秒に挑戦するんだ!」
「分かった。食事ができたら呼ぶね」
調理場にはあらゆる器具が揃う。大中小の鍋、沢山の刃物、実験体を拘束する道具。
ここは生態系を研究する作業台だった。今は食事を作る場所だ。
並ぶ刃物を手にすれば違和感しかない。
調理場を正しく使っているのにしっくりこないのは、罪悪感があるからだ。料理をすると悪いことをしているような気持ちになる。
私は実験で苦しむ生き物を見殺しにしてきた。あの日救えた命を見捨て、生きるために食事を作ろうとしている。
なんて身勝手なんだろう。
いっそ、このまま食べ物を口にせず死んでしまったほうが良いのではないか。暗い感情が腹の底からむくむくと膨れ、全身を支配しようとする。
慌てて頭を振る。
また考えすぎている。何度もロアに注意されているのにネガティブ思考は止まらない。
罪悪感から食事を抜いても、亡くなった命は戻らない。
命を大切にして、罪を抱えながらも、目の前の命と向き合う。
それが私なりの過去に対するせめてもの償いだ。
アシナガ兎を前に祈りを捧げる。
「これからあなたを料理します。私達の血肉になってくれてありがとう。大切な命、無駄にせずいただきます」
アシナガ兎は体を丸めている。これは防御の姿勢だ。命を脅かされると急所の腹部を庇い、筋肉を硬くする。
全身が鉄板のようになり刃が通らないため最初に腹の筋肉を断つ。急所には筋肉を制御する器官があり、そこを壊して筋肉をほぐす。
肉切り包丁を腹を庇う手足の隙間に入れて力いっぱい突く。
アシナガ兎の緊張が解け、強靭な足が勢いよく伸びる。その先にあるのは調理場の壁だ。
ドカン!!
見事な穴が空いた。
やってしまった。壁に向かい深々と頭を下げる。
「おばあさま、大切な家に傷をつけてしまいました。ごめんなさい」
「リリィ、どうしたの?」
「壁に穴を空けちゃった」
「素手で?! リリィもついにここまできたか……」
「そんなわけないでしょう。アシナガ兎の足が当たったの」
「なーんだ、残念。まあ、そういうときもあるよね」
ロアとのやり取りが気持ちを軽くしてくれる。生きていれば失敗もする。気にしなくても大丈夫だ。
狼のはしゃぐ声が聞こえる。また泳ぎに出たみたい。
気を取り直し作業に戻る。
内臓を除き、頭を落とし、毛皮を剥ぐ。全て丁寧に洗い桶に入れて保管する。
調理台には料理に使う肉を残し、他の部位は自宅に持ち帰り加工する。胃袋は靴底の補修に使える。脳は胃腸薬に、鋭い前歯は短刀になる。
もらった命は無駄にせず、余すところなく使う。それが私の弔い方だ。
肉の臭みを薄めるために腹にもぐもぐ石を詰める。岩塩と香草をすりこみ、鉄板へ移す。
油と火種を混ぜたものを鉄板に塗れば数分で熱くなってきた。
肉の上に乾燥させた星屑草を乗せて蒸し焼きにする。星屑草は有毒だが、料理では臭み取りに使える。
溶けた油が鉄板の上で踊り、胃がきゅうっと動き出す。思っていたよりお腹が空いている。
星屑草が燃え尽きる頃、ロアが調理場に顔を出した。
「ねえまだ? お腹がぺこぺこだよ」
「もうすぐだよ」
付け合わせのスープを作る。
肉を大皿へ移し、鉄板に残った油を集めて鍋へ。湖の温水とアシナガ兎の骨を加えて沸騰させる。器に盛り付けたら夕食のできあがりだ。
本日のお品書きは、星屑草の包み焼きとアシナガ兎の骨のスープ。
湖の畔でアツアツをいただく。
兎の丸焼きの肉は分厚く、しきりに油の汗をかく。香りはクセが強く、まともに吸えばむせてしまいそうだ。目と鼻が染みるように痛み、思わず息を止めたくなる。
これはアシナガ兎の体臭だ。星屑草のおかげでかなりマシになったが我慢するしかない。
息を止めて丸焼きにかぶりつく。塩と香草が肉の味を引き立て、噛むたびに肉汁が溢れだす。臭くて涙と鼻水が止まらない。それでもまろやかな肉の味が恋しく、つい口にしてしまう。
スープはほのかな塩味があり、油分は多いが喉越しはさっぱりとしている。口内に残る肉の臭み消しにも役立つ。
アシナガ兎の油と骨は栄養価が高い。温水と一緒に摂取することで、体内への吸収率が良くなる。
食べられるときにしっかり食べておかなきゃ。
「お肉がこんなに、たーくさん! 幸せすぎてお腹を壊しそう」
「トイレと友達だね」
ロアは食べ物が喉に詰まった表情をした後に、肉の半分を別皿に移し始めた。一度に食べず明日の分にするらしい。
その仕草がいじらしくて笑う。ロアらしくない賢い判断だ。
「次はお腹に優しいご飯が良いなあ」
「定番メニューなら今朝も出したよね」
「そうじゃなくてさ。もう、分かってるくせに」
薄焼きパンと香草茶は腸内環境を整えるからとても優しい。ただ、ロアが食べたいのは普段とは違う料理だ。
思いつかない。なにかあるかな。
本棚から持ち出したレシピの本をめくる。挟まっていた紙がするりと落ちた。
紙には絵が描いてある。折れそうな細い茎にふっくらとした大きな花。
用紙をつまむ指先に力が入る。
「すごーい。きれいな絵だねぇ」
「そうでもないよ」
能天気な声から遠ざけるようにして、レシピ本へ挟み直す。
「でも、どうしてそんなところから出てきたんだろうね」
「なんでだろうね」
本を背中の後ろに隠し、平静を装いながら肉を頬張る。
あれは、私が白妙の蕾が咲く原因を調べるために描いたものだ。
原因が分かれば開花をコントロールできるのかもしれない。そんな淡い期待は、すぐに裏切られた。
白妙の蕾は死者を大切に思う心に反応して咲く。
森に住まう者達が開花できないのは今を生きるのに精一杯だからだ。
食べる物がなければ仲間を殺して口にするときもある。誰かの死に思いを馳せながらも、あれは次の自分かもしれないと怯える。
そんな精神状態では、死者を心から大事にするのは難しい。
この島では私の考え方が特殊なんだ。人が亡くなれば葬式を行い埋葬する。人間の世界では一般的に行われる様式が島にはない。だから私だけが花を咲かせる。
白妙の蕾を避けるには棺を放置するしかない。その選択肢が私の中にない以上、芽吹き続ける。
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